作品タイトル不明
第19話:暗闇の道標
私はライトのスイッチを切った。
世界から色が消え、湿り気を帯びた闇が視界を塗り潰した。
ここは中層エリアの回廊。
全長二百メートルほどあり、光源となる発光苔が一切自生していないため、無光源地帯とも呼ばれている。
私は、自分の指先すら見えない暗闇の中で、目を凝らした。
「……ひどい有様だ」
本来であれば、私が壁の腰の高さに等間隔で貼り付けた高輝度蓄光テープが、滑走路の誘導灯のように出口まで続いているはずだった。
しかし、現実は違った。
今の視界に浮かぶ淡い緑色の光はところどころで途切れ、輝度も著しく低下している。
誘導灯というには、あまりにも頼りない。
私はライトを点灯させると、近づいて確認した。
テープの表面は泥で汚れ、端がめくれ上がっていた。
それだけではない。
中には、何か硬いものがぶつかって削り取られたような箇所も散見される。
これは私が設定した、ライトトラブル時の緊急退避ルートだ。
光源を失った際、手探りではなく、目視でルートを確保するために設置した安全設備である。
それが、これでは機能しない。
私はため息をつき、バックパックを下ろした。
「設備点検、および復旧作業を開始する」
予備のテープと、汚れ落とし用のスプレー、それに布片を取り出した。
作業は丁寧に行う必要があるが、今、モンスターの気配がないからと言って、いつまでもそれが続くわけではない。
ダンジョンに絶対安全圏は存在しない。
丁寧に、しかし迅速に。
まずは汚れたテープの清掃から始める。
スプレーを吹き付け、布片で拭き取る。
泥汚れの下から、蓄光素材の緑色が戻ってくる。
剥がれかけたものは廃棄し、新しいテープを切り出して貼り直す。
壁面の凹凸を避け、視認性の高い位置へ、空気を押し出すように圧着していく。
地味な作業だ。
だが、この数センチのテープが、万が一の際の生死を分ける閾値になる。
私は黙々と手を動かし続けた。
作業を進めるうちに、ある違和感が形を成してきた。
壁に残る汚れ。
私はライトで照らしてつぶさに観察した。
「……手形、か?」
しかも一つではない。
無数ある。
泥と脂、それに乾いた血が混じったそれが、壁を這うように、出口の方角へと続いている。
視線を下げれば、足元には、細かく砕けたガラス片と、黒い染みが点々と散らばっていた。
黒い染みは血痕ではなく、オイルだった。
状況が見えてきた。
戦闘があったのか、あるいは転倒したのかは不明だが、ここでランタンが破損。
結果、この完全な暗闇の中で、探索者たちは視界を失った。
本来なら、パニックに陥り、方向感覚を喪失して壁に激突し、そのまま全滅するパターンだ。
だが、周囲に遺体はない。
血痕は出口の方角へと点々と続いているものの、致死量には達していない。
なぜ、彼らは出口にたどり着けたのか。
見つけたのだだろう。
私が貼り付けておいた、蓄光テープの微かな光を。
藁にもすがる思いで、その光に手を伸ばし、触れ、次の光を探して這い進んだ。
壁の汚れやテープの剥離は、彼らが必死にその命綱を掴み取ろうとしたということなのだろう。
「……本来は接触禁止のサインなのですが」
このテープは、目視でルートを確認するためのマーカーであり、手すりではない。
泥だらけの手で触られれば、蓄光性能は落ちるし、粘着力も弱まる。
利用者のリテラシー不足による設備汚損。
「……いや、死に物狂いの人間にそれを説いても意味はないか」
一つ息を漏らしてから、私は考える。
「次はもう少し高い位置に貼るべきか」
人の手が届きにくく、かつ視認しやすい位置。
改善案を頭の中で組み立て、
「……これでいいか」
その設計図通りに、私は新しいテープを貼り付けていく。
そうしながら考えていたのは、結果として生還することができた探索者パーティーのことではなく、私の設置した設備が、想定外の運用方法とはいえ、セーフティネットとして機能したという事実だった。
それは、私のダンジョン生存戦略が間違っていないことの証明でもあった。
私は最後のテープを貼り終え、再びヘッドライトを消した。
緑色の光の点が、暗闇の奥へと整然と続いていた。
「よし」
機能は回復した。
私はライトを点灯させ、その場を後にする。
地上へ戻り、探索者協会のロビーへ足を踏み入れると、いつもとは違う種類の熱気が漂っていた。
「マジだって! もう駄目だと思った真っ暗闇の中に、青白い導きの光が浮かんだんだ!」
ソファの方から、興奮した声が聞こえる。
包帯を巻いた探索者が、身振り手振りを交えて、別の探索者たちに語っていた。
「あれはきっと、以前ここで死んだ探索者の霊が助けてくれたに違いない……」
「すげえな、ダンジョンの守り神か?」
霊。守り神。
私は表情筋を動かさないように努めながら、その横を通り過ぎる。
彼らの守り神は、M&6社製の『高輝度蓄光テープ・屋外用』と言って、ホームセンターに行けば誰でも会えるのだが。
私は関わらないよう、カウンターへ向かった。
魔石をトレーに乗せる。
担当は権藤さんだった。
彼は手際よく査定を進めながら言った。
「最近、中層エリアでの生還率が有意に向上している」
唐突な話題だった。
私は表情を変えず、淡々と答える。
「それは、協会の指導が行き届いている結果でしょう」
「指導だけで、これほど劇的に数字が変わるものかね」
権藤さんが顔を上げ、
「まるで、誰かが現場で『見えない手すり』を設置しているかのような変化だが」
その奥にある瞳が私を射抜いた。
「……そうですか」
「……誰かにどんな意図があるかはわからない。だが、その誰かの『業務』は多くの命を救っている。それは紛れもない事実だ」
私は言葉を選び、彼が口にした事実だけを述べた。
「私にもその『誰か』の意図はわかりませんが、私は、私が生きて帰って来るために、私のやるべきことをやっているだけです」
権藤さんは小さく笑った。
「……そうだな」
だが、と権藤さんは続けた。
「それは誰にでもできることではない」
査定額が提示される。
「……では」
「ああ、また明日」
宿舎への帰り道、私はスーパーで食材を買い込んだ。
今夜のメニューはクリームシチュー。
温かく煮込まれた料理が食べたいと思ったのだ。
部屋に戻り、鍋を火にかける。
煮込む音が、心地よく響く。
「……いただきます」
私は一人、クリームシチューを心ゆくまで堪能した。