軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

238.水上都市の巨大魚⑧

深い夜が、水上都市を静寂の底へと沈めていた。日中の喧騒を呑み込んだ漆黒の湖面は、遠い秋の空に響く虫の音すら朧げにする。

対岸には、夜釣りに興じる人々の灯りが、星のように微かに点滅していた。

フゥワン、と。

冷たい夜風が、湖面に微かな皺を生じさせ、離宮の支柱に打ちつける水の音は、まるで大海の真ん中で、一人漂う孤舟の錯覚を国王ウラデュウスに抱かせた。

「陛下、今宵は、ことのほか風が冷たいようです……。お身体を崩されませぬように?」

離宮の奥から、宰相ニコラウスが、心配の色を滲ませた声と共に歩み寄る。

ウラデュウスは、トン、と無骨な陶器のぐい呑みを、囲炉裏卓の縁に置いた。

「なに。これさえあれば、むしろジワリと汗ばむほどよ」

そう言って、湯気を立てる鉄瓶から、陶器の徳利を一本引き上げ、心なしか得意げに微笑む。

「はぁ……。くれぐれも、ほどほどに……」

ニコラウスは、深い溜め息と共に、諦観と、わずかな忠言を置き土産に、暗い離宮の奥へと退散していった。

ウラデュウスは、手酌でぐい呑みに米酒を注ぐ。一国の王としては、あるまじき不作法。しかし、この場所で、一人こうして酒を傾ける時間が、彼にとっては何よりの愉悦だった。

王としての重圧から解放され、ただひたすらに暗い湖面と、そこに逆さに映る、夜更かしな人々の営みの灯りを眺める。その刹那、彼は、この世から切り離され、ただ孤独な宇宙の中心にいるかのような、得も言えぬ哲学的な境地へと誘われる。

単なる酔いに任せた感傷的な思慮かもしれない。それでも、この瞬間だけは、王族という鎖から解き放たれ、世界の真理の一端に触れられるような気がしてやまないのだ。

だが、この崇高な哲学も、決して彼一人で到達したわけではない。

この水上都市は、大魔導士にして公爵、あの常識破りな若者ラルフ・ドーソンが、破滅的な魔法によって大地を抉り、生み出したものだ。

あの時の爆裂魔法の、空を焦がすような輝きを、ウラデュウスは生涯忘れることはないだろう。

そして、この米酒という、未知の酒。手に馴染む無骨なぐい呑み。この離宮の風情に馴染む囲炉裏卓。すべて、あのラルフ・ドーソンが生み出した、新時代の産物だ。

「あの若者は、この王国の歴史に、深く、そして永遠に名を刻むだろう……」

ウラデュウスには、それが確実な予感としてあった。

しかし、彼の素っ頓狂な奇行や言動に振り回される身にもなって欲しい、と、つい、誰にも零せぬ愚痴が喉元にせり上がる。

ため息を一つ。そして、もう一杯、熱い米酒を口にした、その時だった。

「こんばんは〜。ウラデュウス陛下」

その声に、驚き、思わず国王は、

「ぶふっ!」

と、熱い酒を吐き出してしまう。

声の主を探し、辺りを見渡す。すると、湖面に、一人の影が、立っていた。

その人物は、ウラデュウスのよく知る人物。今まさに、脳裏に描いていた、その人だ。

大魔導士、ラルフ・ドーソン。

彼は、水面に立っている。そして、おもむろに、離宮に向かって歩き始めた。

普通ならば、信じられない光景。だが、彼は史上最年少で大魔導士の称号を与えられた天才中の天才だ。水面をまるで地面のように歩くことなど、何かしらの高度な魔導術式によるものだろうと、不思議はない。

しかし、国王の脳裏に、あまりにも恐ろしい、最悪の想定が浮かび上がる。

(もしも、こやつが暗殺者だったとしたら……。防ぎようなど、あるまい)

水面を渡り終えたラルフは、まるで友人の家かのように、王族の離宮に上がり込み、国王の目の前でドカリと胡座をかいた。

そして、マジック・バッグからボトルを取り出し、

「芋焼酎、差し入れですわ! その名も、"女神のうたた寝"。元・聖女さまの新作だそうで!」

そうして始まる、ラルフと国王の、身分を越えた、気の置けないサシ飲み。

ラルフはなんの気なしに、国王に尋ねた。

「もう一人の共犯者、ヴラドおじでしょ?」

その言葉が、例の"未知の怪魚騒動"を指していると、国王はすぐに悟った。

そして、深いため息を吐く。

「はぁ……。まあ、いつかは、貴様にはバレる気はしておったがな……」

と、観念して白状する。

ヴラドおじ、という、一介の公爵が国王陛下を呼ぶには、あまりにも不敬な呼称。だが、ウラデュウスは、時折、その呼び名を堪らなく嬉しく、くすぐったくも感じるのだ。息子のような歳のこの男と、まるで旧来の友人のように振る舞える関係性は、王族としては通常、許されるものではない。しかし、いつからか、この若き公爵と、彼はもう、友人なのだ。他の呼び名など、思いつかないほどに。

「まあ、そんな気はしてたんだよねぇ。何故なら、ロットン君を一度は掛けたクセに、その後は全然この人工湖で釣りしてなかったし……。ヴラドおじなら、悔しがって絶対に釣り上げるまで、釣り糸を垂らしてそうなんだよなぁ!」

そう言って、ラルフは無邪気にケラケラと笑う。

(やはり、この男には、かなわないなぁ……)

ウラデュウスは、熱燗ではなく、常温の芋焼酎を手酌で注ぐ。

「スズ殿から、聞いたのだな? すべてを……」

そう問い掛けると。

「そうねぇ。まあ、エリカも白状したし……」

と、ラルフも舌をぺろりと出し、ぐい呑みに芋焼酎を注ぎ入れる。

「それで、どうする気なのだ? すべてを洗いざらいぶち撒け、この騒動を、終わらすか?」

ウラデュウスは、国王としての威厳に満ちた眼光を湛え、ラルフという領主に問う。

しかし、ラルフの返答は、あまりにも意外なものだった。

「どうでもいいかな……」

「はっ?」

思わず、国王は目を見開く。

「スズは潜水艇を造ってみたかった。エリカは稼ぎたかった……。それは、つまり、……言うなれば、欲望だ……」

ラルフは、酔いとは別の熱を帯びた声で滔々と語る。

「では、三人目の共犯者である、儂の欲望は、なんだと推察する?」

国王は問い掛ける。

ラルフは、囲炉裏卓の淡い光を受け、その表情は深い影を刻みながらも、彼自身も、酔狂とでもいえる推理を思いつく。

「それは、"未来"、なんじゃないか? って……」

彼は、少し恥ずかしそうに、ぐい呑みに芋焼酎を注ぎ足した。

その目には、確かに、夜の闇に輝く、遠い未来の光が宿っているように見えた。