作品タイトル不明
第5話 歴史小説は入口であって、教科書ではない
前回、柴田勝家公の史料の少なさについてお話ししました。
鬼柴田。
無骨な猛将。
頑固で、不器用で、戦場で強い人。
そういうイメージで語られることの多い方ですが、では本当にそれだけだったのか。
史料が少ないからこそ、ワンコさんはそこに考える余地があると思っています。
さて。
今回は、歴史小説や歴史創作についてのお話です。
ワンコさんは、歴史小説や歴史漫画、歴史ゲーム、大河ドラマのようなものを、歴史に興味を持つ入口としてとても大事だと思っています。
というか、ワンコさん自身もそうでした。
戦国時代に興味を持ったきっかけのひとつは、某戦国ゲームです。
部活のない日は、画面の中で天下取りを目指しておりました。
ええ。
とても楽しかったです。
そこから、
「この武将って、実際はどんな人だったんだろう」
「この合戦って、本当はどういう流れだったんだろう」
「この家とこの家、史実ではどういう関係だったんだろう」
と気になって、調べるようになりました。
つまり、創作は入口になるのです。
歴史への入口。
興味を持つきっかけ。
知らなかった人物や時代へ手を伸ばすための扉。
これは、本当に大事なことだと思います。
だって、興味がなければ調べません。
調べなければ、出会えません。
出会えなければ、好きにもなれません。
だから、歴史小説や歴史漫画、歴史ゲームがきっかけで日本史に興味を持つことは、とても良いことだと思っています。
ただし。
入口と、史実そのものを履き違えてはいけない。
ここは、とても大事です。
歴史小説は、史料ではありません。
歴史漫画も、史料ではありません。
歴史ゲームも、史料ではありません。
大河ドラマも、史料ではありません。
それらは、史実や史料をもとにして作られた「作品」です。
作者がいます。
脚本があります。
演出があります。
物語としての都合があります。
主人公を魅力的に見せるための構成があります。
分かりやすくするために、出来事を整理したり、人物をまとめたり、順番を変えたりすることもあります。
本来なら複雑な事情を、物語として読める形にするために削ることもあります。
逆に、史料には残っていない空白を、想像で埋めることもあります。
それが創作です。
だからこそ面白い。
でも、だからこそ、史実そのものではありません。
ここを履き違えると、かなり危ういことになります。
たとえば、ある武将が歴史小説でとても格好よく描かれていたとします。
それをきっかけに、その武将を好きになる。
これは素敵なことです。
けれど、
「小説でこう書かれていたから、史実でも絶対こうだった」
となると、少し違います。
逆に、ある人物が創作で悪役として描かれていたとします。
物語の中では敵役として、とても分かりやすく描かれている。
でも、それだけで、
「この人は史実でも完全な悪人だった」
と決めてしまうのも危険です。
歴史上の人物は、物語の登場人物ではありません。
いや、物語の中では登場人物になります。
けれど実際には、かつて生きていた人間です。
立場がありました。
家がありました。
事情がありました。
時代がありました。
選べなかったこともあったでしょう。
失敗もあったでしょう。
後世から見ると理解しにくい判断もあったでしょう。
そういうものを全部抜きにして、創作の人物像だけで判断してしまうのは、少し怖いことです。
そして、ここでさらに歴史学科の面倒くさい話をします。
創作と史実を履き違えてはいけない。
それはそうです。
ただ、そもそも「史料」と呼ばれるものにも、いろいろな種類があります。
ここがまた厄介です。
たとえば、戦国時代を調べる時に避けて通れないものの一つに、『信長公記』があります。
ワンコさんも、もちろんめちゃくちゃ参考にします。
とても大事な史料です。
織田信長公や、その周辺の出来事を追う上では、外せない重要史料です。
重要です。
本当に重要です。
ただし。
ここで歴史学科の面倒くさいところが出ます。
『信長公記』は、厳密に言うと、本人の書状や同時代の日記のような一次史料そのものではありません。
えっ、あんなに大事なのに?
と思いませんか。
ワンコさんは思いました。
思いましたとも。
『信長公記』は、太田牛一が後年に信長公の事績をまとめた編纂物です。
つまり、その出来事が起きたその場で、その瞬間に書かれた手紙や日記や命令書とは、性質が違います。
もちろん、価値が低いという意味ではありません。
むしろ、めちゃくちゃ大事です。
戦国時代、特に織田信長公を調べるうえでは、とても重要な史料です。
大事。
本当に大事。
大事なのですが、
「重要史料であること」と、
「一次史料そのものであること」は、
同じではありません。
ここが、ワンコさんが歴史学科でけっこう衝撃を受けたところでした。
史料って、名前が有名だから一次史料になるわけではないのです。
有名でも。
重要でも。
めちゃくちゃ参考になるものでも。
後からまとめられたものは、後世の編纂物として扱う必要があります。
だからこそ、書状、日記、安堵状、感状、当時の記録などと照らし合わせながら読む。
これが、歴史学の面倒くさくて面白いところです。
つまり、
「信長公記に書いてあるから史実!」
という言い方も、実は少し雑です。
もちろん、『信長公記』に書かれていることはとても重要です。
でも、そこで終わりではありません。
誰が書いたのか。
いつまとめられたのか。
何をもとに書かれたのか。
書いた人はどの立場だったのか。
他の史料ではどうなっているのか。
そういうことを考えながら読む必要があります。
史料ですら、そうなのです。
ましてや、歴史小説や漫画やゲームは、なおさらです。
創作は創作。
史料は史料。
研究は研究。
この区別は、とても大事です。
さらに言うと、歴史には通説があります。
異説もあります。
有力説もあります。
昔はそう考えられていたけれど、今は見直されている説もあります。
新しい史料が出てきたことで、評価が変わることもあります。
同じ出来事でも、どの史料を重視するかによって見方が変わることもあります。
つまり、
「これが絶対に正しい史実です!」
と、きれいに言い切れないことがとても多いのです。
ここで、ワンコさんの大奥事故現場検証に付き合ってくださった、あの先輩のお言葉を思い出します。
現在は教授をされている、あの優秀な先輩です。
先輩は、歴史についてこう言っておりました。
「研究すればするほど迷宮に入る」
本当にそれです。
調べれば調べるほど分かる。
分かるのですが、同時に分からないことも増える。
この説もある。
あの説もある。
この史料ではこう書いてある。
でも別の史料では違う。
後世の編纂物ではこうなっている。
けれど同時代史料では確認できない。
では、どこまで言えるのか。
どこからは推測なのか。
どれを採用するのか。
歴史学、迷宮です。
しかも入口には「通説」と書かれた看板が立っているのに、少し奥へ進むと「異説」「再検討」「近年の研究では」「ただし史料上は未確定」という分岐が無限に出てきます。
やめてください。
ワンコさんは迷子になります。
そして、歴史は見る人間の主観によっても評価が変わります。
同じ人物でも、味方から見れば忠臣。
敵から見れば逆賊。
民から見れば圧政者。
家臣から見れば理想の主君。
後世から見れば先見の明があった人。
同時代から見れば、ただの厄介者。
そういうことが普通にあります。
誰の視点で見るか。
どの立場から評価するか。
どの時代の価値観で判断するか。
それだけで、人物像は大きく変わります。
ワンコさんの祖父方の本家の話も、まさにそれでした。
ひい爺さんの口伝では、忠義に熱い家。
鎌倉幕府側の記録では、だいぶ悪く書かれた家。
後から見つかった日記によって、忠義を果たすために朝敵になってしまった家ではないか、と見方が変わった家。
同じ家なのに、どこから見るかで評価が変わる。
歴史とは、そういうものなのだと思います。
だからこそ、歴史創作で人物を書く時も、
「この人は善人です」
「この人は悪人です」
と簡単に決めつけるのは怖い。
もちろん、物語として分かりやすくするために、善悪を強めることはあります。
けれど、実在した人物を扱う時には、その人にも立場があり、事情があり、見ている側の主観で評価が変わってきたのだということは、忘れたくないと思っています。
ただし、ワンコさんは創作を軽く見ているわけではありません。
むしろ、創作の力はすごいと思っています。
歴史の入口として、創作ほど強いものはなかなかありません。
教科書で名前だけ見た武将も、小説や漫画やゲームの中で出会うと、一気に身近になります。
名前を覚えます。
家紋を覚えます。
関係性を覚えます。
合戦名を覚えます。
そして気づけば、
「ちょっと史実を調べてみようかな」
となることがあります。
これ、すごいことです。
入口としては、ものすごく優秀です。
だから、ワンコさんは歴史創作が好きです。
歴史小説も好きです。
歴史漫画も好きです。
歴史ゲームも好きです。
大河ドラマも好きです。
そこから歴史に入る人がいていいと思っています。
むしろ、大歓迎です。
けれど、入口に立っただけで、その時代を全部知った気になってはいけない。
ここです。
ここが大事です。
入口は入口。
その先には、史料があります。
研究があります。
概説書があります。
論文があります。
専門家たちが積み上げてきた、とんでもなく地味で、とんでもなく大変な作業があります。
創作をきっかけに興味を持ったなら、そこから調べればいい。
小説は入口。
漫画も入口。
ゲームも入口。
ドラマも入口。
けれど、入口に立っただけで、その時代を全部知った気になってはいけない。
入口から先に進むなら、史料や研究に触れる必要があります。
そして、逆に。
入口である創作に対して、
「これは史実と違うから駄目」
と一刀両断してしまうのも、少しもったいないと思います。
もちろん、史実を名乗って大嘘を書いているなら問題です。
実在の人物や出来事を扱う以上、最低限の敬意は必要です。
けれど、最初からIFとして掲げている作品に対して、
「史実と違う」
と言われても、
ええ、違います。
IFですので。
という話になってしまいます。
ワンコさんが書いている戦国IFも、まさにそうです。
史実を下敷きにはしています。
史料や通説も見ます。
けれど、史実そのものを再現する作品ではありません。
「もしも、こうだったら」
を楽しむ作品です。
もしも、柴田勝家公に史料には残らなかった家族の顔があったなら。
もしも、勝家公が不器用だけれど情の深い人だったなら。
もしも、その隣に、彼の人生を少し変える人がいたなら。
そういう空白に、物語を差し込んでいます。
だから、ワンコさんは歴史小説や歴史IFを書く時、いつも少し緊張します。
史実に対して不誠実になっていないか。
実在した人物を雑に扱っていないか。
けれど、創作としての面白さを失っていないか。
読者様に、これは史実そのものではなくIFだと伝わっているか。
考えすぎると、頭を抱えます。
歴史学科卒の面倒くさいところです。
でも、その面倒くささも含めて、歴史創作は楽しいのです。
史料に残っていることを大切にする。
史料に残っていないことを、断定しない。
でも、残っていないからこそ想像できる余地を、物語として楽しむ。
そのバランスを取りながら書くのが、ワンコさんにとっての歴史IFです。
ここで、読む側にも少しだけお願いがあります。
歴史創作を読んで、
「この人、実際はどうだったんだろう」
と思ったら、ぜひ調べてみてください。
最初は難しい論文でなくてもいいと思います。
まずは概説書でもいい。
博物館の展示でもいい。
自治体や文書館の解説でもいい。
史料集の現代語訳でもいい。
そこから少しずつ、
「あ、創作ではこうだったけれど、史実ではこういう説があるんだ」
「この話は後世の軍記物で広まったものなんだ」
「この人物、思っていたより史料が少ないんだ」
と知っていけばいいのだと思います。
その瞬間、歴史はもっと面白くなります。
創作で好きになった人物を、史料や研究でまた違う角度から見る。
それは、創作を否定することではありません。
むしろ、楽しみ方が増えることです。
ワンコさんはそう思っています。
歴史小説は、歴史への入口です。
けれど、歴史そのものではありません。
史実を学ぶ入口であり、興味を持つきっかけであり、過去に生きた人々へ手を伸ばすための物語です。
だからこそ、履き違えたくない。
創作を史実の代わりにしてはいけない。
でも、創作が歴史への入口になる力も、軽んじてはいけない。
ワンコさんは、そう思っています。
歴史学科卒のワンコさんがショックを受けた日本史。
それは、史料の怖さを知ることでもありました。
同時に、物語の力を知ることでもありました。
入口としての物語。
その先にある史料。
通説。
異説。
研究者を迷宮に連れ込む史料たち。
そして、その間で頭を抱える作者。
ええ。
ワンコさんは今日も、戦国IFを書きながら頭を抱えております。
次回は、歴史創作を書く時にワンコさんが気をつけている「史実・通説・本作独自設定」の分け方について、もう少し具体的にお話ししようと思います。
たぶん、また面倒くさい話になります。
歴史学科卒、こういうところが面倒くさい。