軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第69話:可視化する乱気流と、果たされなかった約束

朝の準備広場には、探索者たちの装備が擦れる硬い音と、ダンジョンから吹き上げる冷たい空気が入り混じっていた。

私は壁際のいつものベンチに腰を下ろしたまま、動けずにいた。

脳裏に焼き付いているものがあったからだ。

昨日の夕方、協会のロビーで見かけた颯真くんの瞳。

かつての『私』が過酷な労働環境で限界を超え、誰にも助けを求められぬまま破綻へと向かって走り続けていた時の、自分自身の目と完全に一致していた。

他者の領域に干渉しない。

私がこのダンジョンで生きていくために定めた原則だ。

ロビーから大剣を背負った颯真くんが現れた。

傷は癒えていない。

ポーションの効果を維持させるため、連続使用を避けているからだろう。

多少の傷ならば支障はないと、そう判断して。

彼は私に気づかない。

ダンジョンゲートへ真っ直ぐ向かっていく。

瞳に異様な熱を宿したまま。

私は立ち上がった。

「颯真くん」

声を掛ける。

彼は気づかない。

その歩みは止まらない。

「颯真くん!」

声を張り上げず、ただ力を込めて、彼の名前を呼んだ。

「お、おう、静河か」

そこで彼はようやく立ち止まり、私に気がついた。

「今日も早いな」

疲れた顔で、いつもの笑みを浮かべる。

私は深呼吸をしてから、バックパックから手帳を取り出すと、彼にその記録を見せた。

「これは……?」

「私がこれまでに記録してきた、ダンジョンの変容に関する一次データです」

局所的な酸欠ポケットの発生。

未知の発光植物の異常繁殖。

物理法則を無視した地形の拡張バイアス。

記録していなければ気づけなかったような些細なものまで、すべての変容の記録を、私は颯真くんに見せる。

「最近、ダンジョン全体が変容しています。深層では、これらの変容がさらに極端な形で発現している確率が高い。現在の事前データは信用できず、リスクが跳ね上がっています」

颯真くんは私の手帳に視線を落とし、それを見つめた。

そして顔を上げると、言った。

「ありがとな、静河。けど、大丈夫だ。ここんところ、俺の勘は、自分でも怖えぐらい冴えてるんだ」

……確かにそうなのだろう。

黒木氏がそうであるように、深層に向かい、今日まで生き残っているという事実は、重い。

だが、黒木氏と颯真くんとは、決定的な違いがあった。

それが、彼の瞳だ。

「私にはそうは思えません」

私はそう告げ、さらに言葉を続けようとした。

だが、そこで止まった。

私にはかつての『私』の記憶がある。

それをどう伝える?

いや、伝えるべきなのか?

伝えたとして、彼がそれを信じるとでも?

私自身、経験していなかったなら、とても信じられないだろう。

なら、どう伝える?

「……静河?」

私が迷っていることに気づいたのだろう。

颯真くんが私を見た。

私も彼を見て——伝えるべき言葉をひねり出した。

「颯真くん、君は今、とても死に急いでいるように、私には見える」

それしかなかった。

颯真くんが真顔になった。

私は視線を逸らさない。

「……そっか」

彼は呟くようにそう言うと、再び笑った。

それはいつもの笑みとも、無理しているそれとも違う種類のものだった。

「静河、お前の助言、確かに受け取った」

「……行くんですね」

「ああ」

彼は頷き、こう続けた。

「またな、静河」

拳を突き出してくる。

これまでのように。

「……ええ、また」

私がそれに応じれば、彼は、その瞬間だけ、疲れも何もない、いつもの笑みを浮かべ、そして私に背中を向けてダンジョンへと歩き出した。

颯真くんの背中が見えなくなるまで、私は見送った。

長く息を吐き出した。

「……意識を切り替えよう」

私の業務が、これから始まるのだから。

ただ、当初、想定していたエリアではなく、環境変数が完全に固定されているエリアに変更することにした。

ベンチに戻り、最終確認を行う。

すべて問題なし。

「 全条件(コンディション) 、 規定値内(オールグリーン) 」

本日の業務を開始する。

私が向かったのは、『 風鳴の峡谷(ウィンド・ハウル) 』と、探索者たちの間で呼ばれているエリアだった。

ここは、常に一定方向からの強い気流が吹き抜ける、峡谷状の岩場である。

エリアに近づくにつれ、岩の隙間を風が抜ける際に生じる鋭い風切り音が鼓膜を叩き始めた。

この絶え間ないノイズが、聴覚による索敵を完全に阻害する。

私は立ち止まり、バックパックから取り出した防塵ゴーグルを装着した。

視界がわずかに悪くなるが、巻き上げられる砂埃から眼球を保護するためには必須だった。

足元の岩盤は風化が進み、滑りやすくなっている。

協会が開示している事前データ及び、私がここで蓄積した記録と、目の前の現場のリアルを照合する。

……乖離はなく、変容もない。

私は風の抵抗を最小限に抑えるため、岩壁に身体を沿わせ、低い姿勢を保ちながらエリアを進む。

風上に向かっての進行は体力を大きく消耗するが、それも計算の内である。

私は視覚と、肌を打つ風の触覚に意識を集中させた。

このエリアに生息するのは、昆虫系モンスター・ 滑空鎌蟲(グライド・マンティス) だ。

強風を背に受けて跳躍し、滑空しながら鋭利な鎌状の前肢で獲物を切り裂く特性を持つ。

滑空時は極めて高速だが、風の流れに完全に依存しているため、直線的な軌道しか描けないという弱点があった。

岩肌の陰から、対象が跳躍する気配を視覚で捉えた。

一定の風向から、その直線的な滑空軌道と着地地点を脳内で先読みする。

対象が着地し、体勢を立て直すその瞬間、死角へと潜り込んだ。

腰から抜き放ったサバイバルナイフを、甲殻の隙間へ突き立てる。

対象は光の粒となって霧散して、後には魔石だけが残った。

私はそれを拾い上げ、ケースに収めた。

風の軌道を読み——。

待ち受け——。

——処理をする。

私は無心でそれを繰り返した。

業務中盤に差し掛かった頃だった。

肌を叩く風の圧力が、唐突に変化した。

一定だった気流の向きが消失し、四方八方から不規則な風が吹き荒れ始めたのだ。

峡谷全体が、予測不能な乱気流の渦に飲み込まれる。

協会のデータにも、そして私の記録にもない、それは突発的な出来事だった。

「……間違いない」

ダンジョンの変容だ。

私がその事実を記憶している視界の端で、滑空鎌蟲が複数体、跳躍するのが見えた。

強風に依存していた彼らの軌道は、ダンジョンの変容が生み出した乱気流によって、完全に予測不能なものになってしまった。

完全ランダムな風の渦に乗って、鋭い刃を持つモンスターが前後左右から飛来する。

気流が読めず、回避のための計算も成立せず、このままでは彼らの餌食になる未来しかない。

このまま何もしなかったら。

私は後退しながら、腰のポーチへ手を伸ばした。

取り出したのは、常時携行している建築用粉チョークのボトルだ。

キャップを親指で弾き飛ばし、ボトルの腹を強く握り込む。

真っ赤な粉末が、吹き荒れる乱気流の中へと大量に撒かれた。

それによって、不可視であった風のベクトルが、視覚情報として得られるようになった。

複雑に絡み合う気流の渦の中、粉が全く舞い込まない空白が浮かび上がった。

岩裏だ。

私は迷わずそこへ滑り込んだ。

直後、私の目の前の空間を、暴風に翻弄された滑空鎌蟲たちが凄まじい速度で通り過ぎ、そのまま岩壁へと叩きつけられた。

硬い甲殻が砕け、体液が飛び散る鈍い音が峡谷に響く。

対象が身動きが取れなくなっている今、処理するには絶好のタイミングと言えた。

だが、私は動かなかった。

安全地帯を確保した以上、乱気流が完全に収束するまで、ここから一歩も出るべきではない。

対象を処理するのは、今ではない。

数分して、不規則な風圧が弱まった。

峡谷に、再び一定方向からの気流が戻ってきた。

空中に残っていたチョークの赤い粉末も、元の風に乗って一方向へと流れて、見えなくなる。

乱気流の終了を確認し、脅威がなくなったことも合わせて確認してから、私はようやく岩陰から出た。

瀕死状態の滑空鎌蟲たちに近づく。

急所にナイフを差し込み、無力化し、魔石を拾っていく。

私は残りのノルマをこなした。

定時に撤退した私は地上への帰還を果たし、探索者協会のロビーに足を踏み入れた。

顔馴染みの女性係員の井葉さんが私が回収してきた魔石をテスターで確認し、明細を差し出してくれる。

私はそれを受け取り、事前に想定していたとおりのノルマが達成できたことを改めて確認した。

明細を手帳に挟み、井葉さんに会釈してから、協会を後にしようとした。

だが、私の足は止まり、気がつけばロビーを見渡していた。

彼の姿はない。

朝会う時もあれば、会わない時もあるように、この時間に会う時もあれば、会わない時もある。

業務時間は人それぞれであり、珍しいことではない。

「静河さん、どうかしましたか?」

その場から動き出さない私に、井葉さんが声をかけてくる。

「……いえ、何でもありません。では」

「ええ、また明日です!」

元気な彼女の声に見送られ、私は今度こそ本当に協会を後にする。

スーパーに寄って食材を購入し、宿舎に戻ってきた。

今日の夕食は棒々鶏だ。

タレには、ピーナツバターを加えている。

「……美味い」

完食し、後片付けを終える。

手帳への記録、装備の整備、その他やっておくべきことをすべて片付け、私は眠りに落ちる。

その日は夢を見た。

かつての『私』の夢だ。

過酷な職場で、後輩と会話を交わした。

『先輩! 今度、飯に行きましょうよ!』

『……ああ、いいですね』

『言質取ったスからね! 約束ッス!』

『わかりました。約束です』

『へへ。じゃあ、先輩、また明日ッス!』

『ええ、また明日』

その明日は永遠に来ることがなく、当然、約束も果たされなかった。

私が『静河くん』になってしまったからだった。