作品タイトル不明
第105話:環境利用と、絶品ラーメン
特異地下資源管理協会と名を変えた建物のロビー。
記載台で持ち込み資材のリストと成分データシートを作成し、事前審査窓口の列に並んでいると、視界に見覚えのある姿が映り込んだ。
南塚原である。
自らの正義感を優先し、私にまるで根拠のない不正の疑いをかけた保安職員である。
昨日、保安検査を担当した職員の話では、自らの行いを心から反省した時、現場に復帰できるとのことだったが——。
今日の彼は、見慣れない職員から厳しく叱責されていた。
同僚なのか、あるいは上司なのかはわからない。
ただ、南塚原は深く頭を下げていた。
叱責が終わったのだろう。
職員が立ち去り、南塚原が頭を上げる。
彼がこちらに気づいた。
保安検査場から退場させられた際、私に向けた憎悪の視線を思い出す。
果たして、彼の表情は、まったく無だった。
感情というものがまるで感じられない。
私に気づいていないわけではないと思うが、それでも無表情のまま、私から視線を外し、奥の扉へと消えていった。
ふと、明日、台風が上陸するという天気予報を思い出した。
ここのところの異常な気温も合わせて、大変なことにならなければいいのだが。
気圧の急激な変化がもたらすダンジョンの影響も無視はできないだろう。
「次の方」
その声に、私は移動し、書類を提出した。
「……問題ありませんね」
事前審査が終わった。
許可証を受け取り、ダンジョン前の準備広場に向かう。
そこで探索前に行う確認作業を時間をかけ、丁寧に行ってから、保安検査の列に並んだ。
南塚原に受けたような執拗な検査は行われず、形式通りのX線検査と照合をパスした私は、ダンジョンへと足を踏み入れた。
今日、最初の目的地は、中層の南西に位置する『 錆色の廃坑(ラスト・マイン) 』である。
昨日、私はここで 錆毛熊(ラスト・ベア) の予期せぬ変容に直面し、撤退した。
その変容とは、対象が物理的な刺激を感知した瞬間、全身の針金状の体毛を強固な鎧へと変貌させる防御機構だ。
私の手札であるサバイバルナイフでは、その防御機構を突破することは叶わなかった。
このエリアでの業務を放棄し、別のエリアでの業務を行うことでも、短期的には問題はないだろう。
だが、変容し続ける今のダンジョンにおいて、その選択は悪手に他ならない。
現在、私が確認できている限りでは、あのような防御機構を見せたのは錆毛熊だけだが、他のエリアのモンスターでも発生しないとは限らないからだ。
その時もまた撤退するのか?
そしてまた、別のエリアで、同じような変容個体と遭遇したら?
だからこそ、検証するのだ。
昨日、食後に考えた方法が通用するか否かを。
赤茶けた岩壁に沿って、錆びた匂いを嗅ぎ取りながら慎重に進んでいく。
前方、右側の通路の奥から、対象の足音らしきものが聞こえてきた。
こちらに近づいてくる。
私は岩陰に身を潜め、息を、気配を殺した。
やがて、対象が、錆毛熊が姿を現した。
昨日、遭遇した同じ個体かどうかはわからない。
しかし、対象に発生している変容は、同じものであると考えていいはずだ。
私が、昨日、夕食後に考えたのはこんな感じのことだ。
まず真っ先に考えたのが、フォートレス・アイソポッドの装甲を剥離するのに使用実績のある、『対極硬度用・高周波解離ユニット』の転用だ。
もちろん、あれはアイソポッド専用に調整されているため、他の対象にまで使用できるようにするためには、種田氏の元を訪れ、改修してもらう必要がある。
先日、種田氏から、
『お前の知り合いだという探索者が来た。なかなか面倒な仕様だったが、悪くなかった』
という短いメッセージが送られてきた。
狩能氏と、パイルバンカーのことだろう。
また、
『……うちのが、美味い煮物を作りすぎたから、そのうち食べにくればいい』
ともあった。
それもあったので、ユニットを改修することも考えたのだが、ふと思ったのだ。
錆毛熊は、サバイバルナイフが触れる寸前に体毛を硬化させたが、その直後、私が鼻先へ冷却スプレーを噴射した際には再現されなかった、と。
であるならば、物理的な接触、あるいは刃が接近する際の微細な空気の変化を体毛か、あるいは体表面の何かが感知し、防御機構の引き金になっているのではないか。
……もし、この推測が正しければ、そのセンサーとなる感覚器官を急激な温度低下によって強制的に麻痺させてしまえば、どうだろう。
ユニットの改修は、それからでも遅くはない。
私は腰のポーチから捻挫用の携帯冷却スプレーを取り出した。
足音を完全に殺し、岩陰から対象の死角へと静かに踏み込んだ。
対象が私の気配に気づく前に、変容前、処理するためにナイフを突き立てていた頸部へ向けて冷却スプレーを噴射した。
マイナス数十度の気化冷媒が、対象の体毛と皮膚から一気に熱を奪い去る。
対象が冷気による痛覚に反応し、咆哮を上げようと身体を震わせた。
私はその動きに合わせながら、冷却スプレーを持っていない方の手にあったサバイバルナイフを突き立てた。
昨日はここで、対象の防御機構が発動した。
……どうだ。
防御機構は、発動しなかった。
私のナイフは頸部へ沈み込んだ。
確かな手応えを感じると同時に、対象は光の粒となって霧散し、魔石になった。
対策は見事に機能したことを確認しながら、私は魔石を拾い上げた。
変容した錆毛熊に対する手順を確立することができた。
素直にうれしく思うが、繰り返すことで、ダンジョンが何かしらの反応を、固定金具やワイヤーに対して示したようなものを引き起こす可能性は排除できない。
だが、事実は事実として、私はこの結果を記憶して、次のエリアへ向かった。
F-3区画、通路を横断するように強い弾力を持つ植物の蔦—— 緊張蔦(テンション・バイン) が張り巡らされている群生地だ。
蔦の張り方、葉の質感、周囲の空気の湿り気。
一見した限りでは、環境に変容はないように感じられる。
さらに注意深く観察しようとしたところで、前方の岩陰から多脚のシルエットが姿を現した。
このエリアを徘徊する、 岩擬蜘蛛(ロック・スパイダー) だった。
その動き、外殻の色沢、明らかな異常は見受けられない。
環境同様、モンスターにも変容はないように感じられる。
……いや、それは違う。
現在のダンジョンは変容し続けている。
このエリアだけが変容していないということは、あり得ない。
問題は、環境とモンスター、そのどちらか、あるいは両方に変容が起こっているかだ。
私は足元に落ちていた手頃な石を拾い上げた。
まずは環境から確認するために、モンスターから離れた位置にある緊張蔦へ向け、石を投げた。
石が蔦に接触した瞬間、空気を引き裂くような鋭い破裂音とともに、蔦がかつてとは比較にならない速度で弾け飛んだ。
撒き散らされた鋭利な棘が、周囲の岩壁に深々と突き刺さっている。
張力と棘の殺傷能力もそうだった。
かつてを遥かに凌駕するレベルへと強化されていた。
環境が変容している。
問題は、その破裂音に反応した対象の挙動だった。
これまでであれば、対象は獲物の振動を感知して直線的に強襲するはずだった。
しかし今、対象は棘の着弾音が響いた岩壁へ向けて、異常な速度で方向を転換し、殺到したのである。
環境の変容に適応する形で、モンスターも変容を遂げていた。
このまま進み、私が僅かな音を立てた瞬間、対象のみならずエリア中の個体が私に襲いかかってくるだろう。
加えて、強化された緊張蔦に少しでも触れれば、間違いなく致命傷を負うはずだ。
だが、撤退は考えなかった。
昨日の錆毛熊の時とは違い、変容発生後に蓄積したデータから、このパターンに対応できる手順を組み立てることができたからだ。
今回は現場、つまりこのエリアの環境、そしてモンスターの特性そのものを利用して、処理をする。
私は新たに複数の石を拾い集めた。
足音を殺し、対象の死角を維持したまま、緊張蔦が最も密集している地帯の対角線へと移動する。
対象の注意を引くため、密集地帯の手前の床へ向けて、一つ目の石を投擲した。
着弾音に反応し、対象が猛然とその座標へと突進してくる。
対象が密集地帯の射程圏内に完全に踏み込んだそのタイミングで、二つ目の石を緊張蔦の根元へ向けて全力で投げつけた。
石が命中し、暴発的な連鎖破裂が発生した。
強烈な弾力で弾け飛んだ無数の蔦が、鞭のように対象の巨体を打ち据え、同時に撒き散らされた凶器のような棘が、対象の甲殻を全方位から貫いた。
自らの力では到底及ばない破壊力が、対象の動きを完全に停止させる。
対象は反撃の機会すら与えられず、光の粒となって霧散した。
棘の雨が収まるのを待ってから、私は慎重に歩み寄り、魔石を回収した。
敵に有利であるはずの状況を利用し、切り抜けることができた。
確かな手応えの余韻に、僅かな時間だけ浸る。
すぐに別の考えが浮かんだ。
私が何か持ち込むことなく対処した今回の方法は、果たしてダンジョンは何らかしらの反応を示すだろうか。
いずれにしても、ダンジョンが変容するならば、それに対応すればいい。
ただそれだけだ。
予定していたノルマを完遂することができた私は、地上へと帰還した。
ロビーに入れば、見慣れた集団が目に入った。
『赤き戦斧』のメンバーたちだ。
リーダーが私に気づき、苦笑いを浮かべた。
「よう、静河」
「……なんだかお疲れみたいですね」
変容が始まって以来、彼の顔がスッキリしているところは見ていない気がするが、それでもここまで疲れた感じではなかったように思う。
「変容が起こって、メンバーが減って、ただでさえ懐が厳しいってのによ、魔剣の定期点検なんてものをしなくちゃならなくてな。お前のその軽装が羨ましくて仕方ないぜ」
彼はそこで言葉を区切り、私をまっすぐに見た。
「おっと。馬鹿にしてるわけじゃないから、勘違いはしないでくれよ。それだけの装備で、今のダンジョンで稼げるのは、お前だけだ。……さすがだよ、オークスレイヤー」
「その呼び方はやめてくださいと言ったはずですが?」
私が告げれば、彼は肩をすくめて、メンバーとともに協会を出ていった。
私は小さく息を吐きだし、換金カウンターへと向かった。
今日の担当も権藤さんだった。
私がトレイに魔石を置けば、彼は手際よくテスターにかけながら、その数を認めて僅かに安堵の表情を見せた。
「昨日よりも成果を出しているな」
「対策が機能しました」
「だが、無理だけはしないように。……以前のように、君たちの力になることができないのが本当にもどかしい」
権藤さんは視線を伏せ、静かに息を吐いた。
「それでも、ここでできることは何でもするつもりだ」
やり方を模索しているのは、私たち探索者だけではない。
組織の側で、彼もまた戦い続けているのだ。
「ありがとうございます」
私は深く一礼し、協会を後にした。
外は、明日の台風を予感させるような、重く湿った風が吹いていた。
今日の夕食は、大通りの外れの路地を一本入ったところにある、立ち食いそばの店に決めていた。
『ごはん処 ふたば』の常連たちが話していた店である。
かつての『私』も、営業回りの合間にそうした店で短い昼食をかきこむことが多々あった。
その時の記憶が蘇るからだろうか、足取りがいつもより軽い気がした。
路地を曲ると、年季の入った木製ガラス引き戸が見えた。
『そば・ 吉(よし) 』。
ガラス越しに見える券売機は、『そば』や『うどん』のバリエーションメニュー、さらにカレーやいなりなどのごはんもので多くを占められているが、私の視線はすぐに目当てのボタンを捉えた。
立ち食いそばの店なのに、なぜかある『中華そば』のボタン。
そして、そのボタンだけが、他と比べて明らかに摩耗していた。
そう。立ち食いそばなのに、なぜかラーメンが美味いと聞いて、来たいと思ったのである。
無地の暖簾をかき分け、引き戸を開けて中に入る。
立ち食いそばなので、当然、カウンターのみ。
五、六人も入れば満席になるだろう。
低音量で流れるAMラジオの音声が、かつての『私』の記憶にある定食屋の雰囲気にひどく似ていた。
先客である仕事帰りらしいサラリーマンがカレーライスを食べているのを横目に、私は購入した食券をカウンターに置いた。
もちろん、中華そばである。
卓上には七味唐辛子やセルフサービスの天かすと並んで、黒胡椒の大缶が当然のように鎮座している。
ピカピカに磨き上げられた厨房では、白衣にねじり鉢巻姿の年配の店主が無駄のない動きで働いていた。
そば用の茹で釜とは別に、奥のコンロで深い寸胴鍋が静かに湯気を上げているのが見える。
ほどなくして、湯気を立てる丼が私の前に差し出された。
澄み切った琥珀色のスープに、ちぢれ麺。
トッピングはチャーシュー、メンマ、ほうれん草、ナルト。
レンゲでスープを掬い、一口飲む。
鰹節、昆布、煮干しの、極上の純和風出汁。
そこに、鶏ガラや豚背骨の清湯スープが絶妙な比率でブレンドされている。
かえしには、そばつゆ用の本かえしとチャーシューの煮汁を合わせているのではないか。
醤油の角が取れ、あっさりしていながら圧倒的な深みとまろやかなコクがあった。
出汁を極めたそば職人が、その技術をラーメンのスープに全力で転用した結果生み出された、奇跡のような一杯だった。
「……美味い」
思わず声が漏れた。
カレーを食べていたサラリーマンが、私の言葉に静かに頷いていた。
彼はここの常連なのかもしれない。
その証拠に、黒胡椒ではなく、天かすを入れてみるように、私にジェスチャーで示してきた。
郷に入っては郷に従えではないが、挑戦してみた。
「——ッ」
今度は言葉が出なかった。
気がつけば夢中で食べ、サラリーマンの姿はすでになかった。
「ごちそうさまでした」
「……まいど」
店主の短い返事に送り出され、私は店の外へ出る。
本来なら、すぐに宿舎に帰り、今日の事実を手帳に記録するべきなのだが、今はまだ、この衝撃の余韻を味わっていたかった。
だから、ほんの少しだけ、遠回りして戻ることにした。