軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

403.春の風物詩

「ハァ……ハァ……ッ、ハァ、ハァ……ッ!」

肺が焼け付くような熱を帯び、喉の奥が鉄の味で満たされる。

石畳を叩く自らの足音さえ、今のエドには絶望を煽る早鐘にしか聞こえなかった。

薄暗い裏路地。

湿った空気の中を、少年はなりふり構わず駆け抜ける。

ふと、背後に向けて投げた視線の先――影が、蠢いた。

「ゲギギギギギギギギギギッ!!」

鼓膜を抉るような不快な鳴き声。

そこには、人の形を歪に引き伸ばしたような体躯に、夜の闇を凝縮したような巨大な蛾の翅を持つ異形がいた。

――魔獣:モスマン。

ノアレイン公爵家の抱え料理人であり、本来なら厨房で包丁を振るっているはずの少年エドは、裏返った悲鳴を上げる。

「こ、これ! 冗談抜きでシャレになってないんじゃぁぁぁぁッ?!」

直角に近い角を、壁に手をつきながら強引に曲がる。

直後、背後で「ガラガラッ!」と激しい破壊音が響いた。モスマンが古びた日除けに激突しながらも、強引にその巨体を旋回させたのだ。

だが、絶望の先には、常に光がある。

路地の出口。

そこには春の眩い太陽が溢れていた。エドは救いを求めるように、その光の中へと飛び出した。

「……え? うわ、うわぁぁぁぁぁぁッ?!」

そこは、道ではなかった。

かつての栄華を今に伝える城郭の遺構。切り立った石造りの急斜面が、眼下に広がる街並みへと直滑降で続いていた。

ここは王国ノアルディア領、ルインフォード地区。

エドの主であるファウスティン・ド・ノアレイン公爵が統治する、城郭都市の中心部である。

「う、あわわわわ! 止まれ、ない、止まれないッ!」

エドはもつれそうになる足を必死に回し、重力に身を任せて斜面を駆け下りる。勢いそのままに、密集する民家の屋根へと飛び移った。

「ギギギギギギッ!」

モスマンは執拗だった。獲物を決して逃がさないという意志を感じさせる速度で、空から急降下してくる。

空を舞う捕食者に対し、地を這う人間――圧倒的な不利。しかし、エドは文字通り死に物狂いの健脚を見せ、屋根板を蹴散らして疾走した。

「おい! うるせえぞ! なんだ、ガキが屋根の上を……って、お、うぉっ! モスマンだぁッ!」

騒音に腹を立てて窓を開けた男性が、頭上の異常事態に顔を氷つかせる。

「はい! すみません! ごめんなさいッ!!」

エドは謝罪の言葉を投げ捨てながら、なおも止まらない。

一方で、別の窓辺で優雅に花に水をやっていたふくよかな貴婦人は、頬に手を当てて目を細めた。

「あら〜、いやだわ、モスマンじゃない? ……ふふ、そうね。もう春なのねぇ〜」

季節の風物詩を見るような、あまりに悠長な呟き。

(情緒を感じてる場合かよ!)とツッコミを入れる余裕すら、今のエドには残されていない。

ついに、屋根の連なりが途切れた。

「あわっ、あわわわっ! あぁぁぁぁぁぁッ!」

仕方なく方向転換。急勾配の屋根を滑り落ちる。

すかさず、

強制的なフリーフォール。

エドの体は宙に投げ出され、視界が上下に反転する。

突き抜けるような青空と、自分を追い詰める魔獣の姿がスローモーションのように流れていく。

だが、その直後、彼の背中を柔らかく、かつ力強く弾き飛ばすものがあった。

――バイ〜っん!!

窓辺に張り出された麻の 庇(ひさし) が、ちょうどよくトランポリンと化して彼を救ったのだ。

しかし、跳ね上げられた体は無防備そのもの。このままではモスマンの鋭い爪の餌食になるか、あるいは再び地面に激突するだけだ。

(何か……何か掴めるものはッ!?)

刹那、エドの視界に一本の紐が映った。

「パシッ!」と、まさに藁をも掴む思いでその紐を握りしめる。

「バキッ!」と鈍い音がして、壁に固定されていた物干しロープの基部が派手に壊れた。

「ぎゃあああああああああああッ!!」

もはやターザン状態。

エドはロープにぶら下がったまま、振り子のように大きく弧を描いて宙を舞う。

その向かう先――。

廃教会の塔、その崩れかけた足場に、一人の男が立っていた。

銀髪を風になびかせ、不敵な笑みを浮かべる男。エドの主、ファウスティンである。

「よーし! 上出来だぞ、エド。見事な囮役だった」

彼はまるでチェスの駒を動かすかのような冷徹さと、狩人のような熱情を瞳に宿し、愛銃を構える。

水平二連魔導銃:スクリーミング・ディーモン。

その撃鉄が、死を告げる軽やかな音を立てて落ちた――カチャリ。

「ヒィィィィィィィィィィィッ!」

エドの絶叫。

直後、背後から迫る「ギシャア! ギシャア!」と、死を予感させる咆哮。

エドは意を決して、ロープから手を離した……。

その刹那、空気を震わせる轟音――。

モスマンがその生涯の最期に目にしたのは、太陽よりも眩い魔導の閃光だった。

――一方、

塔の内部へと放り出されたエドは、中心に垂れ下がる太いロープを反射的に掴み取った。

「パシッ!」と掌に伝わる摩擦熱。

「え、う、うわわっ?!」

だが、そのロープは彼の体重を受けて急速に下降を始めた。どこにも結び付けられていなかったのだ。

そう直感する。

(終わった……今度こそ終わった……!)

死を覚悟したエドだったが、意外にも下降速度は一定以上には上がらない。

(あ、あれ? こ、これなら……着地できるかも?!)

生存の確信を得て、ロープを力いっぱい握りしめた、その時だった。

「ブォォォォン!!」という、空気を切り裂く巨大な質量の移動音がエドのすぐ隣を掠めるように通り過ぎる。

「あヒィィィいッ!?!!」

猛烈な勢いで上昇していく巨大な鉄の塊――鐘だった。

エドはカエルのように身を縮こませた。

どうやらこのロープは、滑車を通じて巨大な鐘を引き上げるための重りと対になっていたらしい。

ようやく、塔の床に足がついた。

エドは慌てて腰を据え、必死にロープを引き寄せて近くの支柱にその端を固結びにする。

そのまま、糸が切れた人形のようにどかりと腰を下ろした。

見上げれば、崩れた天井から幾筋もの日光が差し込み、塔の中に充満する埃をキラキラと反射させている。

頭上高く、固定されたばかりの鐘が「ガゴン、……ガゴン」と、低い余韻を響かせていた。

「た、助かった……。生きてる、俺は、生きてるぞ……はぁ」

安堵の溜息が漏れた。

しかし、その安堵を切り裂くように、それは聞こえてきた。

「ギ……ギ……」

粘着質な、不快極まるうめき声。

「は、え……?」

エドの股の間に、天井から「ピチャリ」と青白い液体が滴り落ちた。

エドは目を見開き、錆びついた機械のような動作で、ゆっくりと、ゆっくりと頭上を見上げた。

「ギ、ギ……」

「ギシ、ギシギシ……」

そこには――地獄が広がっていた。

塔の壁面を埋め尽くすように、無数の蠢く影。

暗がりに浮かび上がるのは、緑色に光る無数の眼。

それは一匹や二匹ではない。モスマンの大群が、新たな「餌」を見下ろして、その複眼を不気味に明滅させていた。

「……あ、あ、ああ……」

エドの頬を、冷たい汗が伝う。

震えが止まらない。

絶望が喉元までせり上がってきた、

――その時。

静まり返った塔の空間に、凛とした二つの声が重なった。

「──《 白亜爆炎(ホワイト・ノヴァ) 》!」

「――《 紫爆炎(バーン) 》」

刹那、視界が「色彩」に塗りつぶされた。

聖なる純白の炎と、理さえ焼き尽くす禍々しい紫の炎。

二つの魔導が螺旋を描き、まるで意志を持つ大蛇のように塔の内壁を舐めながら、一気に上空へと駆け上がっていく。

「……ギ……ギッ?!」

圧倒的な熱量。

モスマンの群れは悲鳴を上げる暇もなく、瞬く間に塵となり、灰へと変わっていく。

エドは呆然と振り返る。

そこに立っていたのは、案の定というべき二人組だった。

「おいおい、ファウストさん。ちゃんと害虫駆除の予算も見込んでおこうぜよ」

肩をすくめ、不敵な笑みを浮かべるのは、自由奔放な大魔導士ラルフ・ドーソン。

その隣では、聖教魔導士から魔導厨師へと転身したばかりのオルティ・イルが、どこか呆れたような視線を送っている。

「ふん。エド君、君の主もなかなかに人使いが荒いようだな。同情するよ……」

大陸最高峰の魔導士二人による共演。

だが、そのあまりに強大すぎる魔力の衝突は、術者の予想を超えた物理現象を引き起こした。

「……え? こ、これって……」

エドは肌に感じる異変に気づく。

一階の窓や入り口から、猛烈な突風が吹き込んできたのだ。

それは巨大な竜巻のように、塔の内部にあるあらゆるものを上方へと吸い上げていく。

「……あ! ヤベっ、これ『煙突効果』ってやつか?」

ラルフの能天気な呟きが響くと同時。

塔の頂部へと集約された二つの熱源が、臨界点を突破した。

――ドッカァァァァァァァァァン!!

耳を劈く大爆発。

塔の先端が花火のように弾け飛び、ルインフォードの空に瓦礫の雨が降る。

「うわぁ!」

「キャぁぁぁぁ!」

街の人々が悲鳴を上げ、頭を守って身を屈める中。

エドの目の前に、再び「それ」が降ってきた。

――ガゴワァァァァァァァァん!!

「ひっ?!」

先ほど引き上げたばかりの巨大な鐘が、床板を砕いて豪快に着地した。

そんな大惨事の中、ラルフは何事もなかったかのようにエドに歩み寄り、ひょいと手を差し伸べる。

「おーい、エド。大丈夫か〜?」

「大丈夫じゃないですねぇ! 全然、これっぽっちも、まったく! 大丈夫じゃないですねぇ! はい! 死ぬ一歩手前ですねぇ?! そろそろ僕も、貴族さまじゃなくて神様を信じたくなるくらいですねー!!」

エドは差し出された手を掴み、立ち上がりながら捲し立てた。

彼にとってラルフは、これまで何度も救われてきた恩人ではあるが、今日ばかりは文句の一つや、二つ、いや、一万個も言わなければ気が済まない。

すると、オルティが涼しい顔で口を挟んだ。

「まあ、見たところ五体満足のようだし。上手くいったではないか? あとはファウスティン公爵に、酒とメシをご馳走になって、帰るとしようではないか?」

(この人も、意外と楽観的っていうか、人の心がないのか……?)

魔導士という人種は、皆こうまで感覚が麻痺しているのだろうか?

エドは猛烈な焦燥に駆られたが、もはや反論する気力すら残っていなかった。

「ノアルディア領も、やっぱりこの時期はモスマンに悩まされるんだなぁ。あったかくなってくると、どこからともなく湧いてくるんだよ」

ラルフが「今年もカメムシが出てきたなぁ」くらいのトーンで語る。

「そうだな。ここは複雑な構造の城郭都市だ。影も多い。一箇所で繁殖を許せばこうなる。聖教国でも、毎年この時期の駆除には手を焼いたものだ……」

オルティの言葉を聞きながら、エドはふと思った。

これまでは、魔導士や貴族なんて、ただ血筋だけで踏ん反り返り、豪華な酒食を貪るだけの連中だと思っていた。

だが、実際はどうだ。

力を持つ者は、その力を以て、声なき民の平穏を守っている。

ラルフに至っては、自分の領地でもない場所の厄介事に、こうしてわざわざ首を突っ込んでいるのだ。

エドは、この世界の「仕組み」の一端を、初めて理解したような気がした。

……まあ、自分がそのための囮にされたことには、納得がいかないが。

すると、ラルフがふと、見上げて首を傾げた。

「あ! そういえば、ファウストさんは? どこ行った?」

「ん? ……あ。……あ……ああああああああああッ!!」

エドの脳裏に、先ほどの光景がフラッシュバックする。

雇い主であるファウスティン公爵は、塔の最上部、あの爆発の起点となった場所にいたはずだ。

「ファウスト様ぁぁぁぁぁッ!! ご無事ですかぁぁぁぁぁあ?!」

エドの絶叫。

三人が慌てて廃教会を飛び出すと。

そこには、降り注いだ瓦礫の山に囲まれ、領民たちに介抱されながら白目を剥いて気を失っているファウスティンの姿があった。

そのあまりに情けない公爵の姿を前に、三人はかける言葉も見つからず、ただただ無表情で立ち尽くすしかなかった。