作品タイトル不明
第106話:失敗の利用と、無表情の告発
雨が窓を打つ。
台風が上陸していた。
ここ数日の連続した業務で、身体の芯には鉛のような疲労が居座り、思考もその回転をわずかに遅らせているのが自分でもわかった。
また、業務だけでなく、保安職員の歪んだ正義感が、やはりストレスになっていたことは否定できない。
「……ちょうどいいですね」
台風が来ていることもあり、私は本日の業務を完全な休息日と定めた。
私はキッチンに立ち、冷蔵庫を開けた。
普段、ダンジョンへ向かう時の朝の食事は、消化の良さとカロリー摂取の速度を最優先にしていた。
白米に卵を落とし醤油を一回し、さらに湯を注ぐだけの即席の味噌汁、それにバナナを、数分で胃に流し込むのがほとんどだった。
日によって果物の種類が違ったり、味噌汁の味が違ったり、そもそもパンに変更することもあるが、基本的には簡単に済ませることが多かった。
しかし、今日は休息日にしたので、ゆっくり食事を摂る余裕がある。
私は小鍋に水を張り、昆布と鰹節で丁寧に出汁を取った。
豆腐を賽の目に切り、ネギを刻んで味噌汁を作る。
並行して、フライパンで塩鮭の切り身を弱火でじっくりと焼き上げた。
炊きたての白米とともに、それらをテーブルに並べた。
「……いただきます」
いつもならそろそろダンジョンに入っている頃に、私は時間をかけて朝食を味わった。
食後の緑茶を飲み干すと食器を洗い、私は部屋の奥へと向かった。
机の前に座り、バックパックから手帳を取り出す。
ページをめくり、これまでに記録してきたダンジョンの変容に関するデータを見る。
地形の拡張、未知の植物の発生、モンスターの挙動の変化、そして環境トラップの変質。
かつての『私』の知識や、誰かが作ったマニュアルではない。
私がこの世界で、このダンジョンで、自らの足で歩き、生きてきた経験の結晶だ。
私はそれらの情報を結びつけ、発生しうるパターンをいくつか頭の中で組み立ててみた。
まだ見ぬ変容に対処するため、現場で起こりうるあらゆる可能性の仮説は、持っておいて損はない。
この休日、私はそうして過ごした。
明けて、翌日。
台風一過の空は澄み渡っていた。
事前検査、さらに保安検査を通過し、ダンジョンへ。
本日の目的地へと向かうルートを進んでいると、
「師匠……!」
少し離れた場所から声が掛かり、足を止めた。
見れば『蒼穹の翼』のリーダーである伊織くんと、その仲間たちだった。
彼らの装備には、新しい補修の跡がいくつも刻まれていた。
「おはようございます」
「調子は……なんて聞くまでもないか。俺たちはダンジョンが変わって、おまけに国の検査だ、書類だって、もう面倒くさいことがいっぱいで息が詰まりそうだ」
彼ららしいといえば、彼ららしいその言葉に、私は口元を緩める。
「けど、俺たちはここで生きていくって決めてんだ。……なあ!?」
伊織くんの言葉に、他のメンバーが大きく頷く。
なるほど、確かに彼らの瞳の奥ある光は、ダンジョンが変容しようと、国が関与しようと、失われた様子は見られなかった。
「……無茶だけはしないように」
自然と、そんな言葉が口をついて出ていた。
自分で言っておきながら、私はその事実に驚いていた。
以前の私ならば、とても考えられないようなことだったからだ。
実際、伊織くんらも驚いたみたいな表情をしていた。
しかし、すぐに破顔すると、
「へへ、ありがとな、師匠! でも、師匠もだぜ!?」
「……ええ、そうですね」
「じゃあな、師匠! またな!」
屈託のない笑顔で手を振り、伊織くんたち『蒼穹の翼』は別のルートへと消えていった。
彼らの背中が見えなくなるまで見送ると、私は私の業務を行うため、移動を再開した。
本日の目的地である『 風化の砂壁(ウェザリング・ウォール) 』にやってきた。
乾燥した砂岩の壁が続くエリアだ。
変容が始まる前にも、私はここで何度も業務を行ってきた。
ここに生息する 砂壁蜥蜴(サンド・リザード) は、周囲の砂岩に擬態し、壁に張り付いて獲物を待ち伏せる特性を持っていた。
だが、それは変容前のことだ。
今は環境も、そしてモンスターも、変容していると考えて行動するべきだろう。
私は歩幅を狭め、岩肌の崩れ具合や空気の乾燥度合いを確認しながら慎重に進んでいった。
前方の開けた空間から、複数の足音と剣を振り回す音が聞こえてきた。
私は岩陰に身体を隠し、状況を窺った。
四人組の探索者パーティーが、砂壁蜥蜴の群れと交戦していた。
だが、様子がおかしい。
彼らが動き回るたび、足元の砂岩が不自然に波打ち、液状化しているように見えるのだ。
さらに、足音の振動に呼応するかのように、天井から脆くなった岩塊が不規則に落下していた。
まるでトラップみたいなこの現象はこれまでにないものであり、エリアが変容しているとみて間違いないだろう。
では、モンスターはどうだろうか。
慎重に観察した結果、彼らと戦闘を行っているモンスターは以前と同じ挙動であり、変容の兆候は見られなかったが、対象がエリアの変容を巧みに利用していることがわかった。
落下してくる岩の音に自らの移動音を紛れさせ、足を取られて身動きの鈍った探索者の死角から襲いかかっているのである。
……変容の兆候は見られないと言ったが、その行動自体が以前には見られなかったものなので、モンスターも変容していると判断を修正する。
探索者たちは流砂に足を取られ、頭上からの落石を躱すのに必必死だ。
当然、その隙を狙って、モンスターが襲いかかってくる。
「くそっ、足が抜けない!」
「落石だ!」
「くそ、モンスターも来やがって……!」
私はその場に留まったまま、全体状況を観察し続けた。
彼らの騒ぎが、エリアにいるすべてのモンスターの意識を引きつけている。
そして、彼らが無闇に動くことで生じる振動の届かない岩盤の端は、流砂化のトラップから外れている。
昨日、私が手帳と向き合いながら想定していた変容パターンの一つに、特定の座標や湿度の変化によって地盤が液状化するというのがあった。
今、目の前で起きているのはどうだ?
彼らが動くことで生じる振動を引き金として、局所的に流砂化が連鎖する現象だ。
それならば、振動が伝わりにくい壁際、あるいは強固な岩盤の上だけを選んで歩けば、このトラップは作動しないという解釈が成り立つのではないか。
私は腰からサバイバルナイフを抜き、壁際を静かに進んだ。
流砂の中で彼がもがき、捕食者である砂壁蜥蜴たちは壁面に張り付き、落石の音に紛れて攻撃を仕掛ける機会を集中して窺っている。
その、壁面にいる砂壁蜥蜴の死角から背後へと接近し、急所へ刃を突き立てた。
砂の上に魔石が落ちる。
私はそれを拾った。
私は彼らを囮にし、流砂の影響を受けない壁沿いのルートだけを使って、壁面で待機していた対象を死角から次々と処理していった。
跳躍前の対象を私がすべて潰したことで、探索者たちは群れによる波状攻撃に晒されなくなり、落石を躱しながらモンスターに対処できるようにもなった。
魔剣による攻撃は、魔石の品質を落とすが、そのかわり私のように死角から挑む必要がなく、堂々と正面からモンスターを倒していった。
そして、見える限りのモンスターがいなくなったことで、彼らは落ち着いて、流砂のトラップから抜け出すことができた。
彼らのうちの一人が、魔石を拾っている私に気がついた。
「おい、お前! 静河だよな!? ずるいぞ!」
息を切らしながらこちらを睨みつけてくる。
「俺たちが引きつけてたから倒せたんだよなあ! なら、その魔石は俺たちのもんだろ!」
彼の言葉に、私は何も言い返さなかった。
自己責任の現場で、利用できる状況を利用した。
私にしてみればそのとおりなのだが、彼らの立場になって考えてみれば、その怒りは理解できないものではない。
「よせ」
パーティーのリーダーらしき男が、彼を制した。
「彼と俺たちの立場が逆だったら、お前も彼を利用しただろ?」
「そ、それは……」
「違うか?」
リーダーの言葉に、私を非難した男はそれでもしばらくこちらを睨み続けていたが、やがて髪を乱暴にかき混ぜて、
「……悪かった。リーダーの言うとおりだ。俺たちの立場が逆だったら、俺はあんたを利用してた。間違いなくな」
「……いえ」
私は彼らに会釈し、その場を離れようとした。
だが、彼らの動きを見ていて、どうしても気になったことがあった。
「……前衛が踏み込む際、後衛が同時に動かなければ、足元の振動は分散されますよ」
思わず、そんな言葉が口をついて出ていた。
彼らに助言をするつもりはなかった。
ただ、彼らの連携のズレが、少しだけ惜しいと感じたのだ。
「……そうか、なるほど」
「なあ、やってみようぜ!」
彼らのパーティーが交わす言葉を背に、私は彼らから離れて、自らの業務を再開しようとした。
「あ、おい! ありがとな!」
カッとなった彼の言葉に、会釈を返した。
ノルマを達成することができた私は定時で地上へ戻って来ることができた。
換金カウンターで魔石も換金した。
今日の収益を示す明細をポケットに収め、ロビーの出口へ向かう。
これで今日も無事に終わる。
「……静河さん」
背後から、抑揚のない声が掛かった。
足を止め、振り返る。
そこに立っていたのは、保安職員の南塚原だった。
「……何か?」
今の彼には、歪んだ正義感を振りかざす熱も、同僚に排除された時に私に向けたような怒りも、感じられなかった。
感情が抜け落ちたかのような、完全な無。
「あなたが持ち込みを禁止された化学物質をダンジョンに持ち込み、使用していたという訴えがありました」
彼が暗闇のような眼差しで私を見る。
「同行していただけますか?」