作品タイトル不明
第2話「空席」
朝の光が執務室に差し込んでいる。
机の上に並べた書類の束が白く光る。三国同盟更新会議の議案書、各国への根回しの経緯をまとめた覚書、通商路の変更に伴う関税率の比較表。紙の端が少し波打っているのは、昨夜遅くまでインクの乾きを待ったせい。
全て、揃えた。
会議は今日の午後。エルデヴァイス王国とブリューゲル公国の使節団はすでに王都に到着している。カルステン大使とは昨日のうちに非公式の確認を済ませ、ブリューゲル側の修正要求にも折り合いをつけた。
あとは、席につくだけ。
手帳を開き、今日の段取りを最後にもう一度確認する。四十三ページ。各国の席次、発言の順序、想定される異議と切り返し。わたくしの筆跡がページを埋め尽くしている。
廊下に靴音が近づいた。重い、間隔の広い足取り。グレイス様。
ノックはなかった。扉が開く。
「セレーナ」
「おはようございます、旦那様。会議の資料は——」
「今日の会議だが、お前は来なくていい」
手帳を持つ指が止まる。
「……と、おっしゃいますと」
「リゼットを連れていく。華があったほうが場が和むだろう」
華。
この方は、同盟条約の更新会議に「華」を持ち込むのか。
グレイス様はわたくしの顔を見ていなかった。扉の枠に手をかけたまま、視線は廊下の先に向いている。もう次の用事を考えている目。
「資料はそこに置いておけ。必要なら目を通す」
必要なら。三か月分の交渉記録を、「必要なら」。
「かしこまりました」
声は平坦に出た。三年の積み重ねは、こういう時にきちんと働く。
グレイス様の足音が遠ざかる。廊下の絨毯に吸われて、やがて聞こえなくなった。
手帳を閉じる。
表紙の革が掌に吸いつく。使い込んだ革特有の、柔らかく温かい感触。
机の上に、揃えた資料と一緒に置いた。手帳の背表紙がこちらを向いている。
立ち上がり、部屋を出ようとして——化粧台の横を通りかかる。紫苑の扇が昨夜のまま置いてある。
手が伸びかけた。
指先が絹に触れる寸前で、止まった。
そのまま、手を下ろす。
自室に戻り、椅子に座った。窓の外では馬車が正門に回されている。御者が馬の首を撫で、侍従が踏み台を整えている。
しばらくして、グレイス様が出てきた。その腕にリゼットが寄り添っている。淡い桃色のドレス。春の花のような、と誰かが評しそうな装い。
リゼットが笑っている。口元を隠さず、声を上げて。
馬車が走り出す。砂利を蹴る音、車輪の軋み、馬の鼻息。遠ざかっていく。
わたくしは窓辺に座ったまま、その音が消えるのを聞いていた。
午後になった。
公爵邸の会議棟は離れにある。窓を開ければ風に乗って話し声が届くこともあるけれど、今日は風がない。
静かだった。
マルタがお茶を持ってきた。
「奥様、何かご用は」
「いいえ。今日はこのまま」
マルタはカップを置いて、一歩下がり、それからほんの少しだけ口を開きかけた。
何も言わなかった。
この人が言葉を飲み込む仕草を、わたくしはよく知っている。顎がわずかに引かれて、唇が薄く閉じる。いつもならそれを見て「大丈夫ですよ」と笑う。
今日は、笑えなかった。笑おうとも思わなかった。
夕暮れ。
西の窓から橙色の光が傾いて、部屋を斜めに切り分けている。
会議棟の方向から人の声が聞こえた。散会したらしい。どのような結果だったのかは、ここからではわからない。
わかるのは、わたくしがあの席にいなかったこと。三か月の準備が、わたくし抜きで終わったこと。
怒りかと思ったけれど、違った。
胸の奥にあったのはもっと静かなもので、温度がなかった。水を張った器の底に沈んだ小石のように、ただ、そこにある。
ああ——終わったのだな、と思った。
何が終わったのか。はっきりとは言葉にできない。けれど、何かが閉じた。扉が閉まるように。鍵がかかるように。そして鍵は、こちら側にはない。
夜。
マルタが手紙の束を持ってきた。
「本日届いた書簡です。公務のものは執務室に回しましたが、一通、奥様宛ての私信が」
封蝋は深い青。エルデヴァイス王国の紋章。
「……どなたから?」
「王弟ルシアン・エルデヴァイス殿下のお名前です」
ルシアン王弟。カルステン大使の上に立つ、隣国の外交の要。直接お目にかかったことはない。ただ、書簡のやり取りは幾度かあった。条約の細部を詰める過程で、カルステン大使を通じて見解を求められた折に。
封を切る。
便箋は薄い象牙色で、インクは黒。端正な、癖のない筆跡。
「本日の会議にて、ヴァイスフェルト公爵夫人がご不在であったことを遺憾に思います。
貴女の事前調整がなければ、本日の議論は成り立ちませんでした。
末筆ながら、貴女のご見識に深い敬意を表します。
エルデヴァイス王国王弟 ルシアン・エルデヴァイス」
便箋を持つ指が、かすかに震えた。
読み返す。二度、三度。
「貴女の事前調整がなければ」。
この方は知っている。あの条約案がどこから来たのか。誰が三か月をかけて各国を回り、一行ずつ合意を積み上げたのか。
わたくしの名前を、一度も署名欄で見たことがないはずなのに。
便箋を膝の上に置く。窓の外はもう暗い。月のない夜で、庭の木々の輪郭も見えない。
遺憾に思います——外交の言葉。相手への直接的な非難を避けながら、不同意を表明する格式語。
けれどこの一文の裏にあるのは、もっと単純なこと。
あなたが、あの席にいるべきだった。
誰にも言ってもらえなかった言葉が、隣の国から届いた。
便箋を丁寧に畳み、封筒に戻す。
破りも、隠しもしない。引き出しにしまって、そっと閉じた。
マルタが扉の前に立っている。
「奥様」
「……マルタ」
「はい」
「わたくしの言葉を、聞きたいと思ってくださる方がいるのですね」
マルタは黙っていた。けれど目が少しだけ細くなった。
この人が泣くところを、わたくしは見たことがない。今夜も泣いてはいなかった。ただ、その細められた目の奥に、長い間しまわれていた何かが揺れたような気がした。
「——ずっと、おりましたよ」
マルタの声は低く、短かった。
その言葉の意味を、わたくしは訊かなかった。