軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第14話:ベテランと予防保全

「……もったいねえ。まだ使えるだろそれ」

背後からの嘲笑を、私は意識しない。

探索者協会のロビー、隅のベンチ。

私の手元には、単三電池が二本。

テスターで測れば、残量はまだ30%ほど残っている。

家庭にあるテレビ、あるいはエアコンのリモコンでなら、あと半年は稼働するだろう。

だが、ここは家庭ではなく、ダンジョンだ。

常に死がすぐ近くにある現場において、30%という数字は使用可能を意味しない。

故障の予兆と同義だ。

私は躊躇なく、その電池を廃棄ボックスへと放り込んだ。

新品のパッケージを開封。

ヘッドライトのバッテリーボックスに収める。

予防保全という考え方がある。

故障してから交換するのではなく、故障する前に部品を換える。

サーバーのハードディスクと同じだ。

壊れてからでは取り戻せない。

データを失うのも致命的だが、ここで失われるのは私の命だ。

次に、靴紐。

ほんの僅かだが、繊維の毛羽立ちが見えた。

これも交換対象だ。

切れてから結び直す数分間が、ダンジョンでは死に直結する。

「金が余ってんのか?」

「ビビリすぎて新品じゃないと安心できねえんだろ」

中堅どころの探索者たちが、私を指差して笑っている。

彼らにとって、私は資源を浪費する臆病な素人に過ぎないらしい。

彼らの靴を見る。

泥にまみれ、手入れの行き届いていない革。

……リスク管理の意識が欠如している。

私は反論することなく、新しい靴紐を編み上げていく。

その時だった。

ロビーの空気が、急激に質量を変えた。

「おい、黒木さんだ……! 『深層の鉄人』だぞ」

「先週、深層のドラゴン種をソロで撒いたって噂だ」

ざわめきが波紋のように広がる。

現れたのは一人の男性だった。

年は50歳以上。

白髪交じりの短髪。

顔には古傷。

だが、私が注目したのはそこではない。

彼の装備だ。

使い込まれているが、革にはオイルが馴染み、金属部分は曇り一つなく磨き上げられている。

剣の柄には滑り止めの加工が施され、予備のポーチは、指が最短距離で届く位置に配置されている。

……プロだ。

いや、 熟練職人(マイスター) と呼ぶべきだ。

彼が歩くだけで、周囲の探索者たちが自然と道を開ける。

そんな彼が足を止めた。

私のすぐ目の前で。

「あいつ、黒木さんに目をつけられたぞ」

「説教か? 『邪魔だからどけ』って言うつもりか?」

周囲の野次馬たちが色めき立つ。

彼は腕を組み、私が先ほど廃棄した電池と、今まさに交換し終えた靴紐をじっと凝視している。

言葉はない。

だが、その視線は鋭利な刃物のように私の手元を解剖していく。

威圧感がすごい。

何かの因縁だろうか。

……いや、これは、この視線は、監査に近い。

工場のライン工程をチェックし、不備があれば即座にラインを止める、あの冷徹で分析的な工場長の眼差しにとてもよく似ていた。

私は疑問に思いつつも、作業の手を止めない。

彼を意識して、そうする理由が私にはない。

靴紐を結び終える。

立ち上がり、予備のポーションをポーチへ。

最も取り出しやすい、右腰に収まるように装備する。

バックルが噛み合う音が、静まり返ったロビーに響いた。

「…………ふん」

黒木氏が、小さく鼻を鳴らした。

そして何も言わず、再び歩き出し、奥へと消えていった。

「見ろよ、黒木さんも呆れて行っちまったぞ」

他の探索者たちはそう解釈したみたいだが、私は違う。

「……どうやら、不合格ではなかったようだ」

そう感じた。

私がダンジョンへ向かおうとすると、権藤さんと目があった。

一礼して、そのまま立ち去ろうとしたのだが、呼び止められた。

「静河さん、最近、君の装備交換のタイミングをメモしている探索者がいるらしい」

それは……。

「……あまり気持ちの良いものではありませんね」

「君にしてみれば、確かにそうかもしれない」

だが、と権藤さんは続けた。

「君と同じタイミングで装備を交換した者が、先日、命拾いをしたそうだ」

権藤さんは改めて私を見た。

「君のやり方が、他の探索者の生存率を上げている」

私は何も答えない。

いや、答えようがない。

彼らが助かったのは彼ら自身の行動の結果だ。

つまり、彼らがようやく、メーカーが使用可能だと推奨している期間よりも、安全マージンを取った運用に切り替えたという、ただそれだけのことなのだから。

ダンジョン中層。

難所の手前にある、岩場の通路。

私はバックパックから、蛍光チョークと楔、そしてハンマーを取り出した。

今日の業務は探索だが、移動経路のメンテナンスも並行して行う。

見えにくい段差がある。

帰路、もしここを急いで通ることになった場合、この段差は転倒リスクになる。

私は段差の縁に、蛍光チョークでマーキングを施した。

光が当たれば反射し、視認性を確保できる。

次に、崩れそうな足場。

体重をかければ崩落する可能性がある岩の隙間に、鉄製の楔を打ち込む。

岩を固定し、足場としての強度を確保する。

最後に、邪魔な蔦を万能鋏で排除し、最短かつ安全なルートを確保した。

「おいおい、また臆病者が掃除屋みたいなことやってるぜ」

「ビビリすぎだろ。そんなとこ、気をつけて通ればいいだけじゃねえか」

通りがかった中堅パーティーが、私を見て笑っている。

彼らは整備されたばかりの足場を踏みつけ、何も考えずに奥へと進んでいく。

私は彼らの背中を見送る。

彼らの言う通りかもしれない。

だが、これは私のためのインフラ整備だ。

私の生存確率を0.1%でも上げるための、必要なコストなのだ。

夕刻。

予定していた探索を終え、私は帰りのルートについていた。

今日、私が整備したルートまで戻ってきた時だった。

深層に潜る方から、凄まじい血臭が漂ってきた。

「……!」

私は反射的に、物陰に退避した。

この付近に深層のモンスターが出現したという情報はない。

だが、これまでなかったからといって、これからもないという考えでは、ダンジョンでは生き残れない。

私は息を潜める。

私の探索スタイルは、他の者たちとは大きく違う。

事前の情報収集。

ダンジョンに潜ってみて、その実態を確認。

そこでも必要があれば情報をさらに収集。

そしてダンジョンから出て、自分の安全を確保した上で、その攻略方法を思考する。

つまり、ここに深層のモンスターが現れた時、私が攻略できる可能性は皆無だ。

そうして私が息を潜めていると、現れたのは深層のモンスターなどではなかった。

ベテラン探索者である黒木氏だった。

朝の整然とした姿とは違う。

片目が血で濡れ、鎧の一部が砕かれている。

私が聞き及んでいる彼の実力ならば、彼がここまでの怪我をするというのはよほどのことだ。

つまり、それほどイレギュラーな強敵と遭遇した——。

ダンジョンの恐ろしさを改めて痛感する。

「……ッ」

黒木氏の呼吸は荒いが、足取りは乱れていない。

彼の前方には、カーブを描く岩場の難所。

速度を落とさなければ、遠心力で外側に振られ、ガタつく足場に足を取られるはずの場所だ。

だが、黒木氏は減速しなかった。

彼は、私が午前中に引いた蛍光チョークのラインを視界の端で捉え、壁ギリギリの最短コースを維持したままコーナーに突っ込んだ。

踏み込む。

その足が選んだのは、私が楔を打ち込んで固定した岩の上だった。

並の施工なら弾け飛んでいたかもしれない衝撃だったが、楔は耐えた。

岩は微動だにせず、黒木氏の全体重と加速を受け止めた。

黒木氏は一瞬で私の前を駆け抜けていった。

私は物陰から出て、彼が踏み込んだ岩を確認する。

楔がさらに深く食い込み、岩の表面が少し削れていた。

だが、崩壊はしていない。

私の作ったインフラが仕様通りに動作したという事実が、心地よかった。

ダンジョンから出て、カウンターで魔石の換金を行っていると、権藤さんがやってきて声をかけてきた。

「静河さん。ついさっき、黒木さんが珍しく感想を漏らしていたよ」

私は確認を続けながら、権藤さんの話を聞く。

「『今日の帰り道、路面のコンディションが良かった』と」

周囲の探索者たちは、黒木氏の言葉の意味を理解できず、首を傾げている。

「路面のコンディション?」

「そんなものがダンジョンにあるのか?」

と。

彼らには見えていないのだ。

私だけではない。

ダンジョンで生き残るために、誰かが整備し、維持している当たり前の裏側が。

「……そうですか」

私は淡々と答えた。

私の仕事がプロの基準をクリアしていた。

その事実に、私は小さく息を漏らした。