作品タイトル不明
第77話:手探りの道標
いつものベンチで最終確認を行っていると、探索者たちの話し声が聞こえてきた。
「……今度はあそこが通れなくなったわ」
「あのエリアへ抜ける近道だったのによ。最近、変容、起きすぎだろ」
「遠回りしてたら、それだけで丸一日かかっちまうんだよなぁ」
彼らの声には、苛立ちと疲労、それらが多分に入り混じっていた。
ダンジョンの変容は私たちのルートを削り取っている。
昨日まで使えていた道が今日は塞がれ、今日通った道も明日には塞がっているかもしれない。
それが今のダンジョンの日常になりつつあった。
私は息を吐き出した。
予定通りに事が運ばないことへの徒労感は、私にもある。
だが、不条理を嘆いていても道は開けない。
私は改めて最終チェックを行った。
一つずつ、自分の手と目で確かめていく。
この工程が、ざわつく心を鎮めてくれた。
「……すべて問題なし」
今日の業務を開始する。
中層の浅い区画。
広場で話し込んでいた探索者たちが嘆いていた通り、これまで安全に使えていた連絡路の一つが、完全に塞がっていた。
岩壁から床面にかけて、得体の知れない黒ずんだ菌糸がびっしりと覆い尽くしている。
鼻を突くのは、微かな酸の臭いである。
足元の岩盤は変色しており、スポンジのように脆く崩れかけているようにも見えた。
何とも言えない気持ちを、息とともに吐き出す。
そして、意識を切り替えた。
ここを通ることはできないだろう。
他の探索者たち同様、大回りの迂回ルートが選択肢としては存在するが……。
私は立ち止まり、岩壁を見渡した。
「……道はない」
ないのなら、どうする?
「……作ればいい」
私は、この周辺の地形データを脳内に展開した。
変容が進んでいる箇所もあるが、それも適宜更新してきた。
塞がれた通路の横に、人が一人やっと通れるほどの狭い岩の裂け目がある。
これまでは使う理由がなかったということで、別段、調査も何もしてこなかった、未踏の隙間。
ここが通れるようになれば——。
少し前までの私なら、このような真似は決してしなかっただろう。
だが、深層に足を踏み入れた今の私は違う。
変化し続けるあの場所に向かうのであれば、未踏だからと躊躇っていてはいけない。
だが、英雄になりたいわけではないし、名を挙げたいわけでもない。
問題が発生すれば、すぐに引き返す。
それまでは、これまでどおり、周囲をつぶさに観察し、五感を最大限働かせながら進んでいく。
「……行きましょう」
事前データのない手探りの領域に進む。
心臓が僅かに拍動を速める。
ダンジョンにおいて死が身近にあるように、恐怖もまた常に感じている。
だが、同時に、新たな道を進むことに対する、静かな高揚感と知的好奇心も間違いなく存在している事実は、否定できない。
私は腰からハンマーを引き抜き、一歩進んだところで、岩盤を軽く叩いた。
返ってくる音の響きで、内部の空洞や岩の硬さを測る。
安全だと判断できれば、チョークで岩肌に小さな印をつける。
さらに一歩進み、叩く。
少しでも鈍い音がすれば足を止め、鉄の楔を岩の隙間に打ち込んで地盤の応力を分散させる。
ハンマーを振るうたび、硬い衝撃が手首から腕へと伝わってくる。
その痺れが、自らの手で道を切り拓いているという実感を与えていた。
暗がりには蓄光テープを短く切って貼り付けた。
岩の凹凸に足を取られないよう、邪魔な突起があればハンマーで砕き、地面を均す。
汗が額を伝い、目に入りそうになる。
手袋の甲でそれを拭い、またハンマーを振るう。
この手間を惜しめば、私の命が失われる。
何の因果か、もう一度手に入れることができた生を、私は失いたくはない。
途中で、微かな摩擦音が聞こえた。
見る。
硬い甲殻を持ったモンスターだった。
背筋に冷たいものが走る。
未知の領域での遭遇戦。
一瞬の判断の遅れが致命傷になるという事実が、呼吸を浅くさせた。
だが、恐怖に支配されるわけにはいかない。
私は作業の手を止め、壁に背を預けて気配を殺した。
対象が私の立てた音を探るように、隙間から這い出してくる。
まだ……まだだ……。
もう少し——。
「——ッ」
今、というタイミングで私は死角から接近し、サバイバルナイフを突き立てた。
対象の弱点へ。
光の粒となって霧散した、その事実に私はようやく深く呼吸をすることができた。
魔石を拾い、ケースに収め、私は再びハンマーを握り直す。
進んで、叩き、叩いて、進む。
それを繰り返すために。
それがどれくらい続いただろう。
冷たい風が頬に触れた。
裂け目を抜けたのだ。
そこは見知った中層の空間だった。
視界が開けた瞬間、やり遂げたという、静かに、しかし力強い達成感が胸の奥から湧き上がってきた。
私は振り返り、自分が抜けてきた道を見る。
細い。
蓄光テープの微かな緑色の光が、奥へと点々と続いている。
それは、私の手と足で確かめ、作り上げた、新しい、確かな道だ。
胸の奥に湧き上がる喜びを噛み締めながら、考えた。
深層は、常識が通用しない領域だ。
昨日安全だった道が、今日は死地に変わる。
事前データは役に立たず、中層よりもずっと死が近い。
だが——。
「……深層も、同じでしょうか」
一歩進んで、安全を確かめる。
危険なら下がり、別の岩を叩く。
今日、この狭い裂け目でやったように。
ただひたすら、繰り返せばいいのではないか。
時間はかかる。
途方もない労力も要る。
それでも、思考を止めず、足を動かし続ければ、道はできるのではないか。
そのささやかな可能性が、私の中に確かな熱を灯した。
私はノルマをこなすため、歩き出した。
定時に地上へ戻ってきて、魔石を換金。
担当してくれた井葉さんに会釈して、協会を出た。
外の風は心地よかった。
スーパーマーケットに立ち寄ってから、宿舎に戻ってくる。
今日は鯵フライだ。
惣菜で済ますことも考えたが、今日は自分で揚げたかった。
鍋の中で跳ねる油の音を聞き、火の通り具合を見極めて。
そうして完成した鯵フライは、サクッとした衣の食感と、ふっくらとした身の旨味が、
「……美味い」
今日のは特にそう感じた。