軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

402.油の境界線

居酒屋領主館の喧騒を切り裂くように、一人の女騎士の絶叫が響き渡った。

「マスター! あんまりではないか!? 何故……何故に今まで黙っていたのだ?!」

黄金の髪を振り乱し、まるで戦場での裏切りを糾弾するかのような悲痛な面持ちで詰め寄ってくるのは、ミラ・カーライル。

ロートシュタイン領が誇る国防の要でありながら、食に関することとなると、途端に手に負えない「暴君」と化す困った腹ペコだ。

「わかった、わかったから……。少し落ち着け、ミラ」

呆れを通り越して、もはや慈悲の心すら芽生え始めたラルフ・ドーソンは、両手で彼女の猛攻をいなす。

ラルフにとって、それは別に秘匿していたつもりはない。

ただ、言わなかっただけ⋯⋯。

しかし、食いしん坊の女騎士にとって、未体験の美味が自分の与り知らぬところで供されているという事実は、万死に値する背信行為と同義であるらしかった。

「とにかく! その『油そば』とやらを、早く出してくれ! ……もちろん、大盛りでな!」

謎の被害者意識に燃える彼女の鼻息は荒い。ここで下手に正論を吐けば、火に油を注ぐのは自明の理。ラルフは口を噤み、まずは彼女の空腹という名の暴動を鎮圧することに専念した。

「すぐ作る。とりあえず、これでも食べて繋いでろ」

差し出されたのは、お通しのマカロニサラダ。

ミラは慣れた手付きで箸を操ると、小鉢の中身を瞬く間に胃袋へ収め、白ワインを豪快に呷った。

「プハァ〜……!」

直前までの憤怒が嘘のような、とろけるような恍惚の笑み。

(……はやっ……)

ラルフは深いため息を吐き、調理場へと踵を返そうとした。その時、目の前を金髪のドリルツインテールが軽やかに通り過ぎる。

「おい、エリカ。お前だろ? ミラに油そばの存在を吹き込んだのは……」

呼び止められた看板娘、エリカは、両手に抱えた重そうなビールジョッキを微塵も揺らすことなく、事もなげに言い放った。

「そうよ。そう頼まれたんですもの。……っていうか、ラルフ。あの女騎士さんだけじゃないわよ? アンタが『賄い』と称して隠し持っている裏メニューを逐一報告してほしいって、色んなお客さんに 依頼(オーダー) を受けてるんだから」

タタタ、と小気味よい足取りで客席へと駆けていく背中を見送りながら、ラルフは不穏な言葉を反芻した。

「……色んな、お客さん?」

嫌な予感に背中を焼かれ、ラルフはフロアを見渡した。

そこには、明らかに不自然なほど素早く視線を逸らす面々がいた。

グレン子爵、カーライル騎士爵といった王国の重鎮のみならず、あろうことか帝国の皇帝陛下、さらには聖教国の司祭たちまでもが、気まずそうに酒杯を口に運んでいる。冒険者の一団や共和国の大店の主たちも同様だ。

共通しているのは、誰もがこの大陸において「特権階級」と呼ばれる、金と権力を持つ人々であるということだ。

(……依頼、だと? あいつ、まさか金を貰ってスパイ活動を……?)

居酒屋の給仕、カレーの布教、打楽器奏者。

その肩書きに、いつの間にか「諜報員」という物騒な副業が加わっていたらしい。

その闇の深さを追及するのは、今の空腹な店内の熱気を前にしては「めんどーくせー」の範疇だった。ラルフは思考を放棄し、厨房へと戻る。

トムの製麺工場から届いた、加水率にこだわった特製麺を、煮え滾る寸胴鍋へと放り込む。

更に、ラルフの手は迷いなく、丼の底に醤油ダレと厳選した油脂、そして数種の調味料を配合していく。

やがて、湯気を上げる黄金の麺が丼へと収まり、具材が手際よく盛り付けられた。

「はいよ……。油そば、お待たせ」

ミラの前に、その一品が置かれた。

瞬間、彼女の眼光が鋭くなる。

「ん? んん? ……んんんん!? マスター! これは……これはスープのないラーメンではないか!?」

再び店内に響き渡る絶叫。ラルフは耳を塞ぎたい衝動を抑えて応じる。

「いや、認識としては概ね正しい。それが、お前が熱望した『油そば』の正体だよ」

「なんだと!? ならば、これは以前供された、あの『まぜそば』とはどう違うのだ!?」

ミラの叫びは、もはや哲学的な問いに近い、根源的な疑問であった。

それに対して、実はラルフも、全き正解を持ち合わせてはいない。

「……すまん。僕も、厳密な定義を説明するのは難しいんだ……」

前世の記憶を掘り起こしても、その境界線は霧の向こう側にある。ラルフは正直に白状した。

「な、な……!? こんなの詐欺だ! どう見ても、これは手抜きのラーメンではないか!」

憤慨するミラの言い分にも、客観的な一理はある。

そこに鎮座しているのは、メンマ、ナルト、ネギ、チャーシュー。そして彩りとして添えられた、一握りの「かいわれ大根」のみ。スープという名の潤沢な資源を剥奪されたその姿は、一見すると調理の工程を放棄した欠陥品のようにも映るだろう。

しかし、ラルフの脳裏に刻まれた前世の記憶において、この「油そば」と、後に隆盛を極める「まぜそば」の間には、深淵なる文化的断絶が存在していた。

それは、東京・武蔵野という特定の地政学的条件下で醸成された、一種の「引き算の美学」である。

まぜそばが、チーズや背脂、多種多様なスパイスを積み上げていく「加法的な記号の集積」であるとするなら、伝統的な油そばは、麺と油、そして最小限の調味料の反応のみに収束する「減法的な本質主義」に立脚している。

ある視座に立てば、前者はポストモダン的な 混沌(カオス) の受容であり、後者は土着的な様式美の継承であった。

事実、ラルフの知る前世の日本では、この境界線は極めて曖昧に溶け合っていた。

――言った者勝ち。

名乗った者が勝手に、その看板となる多様性の氾濫。

暴論を言えば、海を越えた異国の麺料理である「ペペロンチーノ」でさえ、乳化した油と小麦のハーモニーという構造論に基づけば、広義の油そばとして分類し得るのだ。

しかし、この器に漂う「かいわれ大根」の清涼感は、そうした雑多な進化への無言の抵抗のようにも見えた。

日本の食文化が持つ、徹底した簡素さと、その裏に潜む緻密な計算。

スープという名の防壁を失い、裸同然で曝された麺の質感。

その「剥き出しの様式美」を、概念的な言葉を持たないこの世界の住人に説明するのは、あまりにも困難な試みであった。

(……いいから、さっさと食って黙れよ!)

そう願いながらも、ラルフは言葉に詰まる。

一方でミラは、納得がいかない様子で鼻息を荒くしていた。

「ふんすー! これは、あまりにも酷い。あまりにも酷い裏切りだ……」

謎の怒りに燃えながら丼を見つめるミラ。ラルフの心は、急速に氷点下へと冷え切っていく。

(……え? なんで、公爵である僕が、なんんんんんんでここまで、怒られるの?)

冷静さが極致に達したラルフは、静かに丼の端に手をかけた。

「……じゃあ、いいよ。食べなくて。これは僕の賄いにでもするから……」

ガシッ!

刹那、丼の縁をミラが驚異的な握力で掴んだ。鋼のような指先が陶器に食い込み、微かな音を立てる。

「……いや。食べないとは、一言も言っていません……」

どこまでも凛々しく、まるで騎士道を語るようなキリッとした顔で言い放つ彼女に、ラルフの額に青筋が浮かんだ。

「お前、いい加減にしろよ……? 勝手に期待して、勝手に幻滅して、その上で食わせろって、どういう了見だコラァ!!」

ついにブチ切れたラルフ。

だが、ミラも負けてはいない。

大きな瞳にみるみるうちに涙を溜め、子供のように喚き出した。

「それは、マスターが悪い! いつも我々に黙って、自分だけ美味いものを独占しているではないか!? 我々は国防の要である騎士団だぞ! もう少し、もう少しさぁ、私たちを、私を⋯⋯労ってくれてもいいじゃないかぁぁぁぁ!! うわぁぁぁぁぁぁん⋯⋯!」

もはや、号泣⋯⋯。

「あー、もう、めんどくっっっっっさ! ……。メシ如きで情緒不安定すぎるだろー?! この腹ペコ女騎士?!」

呆れ果て、天を仰ぐラルフ。

すると、どこからともなく現れたエリカが、テーブルの上に「それ」を置いた。

「あー、もう。ほら、泣かないの! ご飯と、特製のカレースパイスも付けてあげるから!」

湯気を立てる小ぶりの茶碗と、小皿に盛られた芳醇な香りのスパイス。

ミラの泣き顔が、一瞬で消えた。

「ふむ。……早速、いただこう!」

何事もなかったかのように着席し、箸を取る。

ラルフは怒りに震える拳を握りしめ、給仕に戻ろうとする看板娘の腕を掴んだ。

「……おい、エリカ。お前、この『情報提供』で、いったいいくら掠め取ってるんだ?」

エリカは、完全に聞こえていないような清々しい笑顔で、別のテーブルへと視線を投げた。

ラルフの手をサラリと振り解き、

「ほらー! アンタっ、お酒が空っぽじゃない! 次、何か飲むー!?」

風のように去っていくエリカ。

そして、店内には新たな波が押し寄せようとしていた。

「おーい! ラルフ様! 俺たちにも、その油そばをくれ!」

「ぐぅ、油……。でも、昨日は野菜を山ほど食べたから、今日は大丈夫! 私にも、その油そばを!!」

「なるほど。シメに米とカレースパイスを投入するのか……。公爵様、我々にもその『油』を!」

怒涛のように押し寄せるオーダー。

ラルフは、再び戦場と化した熱気の中で、ミラを見た。

あれほど盛大に文句を垂れていた彼女は、今や恍惚の表情で麺を啜っている。

謎だが。この夜、ロートシュタイン領において。

極めて曖昧でありながら、しかし確固たる境界線が、謎の精神性を以て「まぜそば」と「油そば」の間に引かれた。

それは哲学的であり、文化人類学的であり。

この場に居合わせた当事者たちですら、的確な言語化が不可能なままに共有された、まさに「美味しい革命」の一幕であった。