作品タイトル不明
第107話:捏造の通報と、生きていく場所
保安職員の南塚原が言った。
「あなたが持ち込みを禁止された化学物質をダンジョンに持ち込み、使用していたという訴えがありました。ご同行いただけますか」
彼から、以前は感じられた敵意や害意みたいなものは感じられなかった。
だが、彼の眼差しは、昏く、深く、澱んでいた。
業務を終え、ただでさえ疲労が蓄積しているというのに、ここで無用な言い争いに時間を費やすことは、明日の業務への活力を削ぐだけだ。
だが、明らかに理不尽なこの要求を受け入れるわけにはいかなかった。
彼の指摘は、まったく身に覚えのないことだったからだ。
私は持ち込み資材の事前審査を正規の手順で通過しているし、成分データの提出も怠っていない。
禁止された化学物質を使用した事実など、一切ない。
「通報したのはどなたでしょう?」
私は努めて静かな声で尋ねた。
「お教えできません」
南塚原は表情を変えずに即答した。
「では、私が使用していたという化学物質は何ですか?」
「お教えできません」
「いつ、どこで、どのように使用していたというのでしょう?」
「お教えできません」
まるで機械のように同じ言葉を繰り返す彼に、私は微かに眉をひそめた。
「何も教えていただけないのですね」
「質問は以上ですか? では、ご同行ください」
南塚原の再度の要請に対し、私ははっきりと告げた。
「お断りします」
「……は?」
「まず、大前提として、私は何一つ、不正を行っていません。そして、具体的な事実が何一つ提示されない状況で、あなた一人に従うことはできません。話をするなら、別の方にも立ち会っていただきたい。場所はここでお願いします」
自らの身を守るための、ごく当たり前の要求だった。
だが、その言葉が南塚原の何かを刺激したようだ。
それまで無表情だった彼の顔に、明確な怒りが浮かび上がった。
「うるさい! お前みたいなやつは、黙ってついてくればいいんだ……!!」
彼が私の腕を強引に掴もうと手を伸ばしてきた時、
「何をしている」
低い声がして、南塚原の動きが止まった。
その顔が歪む。
私は声の主を探すために周囲を見た。
気がつけば、探索者たちによる相当な人だかりができており、それを割って、権藤さんが現れた。
私は彼に一礼すると、
「実は……」
と、今の状況を簡潔に伝えた。
権藤さんは私の話を聞き、南塚原へ視線を向けた。
「訴えがあったというのは本当かね?」
「…………、はい。電話を受けました」
再び、無表情に戻った南塚原が肯定した。
権藤さんはしばらくの間、そんな彼を見つめていたが、
「……わかった。では、記録を確認してこよう。別の職員をここに呼ぶから、それまで待機していなさい」
権藤さんはそう言い残すと足早に奥へと消え、入れ替わりに別の職員がやってきて、私と南塚原の間に立った。
周囲の探索者たちが腕を組み、状況を注視していた。
彼らの眼差しのほとんどは南塚原に向けられており、私に向けられたものは一つもなかった。
誰も口を開かないまま、奇妙な沈黙が数分間は続いた。
権藤さんが戻ってきた。
その顔は険しいものだった。
「南塚原くん、通報の記録はなかったが?」
周囲の探索者たちがどよめいた。
「……すみません。電話による通報ではなく、自分が直接聞いたのでした。うっかりしていました」
「なるほど。では、誰による訴えだったのか教えてほしい」
「……自分には通報者を守る義務がありますから」
「私は君と同じ協会職員だ。その私にも言えないというのかね?」
「……そ、それは」
南塚原の無表情が崩れた。
権藤さんの顔が悲痛なものに変わる。
「……君に静河さんの不正を訴えたという人物は存在しないのだろう?」
「ち、違います……! 自分は本当に——」
「なら! その探索者の名前を、今すぐ、ここで言いなさい……!!」
権藤さんの一喝に、南塚原が後ずさった。
「君はありもしない通報者をでっち上げ、静河さんを不当に連行しようとした」
南塚原の顔から、完全に血の気が引いていく。
見守り、ざわめいていた探索者たちから、明確な非難の声が南塚原に殺到する。
「捏造!? ふざけんな……!」
「ありえないでしょ、協会の職員がそんなことって!!」
周囲からの声に追い詰められた南塚原は、
「俺は間違ってない……!!」
非難の声をかき消すほどの大声で怒鳴った。
そして、血走った目で私を睨みつけた。
「間違ってるのはこいつだ……! 変容が続く状況で、一人だけ結果を出し続けるなんて! 絶対に何か不正をしているはずなんだ! あなたたちだって、そう思っているはずだ! そうだろう!?」
同意を求めるように南塚原は周囲を見回すが、変わらない非難の眼差しが向けられるだけで、誰一人として同意する者はいなかった。
「お前、静河さんがどれだけ慎重に準備して潜ってるか、見たことあるのか……?」
誰が言ったかはわからない。
だが、探索者の中から、その声は静かに響いてきた。
「あんたらの作ったルールに従って、誰よりもキッチリやってるの、静河さんだろ……」
「静河さんのおかげで助かった命だってあるのに……」
彼らは誰一人として、南塚原のように叫ばなかった。
ただ、静かな告発が続いた。
南塚原は周囲を見回し、
「な、なんで……だって、彼一人が……絶対におかしい……こんな、こんなの……」
うつむき、うわ言のように、言葉にならない言葉を吐き出し始めた。
そこに、以前彼を叱責した職員が駆けつけてきた。
「お前は……!」
その職員は南塚原の胸ぐらをつかみ、怒りをぶつけるかと思いきや、
「真面目にやっていると、そう思っていたのに……」
まるで涙をこらえるかのように唇を噛み締めた。
職員は私に向かって深く頭を下げ、言った。
「彼の行動をしっかり管理できていなかった自分のミスです。大変申し訳ございませんでした」
「き、 北林(きたばやし) 先輩、俺は……」
北林と呼ばれた職員は、南塚原の言葉に応えず、ただ彼を奥へと連行していった。
南塚原は、抵抗しなかった。
騒ぎは収束したが、多くの探索者たちはその場に残り、南塚原が消えた辺りを見ていた。
私は小さき息を吐き、権藤さんに向き直る。
「ありがとうございました、権藤さん。権藤さんのおかげで助かりました」
「……感謝しなくていい。協会職員として、本当に申し訳なかった」
権藤さんが頭を下げる。
私は彼の肩に触れ、頭を上げさせた。
「やめてください。言った通り、権藤さんのおかげで助かったのです。それが事実です」
「……それでも、本当に申し訳なかった」
再び頭を下げる権藤さんに、私も再び感謝を告げ、協会を後にした。
外へ出れば、澄んだ夜空があった。
梅雨が明け、夏が来た。
爽やかな空気が頬を撫でていく。
だが、身体の芯には、とてつもない疲労がこびりついていた。
かつての『私』も似たような経験はしているし、日々のダンジョンは理不尽そのものだ。
だが、それでも——。
スーパーには寄らない。
宿舎にも、まだ帰らない。
私はそこへ向かった。
静かな住宅街の中にある、『ごはん処 ふたば』。
手書きのメニューが置かれた、温かな雰囲気の定食屋だ。
あのデミグラスソースのハンバーグ。
あるいは、優しい味の豚汁。
静かにドアを開ければ、
「あ、いらっしゃい、静河さん!」
姉妹の元気な声が、私を出迎えてくれた。
翌朝。
協会のロビーに足を踏み入れれば、異様な光景が広がっていた。
新設された保安検査場のゲート前が、探索者たちの人垣で完全に塞がれていたのだ。
それだけであれば、保安検査が始まった時と同様の光景だった。
だが、誰一人、検査を受けようとしていないのだ。
ある者は腕を組み、またある者は腰に手を当て、職員たちと睨み合っていた。
「……これはどういう状況ですか」
推測しようにも、あまりにも状況が不明すぎて、私は近くにいた探索者に尋ねた。
彼女は忌々しげに舌打ちをして言った。
「ボイコットよ。昨日の話、聞いたわ。あの南塚原って職員が、あなたのこと、証拠をでっち上げて連行しようとしたんでしょ」
そのとおりだったので、私が頷けば、
「だからよ」
彼女は職員たちを睨みつけた。
「そんな連中がやってる検査なんて、信用できるわけないでしょ。いくら書類を完璧に出したって、連中の気分次第で不正を捏造されるかもしれないのよ。冗談じゃないわ」
ゲートの向こうでは、複数の職員が必死に声を張り上げていた。
その中には、北林と呼ばれていた職員もいた。
「あれは南塚原の、彼個人の暴走です! 彼はすでに懲戒免職となり、ここに立つことは二度とありません! 私たちは協会に出向している公務員として、適正な検査をこれからも行ってまいります!」
真摯な訴えではあったが、探索者たちには届かなかった。
「それが本当かどうかなんて、俺たちにわかるかよ!」
聞き覚えのある声だ。
颯真くんである。
彼もまた、苛立ちを隠さず、職員たちを見据えていた。
新しい制度が始まり、その運用にストレスが溜まっていたこともあるのだろう。
これまでは何のストレスもなく、ダンジョンに向かうことができていたのだから。
だが、ここにきて、職員による事実の捏造が発覚した。
彼はもう、怒りを抑えきれなくなったのだろう。
私はその対立から視線を外すと、ロビーの隅にある記載台へと向かった。
申請用紙に、必要事項である持ち込む資材のリストと成分データを記入していく。
書き終えた書類を手に、私は事前審査の窓口へ向かった。
窓口の担当者は、私が提出した書類を受け取らず、ただ驚いたように私を見た。
「……何か問題でも?」
書類に不備があって受け取れないというのであれば——。
「あ、いえ、そうではなく……いえ、あの、大丈夫、です。問題、ありません」
私が差し出した申請用紙を受け取り、しかしいつものように淡々とではなく、ところどころ引っかかりながらそういうと、承認のスタンプを押した。
許可証を受け取った私は一礼し、準備広場で業務前の確認作業を終え、保安検査場へと向かった。
誰も並んでいない。
抗議していた探索者たちが私に気づき、ざわめく。
「おい、静河! お前、なんで……!?」
颯真くんだった。
「なんで一番の被害者が、大人しく検査なんか受けてんだよ……!!」
振り返って、彼を見る。
その顔には、怒り、苛立ち、不満、そして少なくない驚きの色があった。
怒り、苛立ち、不満——私にも、それらがないとは言わない。
理不尽な言いがかりによって、無駄に神経をすり減らされたのだ。
しかも一度ではなく、何度も、執拗に。
最後はありもしない通報を捏造までして。
だが——。
「……制度に不満をぶつけたところで、私の今日が保障されるわけではありませんから」
私の言葉に、颯真くんがさらに不満を吐き出そうとする。
その気持ちも、やはり、わかる。
それでも——。
「私は、ダンジョンで生きていくと決めたんです」
『私』が静河くんとなった、あの日に。
「新しいルールが設定されたのなら、それに従い、その中で安全を確保し、最善を尽くすだけです」
私は、颯真くんを真っ直ぐに見た。
「私に、立ち止まっている余裕は、ありません」
偽らざる、今の私の本心だ。
私は颯真くんから視線を外し、トレイにバックパックとナイフなどの金属類を預け、ゲートをくぐった。
当然、警告音はならなかった。
固まったままの保安職員を見れば、慌てた様子で荷物の検査と照合を開始した。
「も、問題ありません」
保安職員はそう言ったが、
「……バックパックの中を確認していませんでしたが?」
私が告げれば、職員はハッとなり、慌てた表情から引き締まった表情へと変化させ、最初から確認作業をやり直す。
「……問題ありません」
「ありがとうございます」
私はナイフなどの金属類を装備し直し、バックパックを背負う。
あとはダンジョンに向かうだけだ。
だが、その前に、一度だけ、一瞬だけ振り返れば、颯真くんが私を見ていた。
口を何度か開いては閉じてを繰り返し、やがて何とも言えない疲れた表情を浮かべた。
しかし、私に向かって、右手を突き出してきた。
私は口元が緩むのを止められなかった。
右手を出した。
もう、私は振り返らなかった。
私たちが生きていく場所はそこではなく、ここから先——ダンジョンだったから。