軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第1話「笑顔の値段」

百本の蝋燭が広間を満たしている。

琥珀色の光が磨かれた大理石を舐め、招待客の宝石を順に拾っていく。三国同盟条約の更新を祝う晩餐会。ヴァイスフェルト公爵家が主催する、年に一度の外交の大舞台。

わたくしはその隅で、扇を開いていた。

象牙の骨に紫苑の絹を張った扇。結婚の祝いにグレイス様から贈られた、唯一の品。

「口元を隠しておけ。余計なことを言わなくて済む」

あの日の言葉を、わたくしは贈り物の作法だと受け取った。

今もそう思っている。——思うことにしている。

「――諸国の繁栄のため、この更新案を提出いたします」

壇上のグレイス様の声は広間の天井にまで届く。よく通る、自信に満ちた低音。

条約の更新案。通商路の再編、関税の段階的引き下げ、国境付近の共同警備体制の見直し。

三か月前からわたくしが各国の大使に非公式に打診し、修正を重ね、落としどころを探ってきた案。

わたくしの手帳の、三十七ページから五十二ページに収まっている案。

グレイス様はその手帳を、一度も開いたことがない。

エルデヴァイス王国のカルステン大使がこちらを見た。目が合う。わたくしは扇の陰で小さく頷いてみせる。

カルステン大使は一瞬だけ唇を引き結び、壇上に視線を戻した。

南のブリューゲル公国の使節も同じ。わたくしと三度の書簡を交わし、関税率の端数を詰めた方。その方もグレイス様を見上げながら、ほんのわずかに首を傾げる。

あの方々は知っている。この案がどこから来たのか。

けれど、この場で口を開くのはグレイス様であり、扇の後ろで笑っているのがわたくしの務めだった。

晩餐は滞りなく進む。

乾杯の酒はブリューゲル産の白葡萄酒。今年の交渉で関税を下げたばかりの銘柄。その交渉の席にいたのはわたくしだけれど、グレイス様は「良い酒だな、今年は安く入るようになった」と杯を傾けている。

料理が三皿目に変わる頃、背後にマルタの気配がした。

「奥様、お手帳をお預かりいたしましょうか」

「いいえ。あとで執務室に置いてきます」

マルタは何も言わずに下がる。この人は余計なことを口にしない。それが助かるときもあれば、もう少し何か言ってほしいと思うこともある。

どちらが今日なのかは、考えない。

宴が終わり、客が引き始めた頃。

グレイス様がわたくしの横を通り過ぎざまに言った。

「今日は上手くいった」

「ええ、素晴らしいお席でした」

「お前も黙って笑っていてくれたおかげだ」

——おかげ。

その一語が喉の奥に引っかかる。飲み込むのに一拍。鼻の奥に葡萄酒の残り香が戻った。

「はい、旦那様」

扇を握る指が少しだけ強くなる。それだけのこと。

グレイス様は気づかない。もとより、気づく方ではない。

帰りの馬車は静かだった。

車輪が石畳を踏む振動が、座席の革を通して背中に伝わる。グレイス様は向かいの席で次の予定の書類を広げている。燈火が揺れるたびに横顔を影が走り、そのたびにこの人が遠くなる。

三年。

この方の隣で扇を開いて、三年になる。

子爵家の領地は三つの国が接する国境の町だった。市場の荷札はブリューゲル語、両替屋の帳簿にはエルデヴァイス語、町役場の布告は自国の公用語。わたくしの耳は三つの言葉を聞き分け、舌は三つの敬語を使い分けることを覚えた。商人の訛り、外交官の格式語、市場のくだけた物言い。その全てが手帳に積み上がっている。

公爵家に嫁いだのは、その力が役に立つと信じたからだった。

実際、この三年でまとめた条約は四本。非公式の調停は数え切れない。けれど署名欄にわたくしの名前が並んだことは、一度もない。

グレイス様の名前だけが、いつも最初にある。

馬車が公爵邸の門を潜った。石畳から砂利道に変わり、振動が細かくなる。

「明日は午前に騎士団の報告がある。午後は空けておけ」

「はい、旦那様」

「リゼットが新しい衣装を見せたいと言っている。お前が見立ててやれ」

愛妾の衣装を、妻が見立てる。この家ではそれが当たり前の景色で、わたくしはそれに対して何も感じない。指先すら動かない。

「かしこまりました」

侍従が馬車の扉を開けると、冷たい夜気がスカートの裾を攫った。春にはまだ遠い、硬い空気。

グレイス様は先に降りて、振り返らない。わたくしはその背中を見送り、ゆっくりと砂利を踏む。靴底が小石を噛む音だけが、門灯の下で鳴っていた。

寝室は冷えている。暖炉の熾火が赤く沈み、壁に揺れる影も小さい。

手帳を執務室に置きにいく。

グレイス様の大きな机の横にある、小さな棚。わたくしの手帳が七冊、背表紙を揃えて並んでいる。一冊目から七冊目。三年分の交渉の記録。

グレイス様がこの棚に目をやったことは、たぶん、ない。

今日の分を八冊目として並べ、指先で背表紙を撫でた。使い込んだ革の手触り。インクと紙の匂い。

この手帳だけが、わたくしがここにいた証になる。

部屋に戻り、化粧台の前に座る。

扇を畳んで、台の上に置いた。紫苑の絹が燭台の光を鈍く返す。

鏡の中の自分と目が合う。

晩餐会の化粧が残っている。紅を引いた唇、黛で描いた目元。社交の顔。今日もこの顔で、わたくしは笑った。

もう一度、笑おうとする。

口角を上げる。頬の筋肉がそれに従う。

三年間、毎日つくってきた笑顔。今日もできるはず。

——口元は弧を描いているのに、鏡の中のそれが笑顔に見えない。

唇の形は合っている。けれど目が追いついていない。

いつからだろう。

この顔が、自分のものではなくなったのは。

扇を手に取り、開いて、口元を隠す。鏡の中のわたくしが、紫苑の絹の上の目だけになる。

こちらのほうがずっと、見慣れた自分だった。