作品タイトル不明
第76話:誰かととる食事と、それぞれの明日
足元の岩盤が、前触れもなく崩落した。
ここは中層、地下水路区画の深部へと続く道。
私は反射的に右手を伸ばし、壁面に突き出ていた岩の角を掴み、全体重を支えた。
両足は踏みしめる地面を失い、真下からは濁流の激しい水音が聞こえてくる。
事前の打音検査では、問題ない地盤だったのだが。
ダンジョンの変容は、私が蓄積した過去のデータを容易く無効化していく。
心臓が警鐘のように跳ね上がる。
全身から血の気が引く。
死が、これまで以上に身近に、すぐそばまで迫ってきているようだった。
この恐怖を完全に消し去ることなどできない。
だが、生き延びるためには停滞していては駄目だ。
岩を掴んだ右腕の筋肉が悲鳴を上げている。
私は腰のポーチへ空いた左手を伸ばし、ロープと旧式カラビナを取り出した。
指先の感覚だけでネジを限界まで回し、頭上の強固な岩の隙間に固定する。
滑車を噛ませ、自らの体重を重りとして利用し、崩落した空間の先にある岩棚へと身体を振り込ませた。
無事に着地し、ロープを回収した。
息を吐き出し、張り詰めた神経を整えようとした。
だが、着地した岩棚の表面が、不自然な波立ちを見せた。
岩肌に完全に擬態していた、大型の酸性粘体が足元からせり上がってきたのである。
索敵している余裕がなかったことが仇となった。
靴底から膝にかけて、すでに粘着性の高い物質が絡みついている。
装備の表面が溶け始める。
ダンジョンに安心できる場所はない。
苛立ちが湧かないといったら嘘になるが、湧き上がる感情に飲み込まれている暇はない。
退路はすでに崩落している。
私は姿勢を沈め、腰から化学凝固剤のボトルを引き抜いた。
自分の足元へ向けて、ノズルから溶剤を限界まで噴射する。
急激な化学反応によって粘性体が石膏のように硬化していく隙を突き、サバイバルナイフを引き抜いて核を正確に破壊した。
対象は消滅、魔石が落ちる。
私はそれを拾い上げる中で、足元を見た。
安全靴の表面が、酸によって変色している。
腕の筋肉も、まだ痙攣している。
「……帰ろう」
私はバックパックを背負い直した。
地上へ戻ると、探索者協会のロビーは夕刻の喧騒に包まれていた。
換金カウンターで魔石を提出し、明細を受け取る。
いつも通り、宿舎に帰って自炊し、体を休める。
そのつもりで出口へ向かおうとした時だった。
「よう、オークスレイヤー」
声をかけられ、足を止めた。
「……その呼び名は辞めてほしいと言ったはずですが」
見慣れた装備の中堅パーティー、『赤き戦斧』の面々だった。
リーダーの男が、泥と汗にまみれた顔で笑いかけてくる。
彼らも今、ダンジョンから帰還したところらしい。
「前、約束したよな。飯を奢らせてくれって。どうだ? この後、俺たちと一緒に行かねえか」
私は少しだけ、思考を巡らせた。
確かに以前、彼からそう言われ、「その時がきましたら」と答えた記憶がある。
「……お誘いはありがたいですが、今日は真っ直ぐ帰ろうと思います。申し訳ありません」
私は断り、頭を下げて立ち去ろうとしたのだが、
「静河さん、待ってください!」
リーダーの後ろから、小柄な青年が前に出てきた。
実家が米農家で、稼ぎの半分を仕送りしているという若いメンバーだった。
「あの時、助けられたこと、ちゃんとお礼がしたかったんです」
助けられたというのは、彼らが魔剣の整備不良で危機に陥った際、私が残した応急処置キットを利用して生還した時のことを言っているのだろう。
「大丈夫です」
「そんなこと言わないで、俺たちに奢らせてください!」
彼はさらに一歩踏み込んで、
「どうしても、一緒に行きたいんです!」
その真っ直ぐな瞳は、種類も、熱量も、何もかもが違うのに、後輩のことを思い出させた。
「……わかりました。ご一緒します」
私がそう答えると、青年は顔をほころばせ、リーダーも豪快に笑って私の背中を叩いた。
協会から少し歩いた裏路地にある、大衆食堂。
探索帰りの汚れた格好でも構わないようで、私たちが店に入っても、店主は一瞥し、
「……らっしゃい」
というだけだった。
私は『赤き戦斧』の面々とテーブルを囲む。
リーダーが注文した料理が、次々と運ばれてくる。
肉厚のホッケの開き。
大盛りの唐揚げ。
そして盛りに盛られた白米。
「約束だったからな。食え食え、静河! 今日は遠慮すんな!」
リーダーがジョッキを片手に声を上げる。
「ていうか、お前がまだ未成年だったことに驚きなんだが」
ビールを勧められ、断ったことを言っているのだ。
私は箸を取り、唐揚げを口に運んだ。
揚げたての衣の食感と、熱い肉汁が口の中に広がる。
「……ああ、やっぱり。うちの米に比べると、ここのは少し甘みが足りないなぁ」
青年が、自分の茶碗を見つめながら、そんなことを言った。
「実家の米、本当に美味いんですよ。土地と水が違うんです。静河さんにも食べてもらいたいなぁ」
彼の言葉には、故郷への深い愛着と、そこに住む家族への思いが滲んでいた。
ダンジョンはいつだって死が身近にあった。
だが、変容が始まり、その死がずっと近くなってしまった。
今日の業務がそうだった。
思い出すだけで、心拍数が図らずも上がってしまう。
そんな過酷な現実であっても、彼らは探索者を続けている。
私は静かに相槌を打ちながら、食事を進めた。
彼らの他愛のない会話を聞く。
ダンジョンでの失敗談。
新しい装備の話。
そして家族の話。
家族の中にはペットも含まれているようで、家族が飼っている犬や猫の自慢をするメンバーもいた。
それらを聞きながら摂る食事は、はっきり言おう。
普段、一人で食べるそれより、ずっと、
「……美味いですね」
私が呟き、
「何か言いましたか、静河さん?」
青年が言う。
私はゆっくりと頭を振った。
店を出ると、すっかり夜になっていた。
「では、静河さん! さようなら!」
「ええ、また」
最後に青年の声に短く応答し、彼は大きく手を振って応えた。
私は彼らと別れ、一人、宿舎へと続く道を歩く。
凝り固まっていた身体の緊張は、今やすっかりとほぐれていた。
帰ったら入浴剤を入れて、風呂に入ろう。
今日はいつもより、よく眠れそうだ。
翌日の準備広場には、いつもと変わらない光景が広がっていた。
新たに発生した変容について、情報交換する探索者たちがいれば、装備を入念にチェックしている探索者たちもいる。
その顔は一様に厳しく、現在のダンジョンがどれだけ過酷な状況にあるのかを物語っているようだった。
私はいつものベンチで、装備の確認をした。
すべて問題ない。
ダンジョンへ向かおう。
立ち上がって、足を踏み出した時、見知った顔を見つけた。
『赤い戦斧』のメンバーたちだ。
昨日のこともあり、私は声をかけた。
「おはようございます」
「…………ああ、静河か。おはよう」
リーダーに、いつもの活気がなかった。
それは他のメンバーも同じで——。
いや、おかしい。
昨日、米について熱く語っていた青年の姿がない。
「……あいつなら引退した」
私の青年を探す視線に気づいたリーダーが言った。
「今朝一番のバスで、田舎に帰った」
……ああ、そうか。
昨日、彼は私に『さようなら』と言った。
私の『また』という言葉に対する彼の応答は、手を振るだけだった。
「ダンジョンが変容してること、ニュースでも流れてるだろ」
リーダーが言うのは事実だ。
「実家の家族が心配してるらしくてな。……昨日の探索で危うく死にかけたのが、決定打になったんだ」
リーダーの顔には、寂しさと同時に、どこか安堵しているような色が滲んでいた。
……確かに、ダンジョンの変容は、探索者たちを追い詰めている。
この広場に蔓延している空気も、以前とは違い、常に張り詰めている。
昨日までは通用した。
だが、今日は通用しない。
不条理とも言えるその仕様に耐えきれなくなる者は、彼だけではないだろう。
青年は自分の命、あるいはダンジョンに求めていたものと、家族の存在を天秤にかけ、撤退という判断を下した。
彼は選んだのだ。
『静河さんにも食べてもらいたいなぁ』
彼の言葉を思い出す。
これから先、彼が選んだ現場で、彼は懸命に生きていくだろう。
私と彼の現場が違う。
ただ、それだけのことだ。
だが、それでも——。
「……アイツの分まで、俺たちは『赤き戦斧』を続けるぜ」
リーダーの言葉に、他のメンバーが頷いてみせる。
「……気をつけて」
私の言葉に、リーダーは私の背中を叩き、
「お前もな。……まあ、オークスレイヤーには、余計なお世話だろうけどな」
「……その言葉は」
最後まで聞かず、リーダーは仲間たちとともに、ダンジョンへと消えていった。
私はしばらくその場に立ち尽くしていた。
息を吐き出し、意識を切り替える。
私が私として生きていくために、私は私にできることをする。
変容しているダンジョンへ向かった。