軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第6話「扇のない食卓」

ドレスの背のボタンを、マルタが留めていく。

指先が首筋に触れるたびに、冷たい金具の感触がする。エルデヴァイスの仕立て屋が三日で仕上げた夜会用のドレス。深い藍色。ヴァイスフェルトで着ていた色とは違う。あちらでは淡い色を選んでいた。目立たないように。グレイス様の隣で影になれるように。

「奥様、よくお似合いです」

「……そうかしら」

鏡に映る自分を見る。藍色の布地が燭台の光を吸って、暗く深い色を返している。派手ではない。けれど隠れてもいない。

腰に手を当てる。何かが足りない。

扇。

三年間、夜会のたびに手にしていたもの。指が覚えている重さ。象牙の骨の冷たさ。あれがないと手の置き場がわからなくなる。

マルタがこちらを見ている。

「……大丈夫です」

言い聞かせるように言って、両手を体の横に下ろした。

エルデヴァイス王宮の大広間は、ヴァイスフェルトの晩餐会場の三倍はあった。

天井が高い。蝋燭ではなく、魔石の灯りが壁面に等間隔で並んでいる。白い光。影が少ない。隠れる場所がない広間。

ルシアン殿下が入口で待っていた。

「セレーナさん。ご紹介したい方が何人かいます」

「はい」

殿下の半歩後ろに続いて広間に入る。視線が集まる。外交顧問として着任した元ヴァイスフェルト公爵夫人。噂は広まっているのだろう。

最初に紹介されたのは、東の小国サヴェリアの通商大使だった。

「お噂はかねがね。サヴェリアとの交渉で殿下の新しい顧問が的確な分析をされたと、部下から報告を受けております」

「恐れ入ります。サヴェリアの穀物輸出の構造については、以前ヴァイスフェルトの交渉で扱ったことがございましたので」

口が動いている。自分の声が出ている。扇の裏ではなく、ただ空気の中に。

大使が頷く。隣にいた補佐官が身を乗り出す。関税率の話になり、数字を引く。手帳がなくても頭に入っている数字を、そのまま口にする。

「三年前の合意では免税枠を穀物に限定しておりましたが、サヴェリア側の真意は加工食品の流通路確保にあったかと存じます」

補佐官の目が変わった。こちらを値踏みする目から、話を聞く目に切り替わる瞬間。ヴァイスフェルトで何度も見た——いや、あそこではその瞬間にいつもグレイス様が割り込んできた。「俺から説明しよう」と。

今、割り込む人はいない。

「続けていただけますか」と大使が言った。

続けた。

三人目の要人と話し終えた頃、喉が乾いていることに気がついた。

ずっと喋っていた。こんなに長く、途切れずに自分の言葉を口にしたのはいつ以来だろう。口の中が乾いている。唇の端がかすかに強張っている。

給仕からグラスを受け取る。白葡萄酒。一口含むと、ブリューゲル産とは違う、青い果実の香りが鼻に抜けた。

手が口元に上がりかけた。グラスを持っていない方の手。扇を探す動作。もう何度目かわからない。そのたびに空を掴み、手を下ろす。

身体が覚えている。三年かけて刷り込まれたものは、数週間では消えない。

「お疲れですか」

ルシアン殿下の声が横から来た。いつの間にか隣に立っている。

「いいえ。少し、飲み物を」

「よかった。引き合わせたい方はまだいますが、急ぎません」

殿下はグラスを傾けながら、広間を見渡していた。視線がこちらに戻る。

「今日は扇をお持ちでないのですね」

心臓が一拍、跳ねた。

この方は気づいていた。この国に来た日の面談の時、口元に手を伸ばしたわたくしを見ていた。あの時何も訊かなかったのは、訊く必要がないと判断したからではなく——待っていたのだ。わたくしが自分でその話をする時を。

「ええ」

グラスの縁を見つめた。白葡萄酒の水面に、魔石灯の光が小さく揺れている。

「隠すものがなくなりましたので」

声は静かに出た。震えてはいなかった。

ルシアン殿下は少しだけ目を見開いた。ほんの一瞬。瞬きひとつ分にも満たない変化で、すぐにいつもの穏やかな表情に戻った。

「……そうですか」

それだけだった。

それ以上訊かない。意味を掘り下げない。「よかった」とも「大変でしたね」とも言わない。ただ、わたくしの言葉を受け取って、静かに頷いた。

その距離が、ありがたかった。

踏み込まれていたら、たぶん泣いていた。泣かずに済んだのは、この方がその一歩を踏まなかったから。

殿下がグラスを持ち替えた。

「サヴェリアの大使が、あなたともう少し話したいと言っていました。時間があれば」

「喜んで」

広間の明るい光の中を歩き出す。殿下が半歩先を行く。その背中は広いが、影にはならない。道を示すでもなく、ただ同じ方向に歩いている。

隣を歩いている。前でも後ろでもなく。

晩餐会が終わったのは夜半を過ぎた頃だった。

客室に戻る廊下は静かで、自分の足音だけが壁に返る。蜜蝋の甘い匂い。もう慣れ始めている、この国の匂い。

マルタが部屋で待っていた。

「お帰りなさいませ。いかがでしたか」

「……疲れました」

正直に言った。マルタの前では、見栄を張る必要がない。

「でも」

ドレスの背のボタンをマルタが外していく。金具がひとつ外れるたびに、肩が軽くなる。

「わたくしの言葉を聞いてくれる方が、たくさんいました」

「そうですか」

マルタの声は平坦だったけれど、ボタンを外す指の力が少しだけ優しくなったのを、背中で感じた。

机の前に座る。

手帳を開いた。今日の晩餐会で得た情報を書き留める。サヴェリア大使の発言の要旨、ブリューゲル側の新しい通商大使の名前と印象、東方辺境伯が気にしていた関税改定の時期。

ペンが走る。青みの強いインクが紙に沁みていく。

ヴァイスフェルト時代のページは細かい字でびっしり埋まっている。余白がないのは、限られた時間で、誰にも見せる予定のない記録を急いで書いていたから。

今日のページは違った。字が少し大きい。行間がある。急ぐ必要がない。明日もこの手帳を使う。明後日も。誰かに取り上げられることも、棚の隅に積まれることもない。

書き終えて、ペンを置いた。

インクが乾くのを待つ間に、ふと顔を上げた。

机の向かいに小さな鏡がある。客室の備品。化粧用ではなく、身だしなみを確認するための実用的な鏡。

映っている顔を見た。

晩餐会の化粧が少し崩れている。紅が薄れ、目元の黛が滲んでいる。完璧ではない顔。社交用ではない顔。

笑おうとはしなかった。

笑おうとしなかったのに、口元がわずかに緩んでいた。

それは作った形ではなく、ただ——そうなっていた。疲れと、少しの安堵と、まだ名前のつかない何かが混ざった、不揃いな表情。

ああ。

これが、わたくしの顔だったのですね。

鏡の中の自分は、扇を持っていない。口元が見えている。そして、それでよかった。

手帳を閉じて、灯りを落とす。

蜜蝋の残り香の中で、今日初めて、肩の力を抜いた。