作品タイトル不明
109 大公夫人の見学
連絡なしに軟膏工房に行くのはさすがにためらわれた。
「大公夫人、すぐに出発なさいますか?」
「いいえ。工房の準備もあるでしょうから、少し時間を置いてからにしましょう」
大公夫人の意見でいったん解散となった。大公夫人とその従者が部屋を出てから、デルフィーヌ様が申し訳なさそうに私に謝る。
「急にこんなことになって悪かったわ。軟膏工房には隠すべきものがあるはずよ。アッシャー夫人、急いで院長に手紙を書いて。早馬で届けさせます」
素早く女官さんが紙とペンを持ってきた。私は工房の中を思い出しながら院長宛に手紙を書いた。
これからすぐに他国の貴族一行がそちらを視察すること、工房内にある軟膏のレシピは念のため全て隠してほしいこと、働く女性たちの服装などはそのままでかまわないこと。
院長は、さぞかし驚くだろう。しかも今連絡してすぐに訪問だ。院長に申し訳ない。
「デルフィーヌ様、軟膏のレシピは無償で教わったものなのですが、今日のところは大公夫人にはお見せしないほうがよろしいでしょうね?」
「もちろんです。評判の軟膏ではありませんか。レシピは隠しなさい」
「承知しました。では私は馬車の近くで大公夫人をお待ちします。この手紙をお願いします」
「私は同行できないけれど、よろしく頼みます」
手紙を渡して急いで部屋を出た。王妃付きの侍従さんが手紙を手に慌てた様子で私を追い抜いていく。
大公夫人を待ちながら馬車を眺めていて、気になるものを見つけた。(あれは……)と思っていると一行がやって来た。
「待たせましたね、アッシャー子爵夫人。先導を頼みます」
「かしこまりました」
我が家の馬車が先頭になり、大公夫人の馬車とその前後を挟む護衛の馬車、その周囲を固める騎馬隊が修道院を目指す。道行く人々が「何事?」という表情で振り返る。この件は貴族の間で噂になるでしょうねぇ。
また「何があったの?」「誰とどこへ行ったの?」とお茶会で聞かれるだろう。
修道院に到着すると、院長と女性たちが外で整列して待っていた。大公夫人が院長に、「どうかいつもと同じように働いているところを見せてください」と伝え、院長の指示で女性たちが慌ただしく工房に戻る。院長と女性たちの表情が、緊張を通り越して怯えているようにさえ見える。本当に申し訳ない!
私が院長と目を合わせると、院長が小さくうなずく。
(レシピは隠しましたか?)
(もちろんです)
一瞬視線を交わしただけでそんなやり取りが成立した……と思う。大公夫人は出入り口に掲げられている看板を見上げ、外から建物を見回している。
「軟膏工房ですか。思っていたよりも大掛かりだわ」
軟膏工房に入ると、原材料と配合比率が書いてあった紙が壁から剥がされていた。薬草の実物も片付けられている。
「爽やかな香りがすること」
「軟膏の材料に使う薬草の香りです」
「レシピは秘密ですか?」
「はい。申し訳ございません」
「いいのよ。レシピは財産ですもの、それが普通です」
院長に促されて女性たちが仕事を始めた。女性たちは緊張しているが、身体は作業を覚ているから動きは滑らかだ。容器の中で軟膏を練る者、完成した軟膏をガラスの容器に詰める者。全員の動きに無駄がない。
「アッシャー子爵夫人、この軟膏はどのような効能があるの?」
「切り傷、火傷、あかぎれなどでございます。吹き出物にも効きます」
言いながら詰めたばかりの小瓶を差し出した。レシピは秘密だが、実物があるのに渡さないのは失礼だ。
「ありがとう」
大公夫人は蓋を開けて匂いを嗅いでいる。それからテーブルの上にある材料に目を向けた。油脂類や蜜蝋、蜂蜜は見てわかるだろうが、この軟膏の肝である薬草は加工されて原型がわからないから好きに眺めてもらう。
「あなたが言っていた『従業員への教育』はどんなことかしら」
「全員が胸に付けている名札は、当人が書いたものです。我が国の平民の識字率はまだ低く、まずは自分の名前を読み書きできて、職場の仲間の名前を読めるようになるところから、と思いました」
その先は院長が説明することになった。
「数字の読み書きと簡単な計算も修道院で教えています。働いた日数と自分の賃金を照らし合わせて、支払われた金額に間違いがないかを確認するところから教えています。自分にかかわるお金の計算ができるようにならないと、他の職場で騙されることもありますので。休憩室には本を置いてあります。本は全てアッシャー夫人が提供してくださいました」
「本を? 休憩室を見せてくれる?」
「こちらでございます」
軟膏工房を建てる際に作った休憩室は、修道院から持ってきたお弁当を食べたり休憩に使われたりする。本は実用書と小説が半々。この本をきっかけに読み書きに興味を持ってほしいと願って買い揃えた。
「まあ、ずいぶんたくさんの本があるのね。しかも新しい本ばかりだわ。アッシャー子爵夫人、あなたが買い揃えたのね?」
「はい。刺繍、料理、裁縫の実用書は、かなり役立っているようです。小説を読める者はまだ少なく、読める者が少しずつ読み聞かせをしています」
本を手に取ってパラパラと中に目を通していた大公夫人が再び作業場に戻り、働き手の女性たちに質問を始めた。女性たちが私を見る。正直に答えていいかどうか、わからないのだろう。
「本当のことをそのまま答えてね」
私がそう伝えると、女性たちは安心したようだ。
「ここでの一日当たりの賃金はいくらか」
「他の仕事をしたことがあるか。そこでの賃金はいくらだったか」
大公夫人がほぼ全員にあれこれと質問をして、答えを聞き終わるのに一時間ほど使った。アシュベリー側の文官さんとエリオット様が小声でやり取りをしている。エリオット様が大公夫人に近寄って小声で注意を促した。
「そろそろ戻らないとお茶会に遅れます」
「そう。わかりました。アッシャー子爵夫人、あなたの配慮と 志(こころざし) は十分わかりました。参考になったわ。突然訪れて悪かったわね。でも、入念に準備された場所ではわからないことがあるのよ」
アシュベリー側でも女性が働く職場を用意しているのだろうが、そういう場所は入念に準備され、受け答えも練習されているはずだ。大公夫人は、働く女性の生の声が聞きたかったに違いない。
城に戻り、大公夫人がデルフィーヌ様の侍従に導かれて進む。私は最後尾にいたエリオット様に話しかけた。
「エリオット様、私から声をかけることをお許しください」
エリオット様が足を止め、柔和な笑顔で私を見た。
「どうぞいつでも気楽に話しかけてください」
「先ほど、初めて大公夫人の馬車を拝見しました。馬車に何か所か傷がありますね。塗料が剥げた部分を黒く染めてありました。私の夫が軍務副大臣なので私も多少は知識があるのですが、あれは刃物でついた傷跡のように見えました。他国を訪問するのに傷がある馬車を使うはずがありませんから、道中でのことですね?」
エリオット様がギクリとした。私を見る顔が一瞬、それまでのふんわりした好青年から圧を感じさせるほど頭脳明晰な文官の顔になった。なるほど。こっちが 素(す) ですか。
エリオット様の素顔は一瞬で温厚な表情の奥に引っ込んだ。
「鋭いですね。襲撃があったのはランダル国内です。我が国内での出来事ですし、我々は無傷でした。大公夫人が襲撃されたことは、ランダル王国の恥ですからペンキで隠しました。だがあなたが気づいたのなら、こちらの警備の方々にも気づかれているかもしれませんね」
エリオット様が苦い顔をし、次に心配そうな顔になった。
「ランダル王国内には、女性の地位向上を訴える母に不満を持つ者が多いのです。我が国は決して治安が悪いわけではないのですが……息子としてもランダルの役人としても、この件は内密に願います。私は母と国の名誉を守らねばなりません。お察しください」
エリオット様は胸に手を当てて頭を下げた。
「ご無事で何よりでした。余計なことを申し上げ、失礼いたしました」
そう答えて私は素早くその場を離れた。大公夫人の馬車が襲われたことを、少なくともデルフィーヌ様は知らない。知っていれば必ず私に伝えたはずだ。
エリオット様には「内密に」と言われたが、私はそれに了承の返事をしなかった。私が優先すべきはデルフィーヌ様だ。このことを伝えるべく、急いで城の階段を上がった。馬車を襲撃した連中が、既にこの国に入っているかもしれない。