作品タイトル不明
第5話「読めない言葉」
机の上が片付かない。
セレーナが出ていってから三週間。執務室の右端に書簡の束が積まれている。未開封が四通、開封したが中身がわからないものが七通。
俺はその束を見るたびに苛立つ。
開封した七通のうち、三通がエルデヴァイス語で書かれていた。外交書簡の慣例として、格式語と暗号的な言い回しが混ざった文体。以前は——以前は誰かが訳をつけて俺の机に置いていた。付箋に要旨が三行でまとめられ、返書の案まで添えてあった。
誰が、とは考えない。考える必要がない。あれは公爵家の業務として回っていたものだ。俺が命じていたから回っていた。それだけの話だ。
「フランツ」
「はい、旦那様」
「この書簡を誰かに訳させろ。エルデヴァイス語のできる者を」
フランツは一拍の間を置いた。この男の「間」は長い。
「お心当たりの者を探してみますが、外交書簡の格式語に通じた者は、当家には——」
「いないのか」
「以前は奥様が全て処理されておりました」
奥様。
フランツはまだそう呼ぶ。離縁した女をいつまでそう呼ぶつもりなのか、訂正してやろうかと思ったが、やめた。面倒だ。
「王都の翻訳官を雇え。予算は俺が出す」
「かしこまりました。ただ、外交暗号の慣例は翻訳官では——」
「やれと言っている」
フランツは頭を下げて出ていった。
翻訳官が来たのは三日後だった。
小太りの中年男で、大学で教鞭を取っているという触れ込み。エルデヴァイス語の辞書を三冊抱えてきた。
書簡を渡した。男は一通目を読み、首を傾げ、辞書をめくり、また首を傾げた。
「公爵閣下、この書簡ですが……単語としては読めます。しかし外交慣例上の含意が——」
「含意?」
「たとえばこの一文、"先般の合意における第三項の精神に鑑み"とありますが、この"精神"が何を指しているかは、実際の交渉経緯を知らなければ——」
「条約文を見ればわかるだろう」
条約文を引き出しから出した。昨年の更新版。開く。
文字は読める。条項も並んでいる。だが各条項の余白に書き込まれていたはずの注釈——あの細かい筆跡の走り書きが、ない。
以前はあったはずだ。条約文を開くと、余白に意味の補足や相手国の意図の推測がびっしり書き込まれていた。それを読めば条文の裏が見えた。
この条約文には何も書かれていない。
いや——違う。書き込みがあったのはこの紙ではない。
あの手帳だ。
「フランツ」
「はい」
「この棚にあったはずだ。革表紙の、小さい——日記帳のようなもの。何冊か並んでいた」
フランツの目がわずかに動いた。棚を見て、俺を見て、また棚を見た。
棚には確かに並んでいる。革表紙の手帳が七冊。だが以前は八冊あった——ような気がする。隙間がひとつ分、空いている。
「最新の一冊をお持ちになって出られました。直近の交渉記録が全て記されたものです」
持ち出した。
直近の交渉記録を——俺の公爵家の外交に関わる記録を、あの女は勝手に持ち出したのか。
「なぜ止めなかった」
「あれは奥様の私物です、旦那様。公爵家の資産台帳には含まれておりません」
私物。あの手帳が。
残った七冊を引き抜いてみた。古い。二年前、三年前の記録。今の条約に対応する注釈は、持ち出された一冊に集約されていた。
翻訳官が居心地悪そうに辞書を抱え直した。俺はその男を見た。
「もういい。帰れ」
翻訳官は一礼して出ていった。辞書を三冊、そのまま置いていった。
その翌週、ブリューゲル公国の使節団が王都を通過した。
通過した。
うちに寄らず、王都に直接向かった。公爵家への表敬訪問は三国同盟の慣例で、これまで欠かしたことがない。それが今回は素通り。
フランツが報告に来た。
「ブリューゲル使節団は本日朝、王都に到着しております。公爵家への立ち寄りはございませんでした」
「理由は」
「先方からは特に。ただ、以前は奥様が到着前に書簡で日程を調整されていたかと存じます」
また、奥様。
「俺から使節に連絡を取れ。晩餐に招く」
「かしこまりました」
フランツが出ていき、半日して戻ってきた。
「使節団より返答がございました」
「いつ来る」
「いえ。——"公爵夫人を通じて日程を調整したい"とのことです」
公爵夫人。
「いないと伝えろ。離縁したと」
「お伝えいたしました」
「それで?」
「"承知した。では改めて外交窓口を確認したい"とのことです。それ以上の返答はございませんでした」
外交窓口。
あの女がいなくなったことすら、まだ伝わっていないのか——いや、違う。伝わっているからこそ、こうなっているのか。
セレーナが公爵家の外交の窓口だった。書簡を書き、日程を組み、出迎えの手配をし、議題を設定していた。それが全て消えた。
窓口がない家に、用はない。
そういうことか。
机の上の未処理書簡の束がまた増えている。昨日は十一通だった。今日は十四通。明日にはもっと増える。
「あいつがいなくても回る」
声に出した。フランツに向けてではない。自分に向けて。
フランツは何も答えなかった。
リゼットが夕方に来た。
「グレイス様、お疲れではありませんか。肩をお揉みしましょうか」
「ああ」
リゼットの指が肩に触れる。力加減は悪くない。この女は俺の好むものを知っている。茶の温度、部屋の花の種類、話しかけるタイミング。
「あの書簡、リゼットに読めるか。エルデヴァイス語の」
「え? わたし、外国語はさっぱりで……。でもグレイス様がお読みになればいいのでは?」
「……そうだな」
そうだな、と言った。言うしかなかった。
リゼットは笑った。何も気づいていない笑顔。この笑顔が好きだった。何も考えず、何も見抜かず、ただ俺を心地よくする笑顔。
——あの女の笑顔は違った。
なぜ今、それを思い出す。
扇の後ろで笑っていた顔。何を考えているのかわからない目。黙って笑っていろと言えば笑ったが、あの目だけはいつも別のことを見ていた。
「フランツ」
扉の外から返事があった。
「寝室にあった扇は」
「化粧台の上に残されておりました。紫苑の絹の」
「捨てておけ」
「……かしこまりました」
フランツの足音が遠ざかる。
◇
化粧台の上の扇を手に取る。
紫苑の絹。象牙の骨。畳まれたまま、三週間、誰にも触れられずにここにあった。
旦那様は「捨てておけ」とおっしゃった。
この扇が何であったか、旦那様はご存じない。
奥様がこれを置いていかれた朝のことを、マルタから聞いている。畳んで、台の上に置いて、「もう隠すものはありませんから」と言った時の、あの静かな目のことを。
扇を引き出しにしまった。捨てろと仰せだが、捨てない。これは証だから。
あの方がこの家で何を隠し、何に耐えていたかを知っている者が、少なくともひとりいた。
その証を、まだ捨てるわけにはいかない。