作品タイトル不明
第4話「隣の国の言葉」
国境を越えたのは、朝靄がまだ地面に這っている時刻だった。
検問所の兵士がマルタの差し出した通行書を確認し、馬車の幌を覗き込み、わたくしの顔を一度見て、通した。何の質問もなかった。話が通っている。
石畳の幅が変わった。ヴァイスフェルト領では馬車二台がすれ違えるぎりぎりだった道が、三台分に広がっている。車輪の振動が小さくなる。目地の詰め方が丁寧なのだ、とわたくしの中の外交官が勝手に読み取っている。
窓を少し開けた。
空気が違う。ヴァイスフェルトの乾いた風ではない。水の気配を含んだ、少し甘い風。麦畑の匂いかもしれない。この国の穀倉地帯は国境付近に広がっていたはず——手帳に書いてある。三年前の通商交渉で、関税率の根拠にした農業統計の数字を、まだ覚えている。
マルタが向かいの席で膝の荷物を整えている。昨日から、この人はほとんど口を開いていない。けれど馬車が揺れるたびにわたくしの方を窺う視線だけは、ずっと続いていた。
エルデヴァイス王都に入ったのは昼過ぎだった。
城門を抜けると、石造りの建物が通りの両側にびっしりと並んでいる。ヴァイスフェルトの城下町より色が明るい。壁の漆喰が白く、窓枠に水色の塗料が使われている。街路に張り出した看板の文字がエルデヴァイス語で、その書体を目で追うだけで口の中に発音が浮かぶ。
馬車が王宮の東門で止まった。
門衛がこちらに歩いてくる。と思ったら、その背後からもうひとり。門衛よりずっと上等な外套を羽織った人物が、門の石柱の影から出てきた。
背が高い。灰がかった金髪を後ろで束ねて、外套の下に紺のジャケット。歩幅が広いのに足音が静か。靴底が石を叩く音を立てないように歩く人。
「ヴァイスフェルト公爵夫人——いえ、失礼。セレーナ・ヴァイスフェルトさん、でよろしいですか」
声は低く、速度が遅い。一語ずつ、相手が聞き取れているか確かめるような話し方。外交の訓練を受けた人の声。
「ルシアン・エルデヴァイスです。お迎えに上がりました」
王弟が、自ら門に立っている。
「……ルシアン殿下。ご丁寧にありがとうございます」
馬車を降りる。足が石畳を踏む。知らない国の、知らない石の硬さ。
ルシアン殿下はこちらに手を差し出さなかった。わたくしが自分で降りるのを待ち、足元が安定したのを確認してから半歩退いた。距離の取り方を知っている人だった。
王宮の応接室に通された。
窓が大きい。午後の光が絨毯の模様をくっきり浮かべている。ヴァイスフェルトの執務室は窓が小さく、いつも薄暗かった。ここは明るい。明るすぎて、少し落ち着かない。
茶器が並んでいる。エルデヴァイス式の背の高い磁器のカップ。ヴァイスフェルト式の平たい杯ではない。ルシアン殿下が自分で茶を注いだ。侍従に任せず、自分で。
「長旅のところ恐縮ですが、今日のうちにお話ししたいことがあります」
「はい」
「単刀直入に申し上げます。あなたを、エルデヴァイス王国の外交顧問としてお迎えしたい」
顧問。
書簡では「相談したいことがある」としか書かれていなかった。顧問という肩書きは初めて聞く。
「わたくしは離縁したばかりの、子爵家の出です。他国の外交顧問を務める立場には——」
「家格の話をしているのではありません」
遮られた。けれど声は穏やかなまま。
「ヴァイスフェルトとの条約交渉で、あなたの書簡を何通も読みました。カルステン大使から実務報告も受けています。あの条約の骨格を設計したのは、公爵ではなくあなたです」
否定しようとした。三年間の癖で。
「いえ、あれは旦那——グレイス公爵の……」
言いかけて、やめた。
もう、その必要がない。
ルシアン殿下はわたくしの中断を見て、何も言わなかった。促しも、追及もしない。わたくしが自分で言葉を選び直すのを、ただ待っていた。
「……あの条約を設計したのは、わたくしです」
声に出したのは初めてだった。三年間、誰にも言わなかった事実。自分の口から出ると、思ったより軽い音がした。
ルシアン殿下は頷いた。大げさな反応ではない。「やはりそうでしたか」でもない。ただ一度、顎を引いた。知っていた事実を確認しただけの頷き。
「現在、東の小国サヴェリアとの通商交渉が滞っています。資料を見ていただけますか。あなたの見解を聞かせてほしい」
見解。
その言葉が耳に入った瞬間、口元に手が伸びた。
扇を探している。三年間、意見を求められるたびに——いや、意見を飲み込むたびに、扇の裏に唇を隠してきた。その動作が身体に残っている。
指先が唇の手前で止まった。何もない。扇は化粧台の上。遠い国の、もう自分のものではない部屋に置いてきた。
手を膝に戻す。
ルシアン殿下の視線がわたくしの手の動きを追ったのが、わかった。けれどこの方は何も訊かなかった。目を資料に戻し、わたくしが落ち着くまでの数秒を、紙をめくる音で埋めてくれた。
「……拝見します」
鞄から手帳を取り出した。
ルシアン殿下の目が手帳に留まる。
「それは?」
「交渉の記録です。三年分の……わたくしの」
「見せていただいても?」
手帳を他人に見せるのは、初めてだった。グレイス様は棚に置かれた手帳を一度も手に取らなかった。わたくし自身も、見せようとしたことがなかった。これはわたくしのものだから。誰にも読まれないものだから。
少し迷って、開いた。サヴェリアに関連するページ。三年前の通商会議の記録。サヴェリアの代表が主張した免税枠の根拠と、その裏にある穀物市場の力関係。
ルシアン殿下は手帳を受け取り、ページを読んだ。
長い沈黙。紙を指がなぞる音だけが聞こえる。
「……なるほど。サヴェリア側が拘っている免税枠は、彼らの穀物輸出の構造に根差しているのですね。ここを崩すのではなく、別の形で利益を相殺する方が交渉が早い」
「はい。三年前のヴァイスフェルトとの交渉でも同じ構造でした。わたくしはその時、港湾使用料の減免を代替案として——」
言葉が止まらなかった。
三年間、扇の裏で閉じ込めていた思考が、堰を切ったように溢れ出している。声が出る。自分の見解が、自分の口から、隠されずに出ていく。
ルシアン殿下は遮らなかった。
メモを取りながら聞いていた。わたくしの言葉を、一語ずつ。
話し終えた時、手帳を閉じた手がかすかに震えていた。喋りすぎたのかもしれない。三年分の沈黙が一度に崩れて、加減がわからなくなっていた。
「失礼いたしました。少し、長くなりました」
「いいえ」
ルシアン殿下はペンを置いた。
「やはり、あの会議にあなたがいなかったのは、正しくなかった」
同じ言葉。書簡に書かれていたのと同じ意味の言葉が、今度は目の前で、声になって届いた。
文字で読んだ時とは違った。声には温度がある。この方の声は低くて遅くて、一語ずつにわずかな重さがあった。
「これからも、あなたの見解を聞かせてください。この国には、あなたの言葉が必要です」
あなたの言葉。
黙っていろ、と言った人がいた。
あなたの言葉が必要だ、と言う人が目の前にいる。
「……ありがとうございます」
それだけ言うのに、息を整える必要があった。
部屋に戻ったのは夕刻だった。
客室は東向きで、もう陽が落ちている。マルタが燭台に火を入れてくれていた。ヴァイスフェルトとは違う蝋の匂い。少し甘い。蜜蝋かもしれない。
机の前に座り、手帳を開いた。
サヴェリアの交渉記録を書き込んだページをめくる。ヴァイスフェルト家の紋章入りの便箋を挟んであったページ。その紋章を指先でなぞり、一枚めくった。
白紙。
ここから先には何も書かれていない。ヴァイスフェルト公爵夫人としての記録はここで終わっている。
ペンを取った。新しいインク壺の蓋を開ける。この国のインクは少し青みが強い。
最初の一行に、日付を書いた。エルデヴァイス暦の日付を。
ここから先は——わたくしの名前で、書ける。
ペン先が紙に触れる。インクが繊維に沁みていく小さな音。
その音が、今日いちばん静かで、いちばん確かな音だった。