作品タイトル不明
第3話「置いていくもの」
翌朝、わたくしは書類を一枚だけ持って執務室に向かった。
離縁届。昨夜のうちにマルタに用紙を取り寄せてもらい、自分の名だけ書き入れたもの。インクはとうに乾いている。
グレイス様の署名欄は空白のまま。
執務室の扉を叩く。返事を待たずに開けた。三年間で初めてのことだったけれど、手は迷わなかった。
グレイス様は机に向かっていた。昨日の会議の書類が散らばっている。その中にわたくしの手帳が——八冊目が——横向きに置かれていた。開かれた形跡はない。背表紙に付箋すら貼られていない。
「どうした、ノックもなしに」
「失礼いたしました。お時間を少しだけ」
机の上に、紙を一枚、差し出した。
グレイス様の目が文字を追う。一行目で眉が動き、二行目で止まった。
「……何のつもりだ」
「離縁届です。旦那様のご署名をいただければ、手続きはわたくしの方で進めます」
「正気か」
その声には怒りがあった。けれど、わたくしの名を呼ぶ音ではなかった。問いただしている対象が"妻"ではなく"事態"であることが、声の温度でわかる。
「公爵夫人が出ていくなど、世間体がどうなると思っている」
世間体。
この方の口から出てきた言葉が、それだった。
なぜだ、でもなく。待ってくれ、でもなく。
公爵夫人という肩書きが出ていくことへの懸念。わたくしが出ていくことへの言葉は、なかった。
「世間体につきましては、ご不自由をおかけいたしません。理由は性格の不一致とでも。体裁の整え方は、旦那様のほうがお得意でいらっしゃいますから」
グレイス様の目がわずかに細くなった。
わたくしの声は穏やかだった。少なくとも、そう聞こえたはず。三年間で身についた社交の膜が、最後まで剥がれることなく機能している。
「……考え直せ」
「考え終わりました」
沈黙が落ちた。執務机の上で、散らばった書類の角が窓からの風にめくれている。
グレイス様がペンを取った。署名欄にインクが走る。力の入った、短い筆跡。
書き終えて、紙をこちらに押しやる。目は合わせなかった。
「勝手にしろ」
「どうぞお好きになさってください」
わたくしは離縁届を受け取り、一礼して執務室を出た。
廊下に出ると、自分の靴音だけが聞こえた。絨毯の切れ目で石の床に変わり、踵が硬い音を立てる。その音が、一歩ごとに少しずつ軽くなっていくような気がした。
寝室に戻る。
衣装箪笥の前に立つ。この三年で増えた公爵夫人の衣装。絹、ビロード、レース。グレイス様が選んだものはひとつもない。全てわたくしが社交の場に合わせて自分で見立てたもの。それでも——これらは公爵家の金で仕立てた、公爵夫人の服。
置いていく。
宝石の箱を開ける。婚礼の際に義母から預かった紅玉の首飾り、社交用の耳飾り、晩餐会のための腕輪。どれもヴァイスフェルト家の持ち物。
置いていく。
鏡台の引き出しから、化粧道具、髪飾り、香水の小瓶。
全て、置いていく。
マルタが荷造り用の鞄を持って入ってきた。革の旅行鞄。小さい。
「奥様、お荷物はこれだけでよろしいですか」
「ええ」
「衣装は……」
「公爵家のものですから」
マルタは頷いて、それ以上は言わなかった。
鞄の中身は替えの下着と、洗面具と、ルシアン王弟の手紙。それだけ。
あと、ひとつ。
執務室に戻り、机の上から手帳を取る。八冊目。今朝、離縁届と一緒にグレイス様の目の前にあった一冊。開かれた形跡はない。最後まで。
棚には残りの七冊が並んでいる。背表紙を揃えて、一冊目から七冊目。中身は頭に入っている。紙がなくても、わたくしの中に全て残っている。
手帳を鞄に入れる。革の表紙が鞄の底に収まる感触。
これだけは、わたくしのもの。
最後に化粧台の前に立った。
紫苑の扇がある。
昨日の朝、手が伸びかけて止まった扇。象牙の骨。紫苑の絹。三年間、わたくしの口元を隠し続けたもの。
手に取る。軽い。こんなに軽かったのかと、今さら思う。
開く。絹の面にかすかな香——この部屋の匂いが染みている。白粉と、蝋燭の油と、冷えた石壁の匂い。
畳んで、化粧台の上に置いた。
「奥様」
背後のマルタの声が、少しだけ揺れている。
「それは、よろしいのですか」
「もう隠すものはありませんから」
扇は化粧台の上で、紫苑の絹を天井に向けている。誰にも開かれることのないまま、ここに残る。
正門の前に、雇いの馬車が一台。
公爵家の紋章のない、何の変哲もない馬車。マルタがわたくしの前に立ち、御者に行き先を告げている。
空気が冷たい。春はまだ来ない。
振り返ろうかと思った。三年暮らした屋敷を、一度くらいは。
振り返らなかった。
見たいものが、もうあの中にはなかったから。
馬車に乗り込む。マルタが続いて乗り、扉が閉まる。革張りの座席が軋む。小さな窓から、門柱の石が後ろに流れていく。
砂利を踏む音。車輪が石畳に乗る振動。馬の蹄鉄が硬い音を刻み始める。
「——奥様」
マルタの声だった。けれど、いつもの声ではなかった。事務的な敬語の殻が、どこか一箇所、罅割れていた。
「……よく、耐えましたね」
窓の外を見ていた。景色が流れている。公爵邸の門が小さくなり、街路樹が並び始め、知らない町並みが近づいてくる。
「いいえ」
声が自分のものかどうか、一瞬わからなかった。
「耐えすぎたのです」
マルタは何も返さなかった。
ただ、向かいの席で、膝の上に置いた両手をきつく握っていた。指の関節が白くなっている。この人がこんなふうに手を握るところを、見たことがなかった。
わたくしは窓の外に目を戻した。目の縁がぼんやりと熱を持っている。泣いてはいない。泣きたいのかどうかも、まだわからない。
馬車は王都の西門に向かって走っている。
◇
——誰もいなくなった寝室は、午後の光で白く明るかった。
衣装箪笥は閉じたまま。宝石の箱も、化粧道具も、そのまま。何ひとつ持ち出されていない。
化粧台の上に、紫苑の扇がひとつ。
畳まれたまま、絹の面を上にして。
あの方はあれを鎖だと知っていた。口元を隠すための道具ではなく、声を塞ぐための道具だと。
旦那様はきっと、まだお気づきではない。
あの扇が何だったのか。あの方が何だったのか。
この部屋に残されたもので、いちばん軽くて、いちばん重いものが何なのか。
——誰かがそれに気づく頃には、もう届かない場所に、あの方はいる。