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作品タイトル不明

第6話 史実と通説と本作独自設定を分けたい

前回、歴史小説は入口であって、教科書ではない、というお話をしました。

歴史小説。

歴史漫画。

歴史ゲーム。

大河ドラマ。

そういうものは、歴史に興味を持つ入口として、とても強い。

ワンコさん自身も、某戦国ゲームから戦国時代にずぶずぶ入りました。

部活のない日は天下取り。

画面の中で。

ええ。

とても楽しかったです。

ただし、創作は史実そのものではありません。

そして、そもそも史実側にも通説があり、異説があり、有力説があり、再検討されている説があり、史料によって見方が変わることがあります。

さらに、見る人の立場によって評価も変わります。

歴史学、迷宮です。

現在は教授をされている、例の大奥事故現場検証に付き合ってくださった先輩のお言葉を借りるなら、

「研究すればするほど迷宮に入る」

本当にそれです。

入口には「通説」と書かれた看板が立っているのに、少し奥へ行くと、

「異説」

「近年の研究では」

「ただし史料上は未確定」

「後世の編纂物によれば」

「一次史料では確認できない」

みたいな分岐が無限に出てきます。

やめてください。

ワンコさんは迷子になります。

さて。

そんな迷宮の中で歴史創作を書く時、ワンコさんが気をつけたいと思っていることがあります。

それが、

「史実」

「通説」

「異説」

「史料の空白」

「本作独自設定」

を、できるだけ自分の中で分けておくことです。

これが、まあ面倒くさい。

とても面倒くさい。

歴史学科卒の悪い癖が出ます。

でも、ここをぐちゃぐちゃにすると、自分でも分からなくなるのです。

まず、史実。

これは、比較的確度が高いものです。

たとえば、ある人物がその時代に存在したこと。

ある合戦が起きたこと。

ある人物が、ある時期にある陣営にいたこと。

本人の書状や同時代の日記、命令書、安堵状、感状などで確認できること。

もちろん、史実と言っても、完全無欠の真実という意味ではありません。

歴史は、残された史料をもとに組み立てるものです。

だから、史実と呼ばれるものも、

「史料に基づいて、かなり確度が高いと考えられている事実」

くらいに考えた方が近いのだと思います。

次に、通説。

これは、多くの研究や概説書などで一般的に採用されている見方です。

教科書的な理解に近いものもあります。

多くの人が、

「だいたいこう考えられている」

と受け取っているものです。

ただし、通説だから絶対に正しい、というわけではありません。

通説も、後から見直されることがあります。

新しい史料が出てきたり、別の読み方が提示されたり、研究の進展によって評価が変わることもあります。

歴史、油断なりません。

次に、異説。

これは、通説とは違う見方です。

史料の読み方が違う。

重視する史料が違う。

人物評価が違う。

出来事の解釈が違う。

そういうものです。

異説と言っても、ただの珍説という意味ではありません。

きちんと史料や論拠に基づいて提示されているものもあります。

もちろん、説によって信頼度や受け入れられ方は違います。

そこがまた難しい。

通説。

異説。

有力説。

少数説。

再検討中。

史料不足。

分かりません。

歴史学、容赦がありません。

そして、史料の空白。

これが、歴史創作を書く時にはとても大きいです。

史料に書かれていないこと。

分かっていないこと。

確認できないこと。

後世の系図や軍記物には出てくるけれど、同時代史料では確認しづらいこと。

そもそも記録が残っていないこと。

ここに、創作の余地が生まれます。

ただし、ここはとても危うい場所でもあります。

史料にないから、何を書いてもいい。

そういう話ではありません。

史料にないことを、史実として断定してはいけない。

ここは大事です。

とても大事です。

でも、史料にないから、物語として想像してはいけない、ということでもない。

この塩梅が難しいのです。

たとえば、柴田勝家公です。

勝家公については、安堵状や感状、書状など、政治や軍事、領国支配に関わる史料はあります。

織田家の重臣としての動きや、越前での支配に関わることなどは、手がかりがあります。

けれど、勝家公の内面。

家族に見せた顔。

妻への接し方。

日常の言葉。

家臣たちとどんな空気で話していたのか。

そういう部分は、なかなか見えません。

史料が少ない。

本当に少ない。

では、そこに何もなかったのか。

そんなわけはないのです。

勝家公だって生きていた人間です。

朝起きて。

食べて。

怒って。

考えて。

誰かと話して。

誰かを気にかけて。

時には失敗して。

時には笑ったかもしれない。

けれど、そういう日常は史料に残りにくい。

特に戦国時代は残りにくい。

まして、敗者側に回った人物なら、なおさら残りにくい。

だから、そこに空白があります。

この空白に、

「もしも、こうだったら」

を差し込むのが歴史IFです。

ここで出てくるのが、本作独自設定です。

本作独自設定。

つまり、

「史実として断定するものではありません」

「通説として広く認められているものでもありません」

「この作品では、こういう設定で書いています」

という部分です。

ワンコさんが戦国IFを書く時、ここをできるだけ意識したいと思っています。

たとえば、

「この人物の年齢を、本作ではこう設定しています」

「この人物の婚姻関係を、本作ではこう変えています」

「この出来事の結果を、本作ではこう分岐させています」

「史実では実子が確認しづらい人物に、本作では実子がいる設定にしています」

「この人物の内面や夫婦関係は、本作独自の解釈です」

こういうものです。

もちろん、物語本文の中でいちいち、

「ここから本作独自設定です」

「これは通説ではありません」

「ここは史料上未確定です」

などと書いていたら、小説ではなく注釈集になります。

読者様がそっと閉じます。

ワンコさんも閉じます。

なので、本編では物語として書きます。

けれど、前書きやあとがき、登場人物紹介、補足などで、

「この作品は戦国IFです」

「史実・通説とは異なる独自設定を含みます」

「人物像・年齢・婚姻関係・出来事の順序などを変えています」

と伝えておきたい。

これは、読者様に対する案内です。

そして、歴史への最低限の礼儀でもあると思っています。

ワンコさんが怖いのは、

「創作した設定が、史実として受け取られてしまうこと」

です。

もちろん、読者様の多くは分かって読んでくださっていると思います。

けれど、歴史ものは実在の人物を扱います。

実在の地名を扱います。

実在の出来事を扱います。

だからこそ、創作した部分がまるで史実のように広まるのは怖い。

昔からあります。

軍記物で広まった逸話。

講談で有名になった人物像。

小説で定着したイメージ。

ドラマで強まった印象。

ゲームで一気に広まったキャラクター像。

そういうものが、後世の人々の歴史イメージに影響を与えることはあります。

それ自体が悪いとは思いません。

創作には力があります。

入口としての力があります。

でも、力があるからこそ、書く側は少し慎重でいたい。

ワンコさんはそう思っています。

たとえば、ある人物を悪役にするとします。

物語上、敵役として立たせる必要がある。

主人公側と対立する。

その人物の行動によって、物語が動く。

そういうことはあります。

でも、その人物は本当に史実でも完全な悪人だったのか。

その行動には、その人なりの事情があったのではないか。

その人物を悪く書いた史料は、どの立場から書かれたものなのか。

勝者側の視点ではないのか。

後世の評価ではないのか。

そういうことを考えます。

考えすぎると、筆が止まります。

困ります。

歴史学科卒、面倒くさい。

でも、考えないまま書くのも怖い。

なので、ワンコさんは自分の中で線を引きます。

ここは史料にある。

ここは通説。

ここは異説を参考にしている。

ここは史料の空白。

ここから先は本作独自設定。

そうやって分けておくと、少しだけ書きやすくなります。

もちろん、完全には分けきれません。

物語にしていく以上、どうしても混ざります。

人物の会話は、ほぼ創作です。

内面描写も創作です。

日常のやり取りも創作です。

「この時、この人はこう思ったはずです」

なんて、史料で確認できることはほとんどありません。

手紙や日記が残っていても、それは書いた人が書き残した言葉です。

心の中そのものではありません。

だから小説の中の内面描写は、作者の想像です。

ここを忘れてはいけない。

でも、想像だからこそ、物語になる。

その人物が何を見て、何を考え、何に傷つき、何を選んだのか。

史料の行間に、心を置いていく。

それが歴史小説の面白さだと思っています。

ただし、その行間に置いた心は、作者が置いたものです。

史実そのものではありません。

そこを自覚して書く。

そして、必要なら読者様にも伝える。

それが、歴史創作を書く時の誠実さなのかなと思います。

ワンコさんが書いている戦国IFもそうです。

史実では、柴田勝家公に実子がいたかどうか、非常に曖昧な部分があります。

後世の系図などに名前が見える人物はいます。

けれど、同時代史料で実子関係まで明確に確認できるかとなると、難しい。

だから本作では、そこを「史実です」とは言いません。

言えません。

本作では、

「もしも、勝家公に実子がいたなら」

「もしも、その子が藤乃との間に生まれた子だったなら」

「もしも、その存在が後の歴史を少し変えたなら」

というIFとして扱っています。

これは、本作独自設定です。

史実の断定ではありません。

でも、その空白に物語を差し込むことで、勝家公の違う顔を書けるのではないかと思っています。

鬼柴田。

無骨な猛将。

そう呼ばれた人が、父としてどう振る舞ったか。

夫としてどう変わったか。

家族を持った時、どんな顔をしたか。

史料には残らなかったかもしれない顔を、物語として書く。

それが、ワンコさんの戦国IFです。

ここで大事なのは、開き直りすぎないことだと思っています。

「どうせ創作だから何を書いてもいい」

とは思いたくありません。

でも、

「史料にないから何も書けない」

とも思いたくありません。

その間です。

面倒くさいですね。

とても面倒くさい。

でも、この間が好きなのです。

史料にあるものを大切にしながら。

史料にないものを断定しないようにしながら。

それでも、空白に物語を置く。

歴史IFを書く時、ワンコさんはいつもそのあたりをうろうろしています。

たぶん、これからもずっとうろうろします。

そして、読者様にもお願いしたいことがあります。

歴史創作を読む時、

「これはどこまで史実なのかな?」

と思ったら、ぜひ調べてみてください。

作者が補足を書いていたら、それを読むのもいいと思います。

気になる人物が出てきたら、概説書を読むのもいいと思います。

博物館や文書館の解説を見るのもいいと思います。

自治体の歴史資料ページを見るのもいいと思います。

史料集の現代語訳を探すのもいいと思います。

いきなり専門論文に飛び込まなくても大丈夫です。

あれは沼です。

足を取られます。

でも、少し調べるだけでも、

「あ、この人物、創作ではこう描かれていたけど、史実ではこういう説があるんだ」

「この話、後世の軍記物由来なんだ」

「この出来事、実はかなり諸説あるんだ」

と分かることがあります。

それは、創作を否定することではありません。

むしろ、創作をもっと楽しむための入口になります。

歴史創作は、史実そのものではありません。

けれど、史実へ近づく入口にはなれます。

物語の扉を開けた先に、史料があり、研究があり、通説があり、異説があり、迷宮があります。

ようこそ。

歴史学の迷宮へ。

ワンコさんは入口付近で何度も迷子になっています。

さて。

このように、ワンコさんは歴史創作を書く時、

「史実」

「通説」

「異説」

「史料の空白」

「本作独自設定」

をできるだけ分けたいと思っています。

思っていますが、完璧にはできません。

なので、間違いがあれば修正します。

新しいことを知れば、補足します。

本編のテンポを優先して説明を省くこともあります。

どうしても物語として分かりやすくするために、史実とは違う形にすることもあります。

でも、その時はできるだけ、

「ここは本作独自設定です」

と伝えたい。

それが、ワンコさんなりの歴史創作との付き合い方です。

歴史は面白いです。

でも、単純ではありません。

創作も面白いです。

でも、史実そのものではありません。

その二つの間で、ワンコさんは今日も頭を抱えています。

次回は、少しだけ読者様から来る「史実と違うのでは?」という疑問への向き合い方について書いてみようと思います。

歴史ものを書くと、どうしても出てくる話です。

そしてワンコさんは、たぶんまた頭を抱えます。

歴史学科卒、こういうところが本当に面倒くさい。