作品タイトル不明
第2話 一次史料って何ですか?
前話で、ワンコさんの祖父方の本家が、どうやら朝敵として悪く書かれていたらしい、という話をしました。
勝てば官軍。
負ければ極悪人之家也。
……と、言いたくなるくらいには、大学に入って早々、ワンコさんは歴史学から強めのパンチをもらいました。
さて。
そこで出てくるのが、歴史学科で学ぶ大事な言葉です。
一次史料。
歴史学を学んでいると、かなり早い段階で出てくる言葉です。
なんだか難しそうに聞こえますが、ものすごくざっくり言えば、
「その時代、その出来事に近いところで書かれたり、作られたりした史料」
のことです。
たとえば。
本人が書いた手紙。
当時の日記。
当時の役所や寺社の記録。
その時代に交わされた書状や命令書。
そういったものが、一次史料にあたります。
逆に、後の時代になってから、
「あの時代はこうだったらしい」
「この人物はこういう人だった」
とまとめられたものは、二次史料、あるいは後世の編纂物として扱われます。
もちろん、後世の編纂物に価値がないわけではありません。
むしろ、とても大事です。
そこにしか残っていない情報もあります。
後の時代の人々が、その人物や事件をどう見ていたのかを知る手がかりにもなります。
ただし。
「その出来事が起きた当時に、その場に近い人が書いたもの」
と、
「後の時代の人が、何らかの意図や視点を持ってまとめたもの」
は、同じようには扱えません。
ここ、大事です。
とても大事です。
ワンコさんも歴史学科で、まずここを叩き込まれました。
史料に書いてある。
それは大事。
でも、その史料は誰が書いたのか。
いつ書いたのか。
何のために書いたのか。
誰に見せるために書いたのか。
その人は、どの立場の人間だったのか。
元になった記録は何なのか。
それを考えずに読むと、歴史は簡単に歪みます。
たとえば、祖父方の本家の話です。
ワンコさんの記憶の中では、
『極悪人之家也』
……という言葉が強烈に残っております。
ただし、これが原文そのままだったのか、教授の説明がワンコさんの脳内でそう変換されたのかは、正直うろ覚えです。
ここで大事なのは、
「ワンコさんの祖父方の本家が、鎌倉幕府側の記録でだいぶ悪く書かれていたらしい」
ということです。
そして、その記録は、事件が起きたその瞬間に書かれたものではありません。
平安時代末期に起きた出来事が、後の鎌倉時代に、鎌倉幕府側の視点でまとめられたものです。
つまり、そこには書いた側の立場があります。
幕府側の都合があります。
後世に伝えるための整理があります。
もちろん、『吾妻鏡』はとても重要な史料です。
鎌倉時代を知る上では欠かせない、めちゃくちゃ大事な史料です。
ただ、重要な史料であることと、そこに書かれている内容を何も考えずに丸呑みしていいことは、同じではありません。
歴史学科に入ったワンコさんは、そこを学びました。
史料は疑え。
でも、史料を軽んじるな。
この感覚です。
疑うと言っても、
「どうせ嘘でしょ?」
という意味ではありません。
そうではなく、
「これは誰の視点なのか?」
「何のために書かれたのか?」
「他の史料ではどうなっているのか?」
「書かれていない側の事情は何か?」
と考える、ということです。
歴史学でいう、史料批判というものです。
ワンコさん、この言葉を最初に聞いた時、ちょっと格好いいなと思いました。
史料批判。
なんか強そう。
必殺技みたいですね。
しかし実際にやることは、地味です。
とても地味です。
ひたすら史料を読みます。
他の史料と比べます。
日付を見ます。
書いた人を見ます。
立場を見ます。
文字の違いを見ます。
写しなのか、原本なのかも見ます。
後世に書き足された可能性がないかも見ます。
地味です。
ものすごく地味です。
でも、その地味な作業の積み重ねで、
「この話は、どこまで言えるのか」
「ここから先は推測なのか」
「これは後世のイメージなのか」
を分けていくわけです。
たとえば、
「史料に名前がある」
という言い方があります。
これも、実はかなり幅があります。
本人が出した手紙に名前があるのか。
同時代の日記に名前があるのか。
後世の系図に名前が載っているのか。
江戸時代以降の編纂物に書かれているのか。
家の口伝として残っているのか。
全部、重みが違います。
同じ「名前がある」でも、扱い方は変わります。
ここを間違えると、
「史料にあるんだから史実!」
みたいなことになってしまいます。
いや、違うのです。
史料にあることは大事です。
でも、それがどんな性質の史料なのかを見なければいけません。
一次史料なのか。
後世の編纂物なのか。
口伝なのか。
後の人が作った物語なのか。
そこを見ないと、歴史はすぐに迷子になります。
そして、ここでワンコさんの祖父方の本家の話に戻ります。
ひい爺さんから聞いていた口伝では、
「鎌倉武士の流れを汲む家」
でした。
けれど教授のお話では、正しくは、
「平安時代末期の某武士に仕え、その家中で執権的な立場にあった家」
という方が近かったようです。
だいたい合っているようで、だいぶ違う。
でも、完全に間違いでもない。
ここが面白いところです。
口伝はズレます。
かなりズレます。
でも、核のようなものは残っていることがあります。
家が何かしら武士の家に関わっていたこと。
忠義という言葉で語られていたこと。
朝敵になってしまうような事件に巻き込まれていたこと。
細部はズレても、何かしらの記憶は残っていた。
ただ、その記憶だけでは歴史にはなりません。
史料と突き合わせる必要があります。
そして、史料と突き合わせた結果、
天国のひい爺ちゃん?
話がだいぶ違うんですが?
ということも起こります。
歴史学、油断なりません。
さらに怖いのは、史料がそもそも残らないことです。
前回も少し書きましたが、朝敵となった家と付き合いがあるだけで、周囲の家まで疑われる可能性がありました。
だから、関係を示す手紙を焼いてしまうことがある。
自分たちを守るために消すことがある。
つまり、史料がないからといって、
「何もなかった」
とは限りません。
残せなかったのかもしれない。
残したくても焼かれたのかもしれない。
洪水で流れたのかもしれない。
戦乱で失われたのかもしれない。
後の時代に価値がないと思われて捨てられたのかもしれない。
史料がない。
この言葉の裏には、いろいろな事情があります。
歴史は、残ったものでしか語れません。
けれど、残らなかったものが存在しなかったわけではありません。
ここが、ワンコさんが歴史学科で学んで、かなりショックを受けたところでした。
歴史とは、残された史料を読むものです。
でも、史料に残ったものだけが、過去のすべてではありません。
残った史料には、書いた人の立場があります。
残らなかった史料には、残らなかった理由があります。
口伝はズレます。
後世の編纂物には視点があります。
そして、一次史料であっても、書いた人の都合があります。
つまり、歴史は思った以上に難しい。
そして、思った以上に人間くさい。
ワンコさんは、歴史学科に入るまでは、歴史というものをもう少しきれいなものだと思っていました。
年号があって。
人物がいて。
事件が起きて。
その結果が教科書に載っている。
そんな感じです。
でも、実際に学んでみると違いました。
その年号の裏に、人がいる。
その事件の裏に、書いた人と書かれなかった人がいる。
その人物像の裏に、勝った側の視点と、負けた側の沈黙がある。
歴史は、思ったよりずっと生々しい。
そして、思ったよりずっと怖い。
一次史料。
たった四文字の言葉ですが、ワンコさんにとっては、
「歴史を見る目が変わる言葉」
でした。
次回は、そんな一次史料や記録がたっぷり残っている江戸時代のお話をしようと思います。
江戸時代は、史料が多いです。
多いです。
本当に多いです。
どれくらい多いかと言いますと、
徳川将軍が大奥のどこで事故を起こしたかを追えるくらいには、多いです。
歴史学、次回も容赦がありません。