軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第70話:深淵の境界と、新しい『また明日』

春なのにまるで冬に戻ったかのような、そんな冷たい朝だった。

私は探索者協会のロビーに足を踏み入れ、真っ直ぐにそこへ向かった。

掲示板。

張り出された無数の張り紙の中から、未帰還者リストへ視線を向ける。

印字された名前を、一行ずつ目でなぞっていく。

「……ない」

思わず呟きが漏れていた。

颯真くんの名前は、どこにも記載されていなかった。

胸の奥で硬く結ばれていた何かが、静かにほどけていくのを感じた。

呼吸が深くなる。

その時、背後から荒い足音が近づいてきた。

「静河さんっ!」

振り返れば、想像したとおりの人物がいた。

上近少年だ。

息が上がっている。

だが、その顔色は想像していなかった。

真っ青だったのだ。

「颯真さんが……! 病院に……!」

動揺した様子で話す上近少年の話をまとめると、こういうことだった。

昨夜、颯真くんが深層で重傷を負った。

偶然にも近くにいた黒木氏に助けられ、一命はとりとめたが、ポーションを使っても回復しきれず、現在は緊急搬送され、入院しているらしい。

「僕、これから病院に行こうと思って……静河さんも行きますよね!?」

その問いに、私はすぐに答えられなかった。

今すぐ駆けつけるべきだという、その気持ちは確かに私の中に存在した。

だが、ふと思ったのだ。

こんな時、彼なら、颯真くんなら、何と言うだろうか、と。

——俺は生きている。

——生きているなら、ダンジョンに行く。

——それ以外、何かあるか?

……そうだ。

私が私として生きていくために、私はダンジョンに行く。

私が生き続ける限り、それは何よりも優先されるべき、私の生存戦略だ。

私は上近少年を見た。

その瞳は、私も一緒に行くと確信しているようだった。

「颯真くんは生きているのですよね?」

「え、ええ。そう、ですけど……?」

「なら、私はダンジョンに行きます」

上近少年が、目を丸くした。

「え……?」

「生きているなら、ダンジョンに行く。——颯真くんなら、そう言うと思いませんか?」

私の言葉に、上近少年は黙ってしまった。

だが、その沈黙は、彼が私の言葉を噛み砕くために必要な時間だった。

上近少年は、ゆっくりと、そして力強く頷いた。

「はい、思います……! むしろ、何でダンジョンに行かないって、怒るような気がします!」

上近少年の言葉に、思わず苦笑してしまった。

たしかにそのとおりだと思ってしまったのだ。

「面会には行きます。ですが、それは私が私としてやるべきことを終えてからです」

「僕も、そうします……!」

上近少年はそう言い切ると、踵を返し、環境モニターの前へ駆けていった。

その後ろ姿を見送ってから、私は深呼吸をした。

意識を切り替え、いつものベンチに腰掛ける。

装備の確認を一つずつ行っていく。

「……よし」

全条件(コンディション) 、 規定値内(オールグリーン) 。

私は業務を開始するため、ダンジョンに向かう。

中層のルートはいつもどおりだった。

岩盤の壁が左右から圧迫してくる狭い通路を、足音を殺して進む。

前方の気配を探りながら、私は本日の業務を淡々と進めていく。

ルート上に現れるモンスターを処理し、魔石をケースに収める。

最初の一時間は、何も変わらなかった。

いつも通りの中層で。

いつも通りのペースで。

いつも通りの利益が積み上がっていく。

だが、異変は唐突に現れた。

最初に気がついたのは匂いだった。

鉄を加熱した時のような異臭。

さらに、それとは別に、雨の降り始めに感じるような特徴的な刺激も混じっているように思えた。

これは、私の知っている中層の空気ではない。

確認作業を行うため、私はこれまで以上に五感を働かせて、匂いのする方へ向かって進んでいく。

気流が微かに変化していた。

壁の表面の苔が、一角だけ枯れていた。

通路の幅が、少しずつ広がっていた。

そして、開けた。

正確には、崩れた、というべきだろうか。

目の前の岩盤が、抉られたように陥没していた。

底が見えないどころか、光を向けても、すぐに暗闇に吸い込まれてしまった。

縁から三歩手前で、私は立ち止まった。

近寄りすぎてはいけない、という直感が先に動いていた。

裂け目の縦幅は、軽く私の身長を超える。

横幅はさらに広い。

空気の匂いは、ここから吹き上げてきていた。

有害なほどの濃度ではない。

だが、私は一歩退いた。

その時だった。

音が聞こえた。

硬いものが岩を引っかく、金属質の音だ。

裂け目の縁より少し下、岩盤の横っ腹。

そこに、何かが張り付いていた。

腕だ。

それは人の腕ではない。

表面は黒く、石のようにも見えるが、石が動くはずがない。

それが、ゆっくりと、しかし確実に、亀裂の縁へ這い上がろうとしている。

指に相当する部分が岩盤に食い込む。

ずっしりとした荷重が伝わるような音がして、岩盤の表面が、豆腐を指で押すように崩れた。

その事実が、私の足を完全に固定した。

息を、意識して、静かに吐く。

吸わない。

吐くだけだ。

そして気配を消した。

対象を処理するためのサバイバルナイフには触れない。

触れてはいけない、ということが、見た瞬間に結論として出ていた。

ようするに、戦う状況ではなく、私にできることは、今ここで見たことを記録に残すことだけだった。

だが、いつまでもここにいるのは駄目だ。

それから目を離さないようにしながら、足元だけを視野の端で確認しながら、少しずつ距離を取った。

這い上がろうとする何かは、まだ私に気づいていないように思えた。

早く距離を取った方がいい。

だが、急いではいけない。

ゆっくりと、一歩、一歩を積み重ね、通路を折れる。

岩壁が視界を遮った。

私は初めて、壁を背にして立ち止まり、呼吸を整えた。

心拍が、今さら主張してくる。

私は目を閉じ、数字を数えた。

「……もう、大丈夫だ」

奥に気配がないことを耳で判断し、来た方に何も動いていないことを目で確認してから、私は手帳を取り出した。

日付、時刻、場所の座標。

亀裂の規模、その方向。

臭気の質と強度。

這い上がろうとしていたものの形状と、岩盤に与えた物理的な影響。

手帳に記録しながら、私は頭の中で、別のことを考えていた。

これまで手帳に記録してきた、ダンジョンの変容。

それは個別の局所的なものかと思っていたが、違うのかもしれない。

ダンジョン全体の仕様が変更されようとしているのかもしれない。

底の見えない亀裂。

そこから這い出て来ようとしていた黒い腕。

中層では見かけたことのないものだ。

考えられるのは一つだけ。

「………………深層」

私は手帳を閉じた。

今の装備では、新しい仕様には対応できない。

それは間違いない。

今日の業務、その残りの目標は、迂回ルートで達成できる。

亀裂に背を向け、私は来た道とは別の経路を選んだ。

亀裂のある空間に背を向け、私は来た道とは全く異なる経路を選んだ。

浅層へ続くスロープを上がりながら、私はそれを感じた。

外気の匂い。

ダンジョンの外の、排気ガスや人々の生活が混じった、普通の匂い。

それがひどく懐かしく、そして愛おしいもののように感じられた。

探索者協会のロビーに足を踏み入れる。

空調の効いた乾いた空気が、冷や汗で濡れた身体を少しずつ乾かしていく。

換金カウンターへ向かう。

今日の担当は、権藤さんではなく、井葉さんだった。

私が置いた魔石を、彼女はテスターにかけていく。

「今日も、お疲れ様でした。静河さん」

彼女の声には、私が無事に帰還したことへの安堵のような響きが混じっていた。

「……ありがとうございます」

査定が終わり、買取金が口座に振り込まれる。

私は明細を受け取った。

だが、立ち去らない。

そんな私を訝しく思ったのか、井葉さんが私の名前を呼んだ。

私はバックパックから手帳を取り出した。

手帳に記録するだけで、これまで報告してこなかった異変、変容の数々を報告するべきだろう。

いや、しなければいけない。

底の見えない亀裂と黒い腕。

あれをそのままにしておくべきではない。

「……井葉さん。少し、聞いていただきたいことがあります」

私の改まった声のトーンに、彼女の表情が引き締まった。

「ここ数ヶ月の間、私はダンジョンの中でいくつかの異変を目にしてきました」

これまで記録してきたすべての異変、変容を告げれば、井葉さんが息を呑んだ。

「そして今日、中層で、底の見えない亀裂と、そこから這い上がろうとする未知の存在を見ました。岩盤を容易く崩すほどの質量を持った、おそらくは深層からの浸食だと推測しています」

井葉さんは私の報告の数々に驚きを隠せない表情をしていたが、それも少しして落ち着いたようで、こう聞いてきた。

「なぜ、今、報告を……?」

その問いは、当然のものだ。

「……ダンジョンが変容しているかもしれないという、可能性や憶測の域を出ないようなあやふやなものを報告することで、現場が混乱するのを避けたかった」

「……変な規則を作って、かえって探索者の皆さんを危険に晒しかねないことをするような人間が、協会にはいますからね」

そんなことになれば、私の生存戦略が脅かされかねない。

しかし、黙っていていいようなものでもなかったかもしれない。

「それは違うと思います」

「……井葉さん、私は何も言っていませんが」

「いえ。顔に書いてありました。黙っていたのはよくなかったかも、と」

彼女の指摘に、私は思わず真顔になる。

「静河さんと話す機会こそ、それほど多くはなかったですけど、それでも一年ですよ、一年。静河さんと顔を合わせてきたんです」

……ああ、そうだ。

そうだった。

「正直、静河さんだからこそ、このような細かい報告が事実であると確信して、上と対応の協議ができるんです。それに、そもそもですけど、他の探索者なら見間違いだったかもしれないって、次の日には忘れていますよ。きっと」

「……それは私の思考を否定するようなものではないと思うのですが」

「静河さん一人が背負い込む必要はないって、言いたいんです!」

井葉さんが、指を一本立てて、そう言った。

「ダンジョンの運命を静河さんが背負っているんですか? 違いますよね? だから、静河さんがそんなふうに思う必要はまったくっ、全然っ、これっぽっちもっ、ないんです! わかりましたか!?」

彼女のあまりの言い様に、私は思わず呆気にとられてしまった。

そして、すぐに笑った。

声を出してだ。

そんな私を見て、井葉さんも笑う。

「今日、こうして報告してくれました。この事実を協会はきちんと共有します」

「ありがとうございます」

私が礼を告げれば、井葉さんは、

「こちらこそ、ありがとうございました!」

とそう言った。

彼女の明るい声を背中に、私は協会を後にする。

颯真くんの元へ向かおう。

病院の場所と病室は、上近少年に聞いていた。

私は病室のドアをノックする。

「どうぞ」

その声に促されて中に入れば、ベッドの上に颯真くんがいた。

右腕は包帯で固定され、左足にはギプスが巻かれている。

顔にも絆創膏などが貼られていたが、それでも彼は生きていた。

私を見て、

「いい顔してんな。魔石の買取額が思ったよりよかったか?」

そんなふうに言ってきた。

いつもの颯真くんだ。

瞳にギラつきはなくなり、憑き物が落ちたような顔だった。

「そういうあなたは、かなりひどい顔になっていますね」

「……おい、嘘だろ。静河が冗談を言うなんて」

「今日はそういう気分なのかもしれません」

へえ、と言い、彼は笑おうとしたが、できなかった。

傷が痛むらしい。

「颯真くん」

「ん?」

「あなたが生きていて、よかった」

「……おう」

颯真くんは短く答えた。

それから少しの間、二人とも黙った。

「静河の言った通りにしなかった。だから、こんなふうになっちまった」

颯真くんが、視線を天井に向けたまま言った。

「死に急いでいたつもりはねえ。ただ、あの時は前へ進むことだけしか考えられなくなってた」

けど、と彼は続けた。

「今なら、そうだな。まるで死に急いでいたみてえだなって思える」

彼の独白は続いた。

「黒木さんに助けてもらったんだ。単独行動で、場所が悪くて。あの人に気づいてもらえなかったら、今頃俺は、未帰還者リストに載ってたはずだ」

天井に向けていた視線を、彼は私に向けた。

真っ直ぐな、見慣れた瞳だった。

「悪かった」

「謝る必要などありません」

そうだ。

彼が謝る必要など、どこにもない。

なぜなら、

「あなたは生きて戻ってきた。ここに。この日常に。それでいい。それだけでいい」

颯真くんはしばらく私を見てから、再び天井を向いて、

「……そっか」

と息を吐き出すように、言葉を漏らした。

それから、彼の話を私は聞いた。

黒木氏がどう動いたか。

深層の状況が、颯真くんの想定をどう超えていたか。

そして何が足りないかが、ようやく輪郭を持って見えてきたと、颯真くんは言った。

私は彼の話を聞きながら、今日、亀裂を目撃したことを思い出した。

言うべきか。

判断しかねながら、私は結局、何も言わなかった。

今日ではない、と思った。

今日は、彼が生きて戻ってきたことを、ただ確かめに来たのだ。

「では、私はそろそろ行きます」

「おう」

彼に目礼し、私はドアノブに手をかけた。

彼が私の名を呼んだ。

「俺は、また深層に挑戦する。今の俺には足りないものがめちゃくちゃあって。けど、それを克服できたら、行く。必ずだ」

彼は怪我人とはとても思えない、力強い眼差しをしていた。

それは、かつての『私』とは異なるものだったから。

「……はい」

私は、そう応答した。

この世界で初めてできた、

「友人として、その気持ちを応援したいと思います」

私のその言葉に、彼は笑った。

「じゃあな、静河」

颯真くんが言った。

「また明日」

と。

私はその場に立ち尽くす。

また明日——。

かつての職場。

夜遅く、後輩と二人で残業をしていた。

終電が近くなって、ようやく仕事を片付けて、笑いながら言っていた。

また明日。

その明日は、永遠に来なかった。

だが——。

私は颯真くんを見た。

怪我だらけで、包帯とギプスで固められて、それでも確かに、彼はそこにいた。

「ええ」

私は言った。

「また明日」

病室を出た。

廊下を歩いていると、前方からくる女性と目が合った。

颯真くんの母親だ。

彼女は静かに、深く、頭を下げた。

私もまた、深く一礼した。

宿舎に戻る頃には、空が暮れていた。

装備を片付け、手を洗う。

鏡を見れば、すっかり見慣れた静河くんの顔があった。

その事実を確認してから、私はキッチンに向かい、夕食の用意をする。

今日は卵雑炊だ。

一口すすると、出汁の旨味と卵の甘さ、その熱が、そのまま喉を伝い、食道を通り、胃に落ちた。

「……美味い」

と思うと同時に、生きていると、強く感じた。

食後、私は机に向かって、手帳を開いていた。

今日の記録をする。

亀裂の座標。

臭気の組成について、覚えている限りの情報。

這い上がろうとしていたものの、岩盤への作用。

書き進めながら、ページを遡る。

これまで記録してきた異変、変容のすべて。

これらがすべて、一つの流れの中にあって、深層が中層へと侵食を始めているとしたら——。

私は自分の生活圏を変えるつもりはない。

中層で、堅実に、確実に、生き続けていく。

だが、私のその生活圏が脅かされるとしたら。

その原因を知らないまま動き続けることは、私のやり方ではない。

ページの余白に、私は一言だけ書き付けた。

「……深層には、何があるのか」

手帳を閉じ、窓の外を見る。

星も見えない、夜がそこにはあった。