作品タイトル不明
239.水上都市の巨大魚⑨
水上都市を縁取る人工湖は、穏やかな午後の陽光を浴び、きらめいていた。一艘の小舟が、静かに波紋を広げながら揺蕩う。
舟中には、ラルフとヴィヴィアンの二人。彼らの手には、幻の巨大魚「ロットン君」を狙うような大仰な仕掛けはない。握られているのは、小型のマスやハヤを対象とした、通常の細い釣り竿だ。
長閑な景色とは裏腹に、ヴィヴィアンの表情は複雑に揺れていた。それは諦観でも焦燥でもない、なんとも言えぬ、心の内側を掻き乱す波立ち。今しがた、ロットン君を巡る巨大魚騒動の、あまりにも拍子抜けする真実を聞かされてしまったからだ。
「じゃあ、ロットン君なんて、いなかったのだな……」
どこか悲しげな声色が、透き通った湖面に吸い込まれていく。
「まあ、そういうこった」
ラルフは淡々とした口調で答えながら、竿を引き上げ、釣り針に付けた餌を確認している。その仕草に、事の重大さは微塵も感じられない。
「その、スズ殿の、潜水艇? と言ったか。何故、それに国王陛下が乗られていたのだ?」
「水の中の景色を見てみたかったんだってさ。まあ、釣り好きなら、そういう気持ちになるのは理解できるけどな」
ラルフはそう言って肩をすくめる。釣り人にとって、水中はすぐそこにある未知の世界だ。光の届かぬ深淵、魚たちの織りなす営み。想像の埒外にあるその神秘に、心を奪われるのは理解できる。
「なるほど。だが、陛下なら真っ先にラルフに相談しそうなものだが……」
ヴィヴィアンは当然の疑問を口にする。ラルフは水上都市きっての釣り人であり、国王の友人でもあるのだから。
「……そうしようとしたらしい。その時、ちょうど僕は、酔い潰れていた。とのこと」
ラルフは恥じらいもなく言い放った。公爵である彼が、居酒屋のカウンターで高いびきをかいていたとは、なんとも彼らしい。
「なるほど。だから、一流のゴーレム技師である、スズ殿に……」
「そのとおり。ゴーレム技術を応用すれば、もしかしたら、と……」
蜘蛛型搭乗ゴーレムの製作者として名高いダンジョン・マスターのスズに、国王は打診をしたのだ。居酒屋領主館のカウンターで、いなり寿司を頬張っていた彼女に。
「で。この人工湖に潜水している時、運悪く、ランドルフ王子の小舟に接触してしまった。と?」
「そのとおりだな……」
ラルフは、ふと小舟の底に置かれた桶に目をやる。中では三匹の虹色の魚体が、静かにエラ呼吸を繰り返している。
「しかし。ランドルフ王子が見間違えるほど、その潜水艇というものは、魚のような形をしているのか?」
「いや、まあ。そうでもないんだが……」
ラルフは、真実の筋書きを説明し始めた。
ランドルフ王子が潜水艇を目撃した時、それは急浮上したはずだ。水面は激しく揺らめき、波立っていた。揺れる水越しに、黒い巨大な影を見たらどう見えるか?
光の屈折と反射が織りなす幻影は、まるで魚のように身をくねらせ、泳いでいるように見えたに違いない。
「しかし、ランドルフ王子は、背びれを見た、と証言したのだろう?」
「それは、おそらく。潜望鏡のせいだ」
「せんぼう、きょう?」
ヴィヴィアンは首を傾げる。聞き慣れない言葉だ。
「潜望鏡とは、水中から水面の様子を窺うための、反射鏡を使った湾曲した筒状の覗き窓だ」
ラルフは続ける。
「それが、揺れる水面を割り、白い筋のような描線を描いた。それが、あたかも背びれのように見えたのだろう」
一通りの説明を聞き終えたヴィヴィアンは、そっと釣り竿を引き上げた。
「なるほど……。真実とは、そんなものなのか……」
「そういうこった……」
二人は晴れ渡る空を見上げた。静かに時間が流れていく。
「しかし。スズ殿、エリカ殿、そして国王陛下は、何故、嘘をついたのだ? それだけがさっぱりわからん……」
ヴィヴィアンの銀色の瞳が、ラルフに向けられる。真実を知ってなお残る、本質的な疑問。
「スズは、口止めされてただけ……。エリカは、稼ぎたかっただけ……」
そう、エリカはロットンカレーマンという御当地ゆるキャラ商売で、破格の高利益を上げることができたのだ。
「最も不思議なのが、何故、国王陛下が?」
「それはな……。釣りという行為を、文化にまで押し上げようと、そう目論んだのさ……」
ラルフの言葉は、ヴィヴィアンの思考を遥かに飛び越えた。
「はっ? 文化?」
「ヴィヴィアン。釣りをしていて、どう思う?」
唐突な質問。
「えっ、それは……。早く釣れないかなぁ、とか。大物が掛からないかなぁ。とは思うが……」
「そう。それが、食糧調達としての、釣りだ。つまり、根源的で、原始的な行為だ」
急に学術的な口調になったラルフに、ヴィヴィアンは少しむっとする。
「いや。それが、普通ではないのか?」
「では、釣りをしている、その自分の心は、何を感じている?」
「むっ? ラルフ・ドーソン。なんだか、あまりに哲学的な問いに聞こえるが?」
「そのとおり。哲学だからな」
ヴィヴィアンは周囲を見渡す。
静かな湖面。隣にいるラルフ。青い空。桶の中のマス。すべてが、この一瞬に閉じ込められた、美しい絵画のようだ。
湖面には青い空が映り、遠くの人々の喧騒が風に乗って運ばれ、生きたまま桶に閉じ込められた虹色の生命を、今夜、自分たちが食する。
この状況で「美しい」と感じるのは、あまりにも人間のおこがましいエゴではないか?
我々は、自然から奪い食らうだけの獣。まるで、世界の摂理から外れた存在であるかのような、孤独感が湧き上がってくる。上手く言語化できない、胸の奥の澱。
しかし、口を突いて出た言葉は、
「なんだか、満たされない、空虚だ……、でも、空も水も、青いのだな」
「ハハッ! なんだそれ?! ロマンチストにも程があるだろ!!」
ラルフは堪えきれずに笑い出した。
「むー! 貴様が言ったのではないか?! 哲学だと!」
かつての同級生同士、二人は笑い、怒り、戯れる。小舟は揺れ、水面に新たな波紋が生まれた。
ラルフが笑ったのは、ヴィヴィアンを馬鹿にしたわけではない。彼女の言葉が、前世の偉大なるブルースマンの楽曲のタイトルと重なったからだ。
"Nothing but the Blues"
そして、その精神性は、あながち間違ってはいない気がしたのだ。
茜色の夕日に染まる、水上マーケットの喧騒の中、ラルフとヴィヴィアンは並んで歩いていた。釣り竿を担ぎ、二人の手には獲物を入れた桶。人々の群れの賑わい。
ふと、ヴィヴィアンはラルフに尋ねた。
「ロットン君の真相を、公表するのか?」
ラルフは、なにも答えない。ただ前を見据えている。
桟橋を見ると、いつかロットン君の姿を求めて、純粋な眼を水面に注いでいた貴族らしき少年がいた。可愛らしい釣り竿を、今、大きくしならせている。
「きたっ! きたよ! 今度こそ、ロットン君かも!!」
大はしゃぎで、 糸巻(リール) を巻き上げている。傍らには、少年の母親らしき女性が立っている。
少年は、獲物を引き寄せ、桟橋の上に取り込んだ。それは、手のひらサイズの小さなニジマスだった。
求める幻の巨大魚ではなかったにも拘らず、ピチピチと跳ねる魚体を観察しながら、少年は目をキラキラと輝かせる。
「これは! なんていう魚でしょうか?! お母さま!!」
と、持っている本のページをめくる。
ラルフは、おもむろに、その少年に歩み寄る。
「あぁ、おい。ラルフ……」
ヴィヴィアンは、どうしたものかと逡巡する。真実を話すべきか、幻を壊すべきではないのか。
貴族の少年と、釣り上げた魚に、影が差す。それは、ラルフの影だ。
「すごいな! いい型のニジマスだぞ! 少年!」
心底嬉しそうな声で語りかける。
「でも……、ロットン君じゃなかった……」
少年は、少しだけ悲しそうだ。
それを聞いたラルフは、一拍おいた後、とびきりの、何か悪戯を企むかのような「悪い顔」をして、少年に言い聞かせた。
「ロットン君が、そんなに簡単に釣れるわけないだろう? 僕だって、釣れなかったんだ!」
「でも、……学園の皆が、言うんだ。ロットン君なんて。いないって……」
少年は、ひどく繊細な手つきで、針を外し、小さな桶に釣ったばかりのマスを入れた。その表情はあまりに悲しげに見えた。
「何を言うか!! 僕は一度、ロットン君を掛けたんだぞ! まあ、取り逃がしたがな……」
「ええええっ! もしかして、もしかして、貴方はまさか、ラルフ・ドーソン様ですか?!!」
その噂を知っていた少年の目が見開かれる。
ラルフは、その武勇伝、嘘にまみれた逸話を身振り手振りで、少年に語り始める。貴族の少年は、目をキラキラと輝かせ、一言一句を聞き逃すまいと、手に汗を握る。
ヴィヴィアンは、その母親にそっと近寄り、
「失礼ながら、元気なお子さんですね」
と笑いかける。
母親は、少し困ったような表情を浮かべた。
「あの子ったら、本当にお魚さんが、大好きになってしまって……。貴族としての自覚がないのか、心配になってしまうのです……。毎晩、国王陛下が書かれた本を読み聞かせをねだられるんですよ? もう、本当に、どうしたら……」
貴族家として、跡継ぎが幼いとはいえ、その調子では、親心は理解できる。
しかし、ヴィヴィアンは知っている。
貴族であろうと、自らの道を選び、自由に生きる男を。その男は、少年相手に身振り手振りを交えながら、夕焼けの湖面に、滑稽な一人芝居を繰り広げている。
「大丈夫ですよ……。私の旧友は、公爵なのに、居酒屋の経営者ですよ!」
ヴィヴィアンが冗談のようにそう言うと、母親は、少し肩の荷が下りたような表情をした。
そして。ラルフは少年に問い掛ける。
「君が釣った、その魚。うちの、居酒屋領主館で料理してやろうか?」
その提案に、少年は真剣に悩む。そして、決意を込めた眼で答えた。
「いえ。この子は、逃がしてあげます。まだ小さいので……ロットン君くらい、大きくなって欲しいです!!!」
その純粋な眼差しに、ラルフは思わず、少年の頭を優しく撫でた。
国王が目論んだ、釣りという行為を、食糧調達から精神性へ昇華させる企み。
ラルフは、この瞬間に、それが現実のものとなる予感を垣間見た。
自然に対する畏怖と、向き合い方。
特に、貴族階級が支配するこの世界で、その事実を忘れてしまっている人々は多い。
ラルフは、国王が垣間見た未来とその企みに、乗ることを決めた。
真実は、闇の中。幻は、希望の光を放つ。
そして、後年。
その少年は、大人になり、貴族でありながら「怪魚ハンター」として世界を飛び回る、第一人者となった。
釣りは、食糧調達から、精神性の儀式的側面へ、そして、誰もが楽しめる余暇へ。
その文化的脈絡を語る代弁者としての使命を帯びていく。
自然と向き合い、ロマンを求め、大自然の営みの中に、人間も組み込まれていると言う事実を、釣りを通し、人々に語り続けた。
奇しくも、ウラデュウス・フォン・バランタイン国王陛下が、思いつきのままに撒いた、"嘘"という種が、まさに未来に芽吹いたのだ。
かつての少年は、屈託のない笑顔で、後進の釣り人に語る。
「はぁ? ロットン君? ラルフ様がいるって言ってるんだから、いるんだよ!!!」