作品タイトル不明
第13話:消耗品の戦場
不快な音がした。
目前に迫った緑色の粘液。
回避行動を取るスペースは背後になく、私は反射的に左腕を突き出し、顔面への直撃を防いだ。
鼻をつく刺激臭。
白煙とともに左手の皮膚——ではなく。
装着していた手袋の表面が泡を立てて溶解していく。
AAA社製・背抜き強力グリップ手袋(Mサイズ)。
長くはないが短くもない探索者生活の中で辿り着いた、最高の代物だ。
「これで終わりだ」
酸による攻撃を行ったモンスター、アシッドスライムの核をナイフで突き刺し、私は処理を終えた。
アシッドスライムは淡い光を放って消滅。
転がり落ちる魔石を放置し、すぐさま手袋を脱ぎ捨てた。
酸は皮膚まで到達しておらず、私の手は無傷だ。
地面に落ちた手袋を見れば、酸によってボロボロになっていた。
軍手代わりに使用できるのはもちろん、皮膚を守るための交換可能な『装甲』として、この手袋は正しく機能したことになる。
だが、私は眉をひそめた。
「損耗率が私の想定を超えている」
酸の腐食性が、協会が出しているデータよりも高い。
予備を含めた手持ち在庫を、この一戦だけで四双も消費してしまった。
在庫切れを起こせば、それはすなわち、私の皮膚が次のコストとして支払われることを意味していた。
「……仕方ない。撤退だ」
今日の探索はここまで。
利益は出ている。
しかし、この状態で業務を継続することはリスクが大きすぎる。
自分の命を天秤にかけるような蛮勇は、私のスタイルではない。
地上へ戻った私は、まずはカウンターで魔石を換金した。
そして、探索者装備のまま、近くにある馴染みになった店へと直行した。
有限会社 安長(やすなが) 用品。
ダンジョン探索者向けの装備品店ではない。
現場の職人たちが愛用する、実用本位の作業用品店だ。
今どき自動ではないドアを開けて店内に入ると、一直線にいつもの棚へ向かう。
「…………っ」
空っぽだった。
私が愛用しているAAA社製の手袋のスペースだけが、綺麗に消滅している。
「安長社長、在庫は?」
レジにいた社長に声をかける。
「ああ、静河さんか。久しぶり。悪いね、切れちまってるんだ」
安長社長は悪びれもせず、むしろ景気がいいとでも言いたげな顔で笑った。
「あんたと同じものを指名買いする探索者が急増してね。入荷した端から売れていくんだよ。うれしい悲鳴だ」
在庫に余裕があったため、しばらく来なかったうちに、そんなことになっていたとは知らなかった。
「……そうですか」
安長社長である彼にしてみれば、今回の一件で、商売繁盛の喜びを感じるのは当然だろう。
しかし、ユーザーである私にしてみれば、これは調達リスクへの懸念にほかならない。
特定の製品に急激な需要増が発生した場合、メーカーは増産で応えようとする。
その過程で何が起きるか。
検品基準の緩和。
原材料の質的低下。
そう、スペックダウンだ。
かつて『私』が担当した製品で、部品の供給が逼迫し、代替品の品質不良でラインが止まった悪夢が蘇る。
「品質が維持されればいいのですが」
「ん? メーカーも張り切ってるから大丈夫だろ。それより今すぐ必要なら他のメーカーのでも」
「いえ、大丈夫です」
楽観的な安長社長に私は別れの挨拶を告げ、店を出た。
散々使って試してみて、私の場合、AAA社製のものでなければ駄目だという結論に辿り着いたのだ。
「仕方ない」
近場のここで確保できればよかったのだが。
私はその足で、遠くはなるが、静河くんの幼馴染と再会したホームセンターや、金物屋を回ることにした。
「しまった。安長社長にいつから品薄状態が続いていたか聞いておけばよかった」
気が急いていたせいで失念してしまった。
私らしくないケアレスミスだ。
「……あるいは、もうすでに増産体制に入っている可能性もあるか」
見つかるといいのだが、増産体制に入る前に出荷されたものが。
私は日が暮れるまで街中の店という店を歩き回り、なんとか確保できたのは、
「……必要数の五割ですか」
手提げ袋の重さが、あまりにも心許なかった。
他の探索者たちが見れば笑うだろう。
英雄を目指す者が、たかが手袋のために街中を奔走するのかと。
だが、これは私にとっては、今日を生き残るために必要な仕事なのだ。
報われない疲労と、一抹の不安を抱えて、私は帰路についた。
翌日。
昨日、なんとか確保した貴重な手袋を装着し、ダンジョンの入口へ向かう。
そこで私はいつものルーティンを、装備と準備の確認をこなしていく。
そうして最後、手袋の感触を確かめる。
指を曲げる。
指を開く。
グリップ力、縫製の均一性。
「……やはりこれでないと」
私の指先の感覚とは噛み合わない。
「 全条件(コンディション) 、 規定値内(オールグリーン) 」
バックパックを背負い直し、私は今日もダンジョンに足を踏み入れた。
向かうのは浅層を抜けた先、中層だ。
いつものルートを歩く。
すでに頭の中の地図を確認しなくても慣れ親しんでいる。
しかし、慣れほど恐ろしいものはない。
油断が生まれ、命の危険に晒されるのだ。
私はこれまでそうしてきたように、上下左右、空気、臭い、風、音、そういったものをひとつひとつ確認しながら、慎重に足を進めていく。
そうやって進んでいた時だった。
「……ん?」
前方に違和感を覚えた。
「確かあそこは——」
以前、私がマッピングしておいた植物性のトラップ群生地帯——『 緊張蔦(テンション・バイン) 』があった場所。
そこが、荒らされていた。
「……いや、誰かが強引に突破したのか」
緊張蔦は、強い弾力を持つ蔦が通路を横断するように張り巡らされ、触れると強烈な勢いで弾け飛び、獲物を打ち据える植物だ。
剣か何かで叩き切られた蔦が、だらりと垂れ下がっている。
だが、根元の方はまだ生きており、中途半端に切断されたことで、切断面が鋭利な槍のように毛羽立っている。
さらに悪いことに、弾け飛んだ時に撒き散らされた鋭い棘が、床一面に散乱していた。
蔦自体はもう弾け飛ばないかもしれない。
そういう意味では、罠は解除されたと考えることもできるだろう。
しかし、中途半端に残った蔦は、視界の悪いダンジョンにおいては衣服や装備を引っ掛ける障害物になり、そして床に散らばった棘は、踏めば靴底を貫通しかねない凶器と同じだ。
要するに、
「罠はまだ解除されていないと同じ。……いや、罠が作動する前より、今の方がひどい」
前は触れなければ安全に通ることができたのだから。
他の通路に向かうという選択肢はある。
他人の尻拭いをする義務などないのだから。
しかし、放置すれば次回以降、万が一の時の緊急撤退時のリスクになる。
私は溜息をつき、バックパックを下ろす。
強力万能鋏と厚手のごみ袋をそこから取り出し、作業を開始した。
まずは障害物の撤去。
通路に垂れ下がり、まだ微かに脈動している蔦の残骸を、根元から切断する。
弾力のある繊維質は硬いが、昨日確保した新品の手袋のおかげで、しっかりと掴んで力を込めることができる。
次に危険物の排除。
地面に散乱した棘を、携帯用の箒と塵取りで回収する。
これらは乾燥すると硬化し、鉄釘並みの強度を持つ。
最後にルートの正常化。
切断した蔦と棘を『可燃ごみ』として分別袋に収め、通りやすいように地面を均す。
作業が進むにつれて、現場が片付いていく。
「……よし」
どうやら昨日の資材調達は、かなり強いストレスだったようだ。
整理された現場を見ることで、心が鎮まっていくのを感じた。
私は苦笑して、それから改めて思った。
やはり、いい道具はいい仕事を生む。
新しい手袋のグリップ感を確認しながら、私は回収したごみ袋の口を縛った。
これでルートに支障はない。
手帳を取り出し、記録をつける。
『F-3区画、緊張蔦の除去完了。ただし切断面からの再生に要警戒』
業務日誌を更新し、私はバックパックを背負い直した。
今日も定時で業務を終えた。
戻ってきて、換金カウンターに向かう私の背中に、若い探索者たちの声が届く。
「なあ、見たか。あのエリアの蔦、全部刈り取られてたぜ」
「誰かが掃除してんじゃね? ほら、あの臆病者とか」
「ハハ、モンスター倒すより草むしりが好きなら、探索者じゃなくて掃除屋を名乗った方がいいよなあ!」
彼らの中傷は、私の心を傷つけない。
認識のレイヤーが違うからだ。
彼らにとっては今回のことは草むしりで、雑用なのだろう。
だが、私にとっては環境整備で、それはすなわち安全保障なのだ。
私は特に反論することなくカウンターに魔石と、回収した蔦の入った袋を置く。
「いつもありがとうございます、静河さん!」
蔦の繊維はロープの素材として、微々たる値がついた。
魔石の換金額はいつもどおりだった。
宿舎への帰り道、夕食の食材を購入し終えた私は、有限会社安長用品の前を通りかかった。
ちらりと店内を覗けば、昨日は販売していた類似品すらもなくなり、入荷未定の札がかかっていた。
「こうなったか……」
特定の製品が欠品すれば、需要は代替品へと雪崩れ込む。
もし昨日、「面倒だから明日でいいか」と判断を先送りしていたら、私はこの劣化した代替品すら手に入れられず、素手でダンジョンに潜ることになっていたかもしれない。
ダンジョン探索後で疲れてはいたが、昨日、奔走してまで買い回ったのは正しかった。
宿舎に戻ると、私は夕食を自炊する。
スタミナ豚キムチ温玉丼。
今日も生き残ることができた。
明日もまた、生き残るために、
「いただきます」