作品タイトル不明
108 エマ・ランダル大公夫人
ランダル王国の王都にある貴族の館の一室で、殺気立った男の声が響いた。
「女の賃金を男と同じにする? そんな法案が通ったら、うちはどうなる! うちだけじゃない。その法案が通ったら破産したり育てた事業を諦めたりする貴族は多いはずだ!」
「父上、腹立たしいことに、貴族議会では大公の提案に同調する者が増えつつあります」
「大金を投じて工場を建て、大勢の女を雇い、やっとこれからという時に!」
父親は思わず手入れされた爪を噛みそうになったが、慌てて手を口から離した。貴族の爪が荒れているなど、あってはならないことだ。
「大公が貴族議会で演説をしたら、もう流れはあちら側に傾きますよ。大公は演説が上手ですからね。ですが父上、大公を動かしているのも、演説の文章を書いているのも夫人です。大公家の使用人から聞いたのですから間違いありません」
父親が「ほう?」と声を漏らした。
「ならば、夫人が演説の原稿を書かなければ、少しは時間が稼げるか? 時間を稼いでいる間に根回しをして『男女賃金同一法案』を潰せばいい」
「大公夫人は今月、アシュベリーに視察に行く予定です。馬車の事故が後を絶たないというのに、元気なことです」
「馬車での長旅は……たしかに事故が多いな。水が合わないこともあるだろうし、食中毒で寝込むこともあるだろう」
父親と息子が同時に薄く笑った。
◇ ◇ ◇
アシュベリー王国も最近の私の生活も毎日穏やかだ。今日は軟膏作り工房に来ていて、今後の軟膏の発売数の打ち合わせや就労希望者の最終面接をしている。
ジェフは軍務副大臣の仕事で忙しい。ノンナは最近、クラーク様と毎日手紙のやり取りをしている。
「クラーク様のお屋敷までは歩いても行ける距離なのに、手紙なの?」
「お仕事が忙しくて、クラーク様は毎日帰りが遅いの。でも私が毎日何をして過ごしたか、知りたいんだって」
クラーク様はノンナを溺愛している。溺愛が過ぎてノンナが息苦しく感じないかと心配していたが、当のノンナが嬉しそうだからこれはこれで平和だ。
昨日はマイルズさんから我が家に羊の毛がたんまりと届けられた。「洗うところから毛糸にしてセーターを編みたい」と伝えていたから、獣臭がする脂たっぷりの灰色の羊毛だ。
それをバーサと二人でせっせと洗い、乾かし、羊毛が白くなったところで糸車を使って毛糸を紡ぐのだ。私はこういう無心になれる作業が好きだ。
「奥様はどちらで糸の紡ぎ方を学ばれたのですか?」
「ランダル王国にしばらく住んでいたことがあるの。そのときに羊牧場の奥さんに教わったのよ。ただね、羊の品種が違うせいだと思うけど、ランダルの羊牧場で紡いだ毛糸とは手触りが違うのよ。ランダルの毛糸の方が質がいいのよね」
バーサは私がランダルに留学していたと思ったのだろう。すんなりと納得している。実際はノンナを連れての逃避行で、当時は自分とノンナの命を守ることに必死だった。
そんな私に王城から文官が手紙を運んできた。デルフィーヌ様からだった。手紙には『あなたに依頼したいことがある。できれば本日中に話し合いをしたい。何時でも構わない』と書いてあった。私はすぐに着替えを済ませた。
「デルフィーヌ様からのお呼び出しだから行ってくるわ」
「はい、行ってらっしゃいませ」
バーサは私がデルフィーヌ様の語学講師兼話し相手なのがとても誇らしいようで、王城からの呼び出しがあると嬉しそうだ。お城に着くと、すぐに面会の場に案内された。
「アッシャー子爵夫人、急で悪いわね」
「私はのんびり暮らしておりますので、問題ございません」
「今日はあなたにお願いがあるのです。ランダルの大公夫人が我が国にしばらく滞在することになっているの。エマ・ランダル大公夫人は国民の教育にとても熱心に取り組んでいる方です」
エマ・ランダルは王弟の妻。ずいぶん大物の来訪だ。そこでデルフィーヌ様が美しい眉をわずかにひそめる。
「本人からの強い希望で、我が国側が女性の通訳をつけることになったの。男性の通訳ならいくらでもいるけれど、大公夫人は女性を希望しています。我が国の貴族夫人たちも貴族の嗜みとして皆ランダル語を話せるけれど、大公夫人の通訳となると、多方面の知識が必要になるものだから……。コリンに聞いてみたけれど、『ランダル語を同時通訳できて、他国の要人にも対応できる貴族の女性は思い当たらない』と頭を抱えてしまって」
コリンというのはヨラナ様のご子息、コリン・ヘインズ宰相だ。
「引き受けてもらえるかしら。あなたなら安心して任せられるわ」
「承知いたしました。お任せください。大公夫人はアシュベリー語を全く話せないのでしょうか」
「そこに事情があるのです。大公夫人は三十を過ぎてから突然片耳の聴力を失って、残ったもう片方も年月と共に聞こえが悪くなったそうよ」
「大公夫人でしたらお付き合いも多いでしょうから、耳の聞こえが悪いのは大変ですね」
大人になってから聴力を失うと、対応するのも並大抵ではなかっただろう。
「読唇術……というのかしら。普段はそれで事足りているそうなんだけど、外国語の場合は専門の通訳を使っていたのですって。なのについ最近になって、アシュベリー語を担当していた通訳が体調を崩したらしいわ。我が国への訪問は変更なしなのだけれど……」
デルフィーヌ様の歯切れが悪い。そして申し訳なさそうなお顔になった。
「とても几帳面で気難しい人柄だそうよ。きっとあなたに気苦労をかけると思います」
「気難しいと言われる方のお相手は得意ですので、ご安心くださいませ」
「アッシャー夫人……」
デルフィーヌ様が立ち上がり、歩み寄ってきて私の手を取った。驚いている私に頭を下げる。
「デルフィーヌ様、おやめください。私は喜んでお引き受けするのですから」
「頼りになるあなたが大好きよ」
「光栄でございます。恐れ多いことですが、私もデルフィーヌ様が大好きですわ」
「嬉しいこと」
そこで二人でクスクスと笑った。
夕食時にその話を話したら、ジェフとノンナの反応は、予想通りだった。
「アンナなら問題ないだろう。むしろ俺は君が大公夫人に気に入られて、ランダルに連れて行かれるんじゃないかと心配だ」
「お母さんを気に入らない人なんて、今までいた?」
「事はそれほど簡単な話ではないと思うのだけれど。でも、ちょっと楽しみでもあるわ」
それからしばらくして、大公夫人が入国して王城に到着した。私に渡された日程表を見ると、かなりの時間を国王夫妻、特にデルフィーヌ様が対応される。私は控えめなドレスを選び、あまり存在感を出さないように気をつけてデルフィーヌ様の斜め後ろに立った。
大公夫人は灰色の髪、青い瞳、意思の強そうな薄い唇。背の高い女性だ。年齢は五十三歳と教えられた。
「大公夫人、こちらがアンナ・アッシャー子爵夫人です。私のランダル語の講師でもあります」
「初めまして。アンナ・アッシャーでございます。同時通訳を務めさせていただきます」
大公夫人は微笑みを浮かべて私の口元を見ている。私は唇の動きを読み取りやすいように、普段より大きく口を動かして挨拶をした。
「エマ・ランダルです。滞在中はよろしく頼みます」
大公夫人には若い男性の従者が付き添っている。灰色の髪に青い瞳。年齢は二十代後半くらいだろうか。たいそう見目麗しい若者だ。
「これは私の息子のエリオットです。エリオット、挨拶を」
「初めまして。エリオット・ランダルです。今回は母の秘書として同行しております。普段は王城で文官を務めております」
そこからはアシュベリーの文官がこの国の女性の社会進出について説明した。
私は大公夫人の斜め前に座り、アシュベリー語をランダル語に翻訳している。夫人は私の口元を見ながら文官の説明を理解してご自分で質問する、という形だ。
「アシュベリー王国は女性が積極的に社会参加していると聞いています」
「はい。我が国は商業王国ということもあり、女性が家の外で働くことを強く推奨しています」
「私は貧困層の女性の社会参加について知りたいのです。貧困層の女性の就労先に関する資料はありますか?」
文官さんの動きが止まった。こういう場合、貧困層の話はタブーなのではないだろうか。貧困に喘ぐ民がいることは、支配階級の手が行き届いていない証拠だ。どこの国でも貧困層はいるからお互い様とはいえ、他国の恥になることをこうも堂々と質問するとは。文官さんも戸惑っている。
一瞬の間が空き、大公夫人は私を見た。
「アッシャー子爵夫人、あなたは貧困層の女性の就労に関して、なにか意見はありますか?」
私? 素早くデルフィーヌ様を見た。デルフィーヌ様が小さくうなずいたのは「好きにしゃべってよい」という意味だ。
「貧困層の女性が働く場合、その職種が限られるのが現状です。根本的な問題は教育を受けていないことでしょうが、その層へ教育を浸透させるには長い時間と行き届いた制度と莫大な費用が必要になります。今日食べるパンを必要としている人々に対しては、雇用主の働きかけが大切だと考えております。そしてそれに対する国の援助も、です」
大公夫人が「面白いことを聞いた」という顔になった。
「雇用主の関与? 例えばどんな方法がありますか?」
「衣食住が足りてこそ、人は知識を得ようとする余裕が生まれます。まずは衣食住の確保ができるだけの収入を保証し、それから働く現場で少しずつでも必要な文字の読み書きを学ぶ機会を設ける、ということです」
「きれいごとに聞こえるわね。あなたは何かそれを実践しているの?」
実践している。しかし軟膏工房の話を持ち出すのはどうだろう。軟膏を大量に欲しいと言われたら、ちょっと困る。いや、かなり困る。なにしろ半年先まで予約が詰まっているのだ。なんと説明しようかと、少しだけ考えた。大公夫人はその 間(ま) を見逃さなかった。
「どうやら実践しているようね」
「ええ、そうですね……そうなのですが……」
「その現場を見せてもらえるかしら?」
秘書役のエリオット様が「本日のスケジュールは……」とやんわりと止めに入ったけれど、大公夫人は「この機会を逃したくない」と答える。考えを変える気はないようだ。大公夫人がにっこりと私に笑いかけてこう言い切った。
「これからあなたの言う貧困層の就労現場を見に行きたいのです。ぜひお願いするわ」
あらぁ。