軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第18話:未言語化の業務マニュアル

朝。

探索者協会のロビーで、私はいつものように出発前の最終工程を行っていた。

靴紐の結び目を確認し、ナイフの刃こぼれを目視する。

その作業中、背中に粘着質な視線を感じた。

敵意や殺気ではない。

また、中堅探索者たちのような嘲るような感覚でもない。

「……この感覚は」

工場のラインで抜き打ち監査に入られた時の感覚がちかいかもしれない。

私の動作を一つ一つ分解し、チェックシートと照らし合わせているような、分析的な視線だ。

手を止めずに視線だけで確認すると、少し離れた場所に、真新しい装備の若い探索者がいた。

明らかに新人だ。

手にはメモ帳とペン。

彼はこちらを見て、何かを書き込み、またこちらを見る。

目が合うと、彼は慌てて視線を逸らしたが、書く手は止まらない。

私は小さくため息を吐き出し、いつものルーティンに集中することにした。

バックパックを背負い、立ち上がる。

「 全条件(コンディション) 、 規定値内(オールグリーン) 」

ロビーを出て、ダンジョンへの連絡通路を歩く。

足音が二つ。

私のものと、背後から一定の距離を保ってついてくるもの。

……やはり、ついてきている。

ダンジョンのゲート前——ここから先は現場だ。

私は立ち止まり、振り返った。

「……何か御用でしょうか」

背後の新人が小さく肩を震わせ、足を止める。

私との距離は5メートルほど。

彼はメモ帳を握りしめたまま、口を結んでいる。

「この先は危険区域です。あなたについてこられることで、巻き込まれ事故のリスクが格段に高まります。——はっきり言います。迷惑だ」

私は冷淡に警告した。

しかし、彼は動かなかった。

「先輩に言われました。死にたくなければ、あなたを全部真似ろと」

蚊の鳴くような、しかし頑固な声だった。

颯真くんの時は「教えてくれ」と頼んできた。

だから私は拒否し、しかし彼が折れなかったことで、条件付きで同行を許可した。

だが、彼は違う。

彼は私に教えを乞うているのではなく、勝手に観察すると宣言しているのだ。

「……そうですか」

ここで彼を追い返すために実力行使に出れば、トラブルになる。

協会規定において、同じ方向へ進む探索者を排除する権限は私にはない。

「では、宣言してください」

私の言葉に、彼は同行が許されたと思ったのか、表情を明るくした。

「私に助けを求めないこと。そして私の邪魔をしないこと」

「………………僕はあなたに助けを求めません。邪魔もしません」

「では、勝手にしてください」

死が身近であるダンジョンは自己責任の世界。

彼は宣言した。

なら、あとは彼の自由である。

私は彼を人間ではなく、現場に設置された監視カメラ、あるいは動く障害物だと認識することにして、ダンジョンへと足を踏み入れた。

ダンジョンの中層エリア。

湿った空気が肌にまとわりつく。

背後の気配は、宣言通り私の邪魔をしない、一定の距離を保ってついてきていた。

私は立ち止まり、ポケットからティッシュを取り出して細く裂き、かざす。

微かな風が、奥から手前へと流れている。

「……獣の臭いはない」

私は手帳を取り出し、記録する。

背後で、サラサラとペンを走らせる音がする。

彼もまた、真似をしているようだ。

だが、そのペンの動きには迷いがあった。

私がティッシュをしまった後も、彼はしばらく空中で何かを探るように手を動かし、それから首を傾げている気配がした。

当然だ。

彼は私の行動を模倣しているだけで、その理由——今の風に乗ってくる微細な情報の読み取り方を知らない。

だが、私にそれを解説する義理はない。

しばらく進むと、少し開けた空間に出た。

私は入口で足を止めた。

天井は高く、岩の裂け目から微かに光が差し込んでいる。

中央には清らかな水場があり、壁には発光する苔が美しく輝いている。

一見すれば、ダンジョンの中とは思えないほどの、理想的な休憩ポイントだ。

背後の新人が、安堵の息を漏らしたのが聞こえた。

緊張が緩む気配。

足音が、私を追い越そうとするリズムに変わる。

水場へ向かおうとしているのだろう。

私は彼を制止しなかった。

警告は済んでいる。

ダンジョンは自己責任の領域だ。

しかし——かつての『私』が、現場で事故直前の作業員を見た時に感じた、条件反射的な不快感が足を動かした。

私は無言で、彼の目の前に手をかざした。

「え?」

彼が足を止め、不思議そうにこちらを見る。

私は彼を見ず、ただ足元に視線を落とした。

探索者が捨てていったと思われる、腐敗した肉片が落ちていた。

私は手袋をした手でその肉片を拾い上げる。

新人が汚いと言いたげに眉をひそめたのがわかった。

私はその肉片を、彼が向かおうとしていた水場の近く、手頃な砂地へと放り投げた。

肉片が放物線を描き、砂の上に着地した、その瞬間。

鈍い音がした。

「……っ!?」

新人が息を呑む。

砂地が液状化したかのように波打ち、すり鉢状に崩落した。

その底から現れたのは、巨大な顎。

肉片は一瞬で砂の中へと引きずり込まれ、後には何事もなかったかのように、平らな砂地だけが残った。

擬態地獄蟻(アント・ライオン) 。

このエリアの生態系における、待ち伏せ型の捕食モンスターだ。

「な、なんで……何もなかったのに……」

新人が腰を抜かし、蒼白な顔で後ずさる。

私は彼に答えず、手帳を取り出し、地図の該当箇所に印をつける。

『擬態地獄蟻あり。回避推奨』

これで業務日誌の更新は完了だ。

「行きますよ。ここに長居すれば、振動で他の個体を呼び寄せるかもしれません」

つい声をかけてしまってから、私は迂回ルートへと足を進めた。

背後から、彼が慌てて立ち上がり、必死についてくる足音が聞こえた。

そのリズムは、先程までのただの模倣者のものではなく、死線をくぐり抜けた者の切迫したそれに変わっていた。

今日も生き残ることができた。

私は地上へ戻ってきた。

協会のロビーに入ると、

「よう先生。後ろの雛鳥、生きて帰したな」

ニヤニヤとした笑みを浮かべた颯真くんが近づいてきた。

先生と呼ばれる覚えはないが、否定する労力も惜しい。

……いや、待て。

「もしかして彼に助言した人物、もしかして颯真くんですか?」

「さあ、どうかな?」

颯真くんは不敵に笑うだけで答えなかった。

しかし、新人が颯真くんに一礼しているところを見れば、それが答えだった。

私が明らかに疲れたようなため息を吐き出せば、颯真くんは持っていた缶コーヒーを放り投げてきた。

私はそれを受け取り、黙ってプルタブを開けて、口に含んだ。

そんな私と颯真くんのやりとりを見ていた新人が、一段落ついたと判断したのだろう。

私の前に回り込み、深々と頭を下げてきた。

「ありがとうございました! あの、さっきの、なんでわかったんですか!?」

彼の声は大きく、周囲の注目を集める。

「すごい勘ですね! やっぱりベテランの第六感とか、超能力みたいなものがあるんですか!?」

勘。超能力。

その言葉に、私は眉をひそめた。

「……訂正してください。勘でも、第六感でも、ましてや超能力などでは断じてありません」

私は努めて淡々と告げた、そのつもりだったが、声に若干の苛立ちが混じっていたことは否定しない。

「私は『あるもの』を見たのではありません。『ないもの』を探しただけです」

「ないもの……?」

「足跡、フン、虫の死骸。自然な環境であれば、当然そこにあるはずのノイズです。それらが一切ない場所は、異常——つまりエラーです」

新人がハッとした顔をする。

「目に見える脅威だけではなく、目に見えない不自然さを疑う。それがリスク管理の基本です」

彼は慌ててメモ帳を取り出し、猛烈な勢いで書き込み始めた。

「行動だけじゃなくて、視点を……チェック項目そのものを盗まないと意味がないんだ……!」

ブツブツと独り言を言いながら、彼はペンの先を走らせる。

その様子を見て、颯真くんがニヤリと笑った。

「全部真似ろってのは、そういうことだ。あいつのやってることには、全部理由がある」

「はい! 勉強になります!」

新人が再び頭を下げる。

「……私は教師ではないんですが」

困惑する私に、颯真くんが破顔した。

「いいじゃねえか。おかげでまた一人、死なずに済んだんだ」

否定はできない。

それに、これ以上ここで時間を浪費すれば、スーパーの特売時間に間に合わなくなる。

「では、私はこれで。豚肉のタイムセールがありますので」

「ぶ、豚肉……?」

キョトンとする新人を置き去りにして、私はロビーを後にした。

背後から、「さすが静河さんだ、豚肉にも何か深い意味が……!」という誤解に満ちた呟きが聞こえた気がしたが、私は聞かなかったことにした。

「あの、僕、 上近(かみちか) 進(すすむ) と言います……! 進って呼んでください!」

私はそれに返事をしなかった。

今日の夕食は豚キムチだ。

それだけは譲れない確定事項だった。