軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第78話:生き残った事実と、直感の帰還

数m先の視界すらままならない、濃密な濃霧。

『 霧骨の沼地(フォグ・スワンプ) 』。

水気と泥、そして視界を遮る濃霧に支配されたこのエリアは、足を踏み入れた者の体温と方向感覚を奪う。

私は防毒マスクの気密を改めて確かめながら、濃霧に変容が起こっていないかを確認する。

例えば酸性が、あるいは猛毒の属性が付与されてはいないか。

フィルターの効果が猛烈な勢いで失われるという感じはない。

おそらく、濃霧自体に変容は起こっていない。

次に周囲の岩肌に視線を巡らせ、泥に沈まない平坦な岩盤を見つけ出すと、バックパックからジンバル式のレーザー墨出し器を取り出してセットした。

高輝度の緑色のレーザーが、全方位に向けて照射される。

直進する光線が濃霧に乱反射し、白い暗闇の中に立体的な光の格子を浮かび上がらせた。

視覚情報に頼れないこの沼地を探査するには、欠かせない機材だ。

思えばこの機材を使う方法を思いつくことができたのは、颯真くんとの何気ない会話からだった。

これも問題なく機能する。

私は腰からサバイバルナイフを静かに引き抜くと、岩陰へと身体を沈めた。

息を潜め、ただ空間を切り取る光の格子を凝視する。

このエリアに生息する 霧隠鰐(ミスト・ゲイター) を、泥の中に潜み、濃霧を保護色とする対象を処理するために。

エリア自体に変容は起こっていないように思える。

ならば、モンスターに変容が起こっている可能性もある。

——数分が経過した。

前方の表面、光の格子が不自然に歪んだ。

対象が動いたのだ。

動く前に、まず、その光の歪みから、対象の体躯と形状を観察する。

記憶にある通常個体との差異は?

——ない。

ならば、変容は起こっていないと考えてもいいだろう。

つまり、問題なく、いつもの手順で処理できる。

私は死角から踏み込み、可視化された頸部の隙間へとサバイバルナイフを突き立てた。

「——ッ!?」

否、突き立てられなかった。

ナイフは弾かれ、手首に痛みが走る。

頸部の隙間を見た。

透明な結晶質の装甲が覆っていた。

外見の輪郭に変わりはない。

しかし、皮膚組織が硬質化している。

つまり、対象に変容は発生していた。

そこまで考えたところで、対象が泥を跳ね上げながら、凄まじい速度で反転し、私に牙を向けた。

距離はゼロ。

回避する余裕も、時間もない。

再びの死が脳裏に過ぎる中、私は積極的な回避行動を脳内から消去した。

私の反応速度と筋力で、このゼロ距離からの攻撃を躱しきることは無理である。

だから——。

私は背中から泥のぬかるみへ、自らの身体を投げ出した。

逃げるためではなく、対象の視界から一時的に消失し、次の工程のための時間を稼ぐための苦肉の判断だ。

視界を塞ぐ泥しぶきの向こう側、開かれた鰐の喉奥が見えた。

私は左肩のストラップを力任せに引き抜き、バックパックを右手に握り直し、対象の顎の中へと押し込んだ。

命の対価として、予備の機材や資材、それに収穫物の損切りだ。

凄まじい咬合力がバックパックを噛み砕き、嫌な破壊音が霧の中に響き渡る。

対象が口内の異物を噛み砕くことに執着しているその隙に、私は慎重に背後の岩陰へと身を滑り込ませた。

もっと遠くまで逃げたかったが、これ以上になると対象が気づく恐れがあった。

対象が至近距離でバックパックを噛み砕き続ける嫌な破砕音が響き続ける。

落ち着け、とそう思うほど、心拍数は跳ね上がり、だが深呼吸するような余裕は与えられない。

ただ、その場で息を潜めることしか、今の私には許されなかった。

数分はバックパックを弄んでいただろう。

それが食えない無機物であることをようやくわかったのか、対象は苛立たしげに泥を叩いて、周囲を索敵し始めた。

私は息を完全に殺した。

索敵は続く。

長い。

まだか。

……いや、今の私がそう感じただけで、本当は一瞬だったのかもしれない。

近くに獲物はないと、そう判断したようで、対象は霧の向こうへと去っていった。

それでも私は息を殺したまま、対象の気配が完全に消失するのを待ち続けた。

そして、完全な静寂が戻った。

ダンジョンの変容は、これまで以上に、死を身近なものにしてしまった。

私は泥まみれの身体を慎重に起こした。

それから、無残に引き裂かれたバックパックを泥の中から拾い上げた。

墨出し器も対象が撤収する際に尻尾による打撃を受けたようで、壊れていた。

これまでに回収した魔石も、機材も、資材も、一瞬にして何もかもを失ってしまった。

……いや、違う。

そうではない。

私の命は失われなかった。

それに、変容個体の処理には失敗したが、生き残ることができたという経験を手に入れることができた。

その経験は今の私にとって、魔石以上に、価値のある事実だった。

定時ではない。

だが、これ以上の業務継続は不可能だ。

私は帰途についた。

その中で、今朝の出来事を思い返していた。

——朝の準備広場で、私はいつものように準備を行っていた。

その時、見知った人影を発見した。

久しく、この場で見なかった顔だ。

颯真くんである。

どうやら無事に退院できたらしい。

彼の帰還をよかったと、今の自分は素直に思うことができる。

彼は私に気づかず、いや、違う。

広場の端で足を止め、彼は自分の装備を確かめ始めたのだ。

ベルトの留め具の噛み合わせ。

腰のポーチの位置。

大剣の柄の感触。

時間をかけて、一つずつ、確認していく。

直感と勢いで突き進んでいた時の彼からは、とても想像できないことだった。

死の淵を覗き込んだ経験を得て、彼はこの過酷な現場で生き残るためのやり方を、真摯に更新しようとしている。

その姿を見て、私は声を掛けることをやめた。

カフェオレを彼に渡すのは、また今度でいい。

自分の準備を終えた。

ダンジョンに向かう。

その時だった。

「静河!」

私を呼び止める、彼の声。

振り返れば、颯真くんが笑っていた。

いつもの笑みだ。

「何だよ、いたなら声くらいかけろよな。俺とお前の仲だろ?」

「おはようございます。……退院、されたんですね」

「おうよ。……まあ、まだ本調子じゃねえけどな!」

彼は軽く肩を回してみせた。

その動きにはまだ微かなぎこちなさがあった。

それでも、颯真くんの顔に悲壮感は微塵もなかった。

「缶コーヒーはまた今度な」

その言葉に思わず笑ってしまえば、

「何だよ、そんなに飲みたかったのか?」

と颯真くんは言った。

「いえ、何でもありません」

そっか、と彼は続けた。

私たちは並んでダンジョンの入口までやってきた。

彼はそこで拳を突き出して、言った。

「またな」

私も自分の拳を軽くぶつけた。

「ええ、また」

颯真くんは気持ちのいい笑みを浮かべ、別のルートに向かった。

だが、数歩進んだところで彼は足を止め、振り返った。

私を見る。

何か忘れ物でもしたのかと尋ねようとしたが、その眼差しが思いのほか、真剣であることに気づき、私は黙って、彼が何か言い出すのを待った。

「……深層、行くつもりなのか」

「……行きました。一度だけ、一歩、踏み出したという感じですが」

颯真くんが、その顔に微かに驚きの色を滲ませる。

「……今の私では届かないという事実が、よくわかりました」

だから、と私は颯真くんの瞳を真っ直ぐに見返して、言った。

「必要なことを、今、しています」

「……………………………………そうか」

颯真くんはそうとだけ呟き、私に背中を向けて、ダンジョンの暗がりへと姿を消した。

すべての装備を失ったが、何とか地上へと帰還を果たすことができた。

ロビーでは『蒼穹の翼』や上近少年に出会い、私がバックパックを失っていることに絶句し、そしてすぐに心の底から心配してくれた。

「大丈夫です」

と、

「心配していただき、ありがとうございます」

と、

「うれしいです」

心の底から告げ、協会を後にした。

外へ出ると、梅雨の走りのような匂いが混じった風が吹いていた。

私はどこにも立ち寄らず、宿舎に戻った。

装備はすべて失った。

だが、私は生きている。

今、ここにいる。

今日は冷蔵庫に残っている食材で夕食を準備する。

シンプルに、だが満足できるもの。

目玉焼き丼。

黄身は半熟。

醤油を垂らし、白米と一緒に頬張る。

「……美味い」

その事実は、揺るがない。