作品タイトル不明
第100話:新たな仕様書
協会の壁面には、巨大な電子掲示板が新しく設置されていた。
そしてその掲示板の前には、無数の人だかりができていた。
私は人垣の後ろから、その文面を目でなぞった。
『ダンジョン特別管理法』の施行に伴う、具体的な規則の羅列。
探索者ライセンスの国家資格化と等級制。
健康診断の義務化。
持ち込み資材の事前審査および成分データシートの提出。
魔剣を特定危険機材として定め、定期点検の義務化。
魔石の固定価格買取制度。
そして、こう続く。
探索者協会は、今後、特異地下資源管理協会へと名称を正式に改める、と。
新しい名称から、協会上層部、あるいはそこに関与できる存在の視線が、どこを向いているかが透けて見える。
だが、他の探索者たちが気にしているところは、別のようだった。
周囲の探索者たちが、頭を抱え、呻き声を上げていた。
「ふざけないで! 何よこのライセンスの等級制って!?」
「持ち込み資材の事前審査? 成分データの提出? そんな書類、書き方なんてわかるわけねえだろ!」
「魔剣の定期点検義務だと……維持費だけで赤字になるぞ!」
「魔石の買取額が固定化されるって、冗談でしょ!?」
私はそれら怨嗟の声を聞き流し、掲示板の文字をさらに追った。
罰則規定、審査の手順、要求される書類の書式。
それらを頭の中で分類し、要求事項の全体像を構築していく。
かつての『私』は、もっと理不尽で、現場を無視したような悪辣な仕様変更を幾度も経験してきた。
「現場の運用? 私には関係ないことだ。明日からはこの通りに動け。いいな?」
デスクから一方的に押し付けられる実現不可能なスケジュールの数々。
それに比べれば、目の前に羅列されているルールはどうだろうか。
提出すべき書類の形式は決まっており、記入すべき項目も明確に定義されている。
安全を担保するための定期点検や、持ち込み品のリスク評価。
それらはすべて、二度とスタンピードを起こさせないため、現場で一番予測のつかない人間と得体の知れない化学物質を徹底的に管理し、ダンジョンという巨大な工場の稼働を絶対に止めないための、極めて理にかなった仕組みでしかなかった。
瀬能氏から国が本格的に探索者を管理すると聞いていたから、どれほどのものかと思っていたが、この程度ならばむしろ拍子抜けだった。
「おい、静河。面倒くせえことになったよな。なんだよこれ。書類の提出? 潜る前に探索者を疲れさせてどうするって言うんだよな?」
いつの間にか隣に立っていた颯真くんが、肩をすくめてそう言った。
「ルールが明文化され、それに従えば、誰にも文句を言われずに仕事を進めることができます」
何をすれば承認されるのかが完全に可視化されている分、感情的な理不尽に振り回されるより、ずっと御しやすい。
私の言葉に、颯真くんが衝撃を受けたような顔をする。
「い、いや、そうなんだろうけどよ……まあ、そうだな。静河の言うとおりだな。なら、いいこと、……なんだな?」
腕を組んで唸り始めた彼に、私は苦笑した。
変化は掲示板や、その中身だけでなく、周囲にも起こっていた。
かつて顔なじみの職員たちが立っていたカウンターの奥には、仕立ての良いスーツを着た人間たちが目を光らせている。
雰囲気やその佇まいから、おそらく、どこかの省庁からの出向組だと思われる。
ダンジョンの入口の手前には、空港の保安検査場のようなX線検査機と金属探知ゲートが設置され、制服職員が険しい顔で立っていた。
掲示板に書かれていた、新設された保安部門の職員だろう。
そして、そこへ向かうための申請窓口には、書類の書き方がわからず押し問答を繰り返す探索者たちの長い列ができていた。
私はロビーの隅にある記載台へと向かった。
バックパックを下ろし、中から手帳とペンを取り出す。
協会が用意した申請用紙を手に取った。
私がダンジョンへ持ち込む資材のリストを記入する。
ロープ、カラビナ、サバイバルナイフ。
これらは一般的な装備であり、問題ないだろう。
また、先日、確立することができた手順を行うための、特殊ワイヤーと軽量固定用金具も問題はないだろう。
持ち込みを禁止された化学物質は一切持ってきていないので、今回は何の問題もなく審査を通過できるはずだ。
だが、新体制が発足したばかりということもあり、敏感になっている可能性もある。
前回は問題にならなかった粉チョークや冷却スプレーが、問題として指摘されるかもしれない。
自分が現場に持ち込む製品の成分やスペックは、安全管理の根幹をなす情報であり、選定し、購入した時点で、それらのデータはすべて完全に記憶しているし、相手が何を求めているかは先ほど掲示板を見て理解している。
使用目的の客観的な妥当性。
想定される環境への影響。
使用時の安全対策。
そして、万が一の際の回収と原状回復の手順。
現在、彼らが最も恐れているであろう、不測の事態によるダンジョンの暴走や稼働停止リスクを事前に潰す、かつての『私』が何百枚と書いてきた稟議書で培ってきたノウハウによる書類作成術を駆使し、私は数枚の書類を完成させた。
職員に食ってかかっている探索者たちを横目に、事前審査の窓口へと向かう。
窓口にいた、スーツを着た見慣れない担当者は、私が差し出した書類を面倒そうに受け取った。
他の探索者たち同様、問題だらけの書類が持ち込まれたと、そう考えているのがよくわかる、そんな態度だった。
だが、彼のその視線が書類の項目をなぞるにつれ、その表情に驚きのようなものが滲んでいった。
彼は書類を繰り返し何度も精査した。
数秒間の静寂の後、彼は私の視線に気づくと咳払いをして、あえて事務的な手つきで承認のスタンプを押した。
「……問題ありません」
許可証を私に手渡した。
「ありがとうございます」
私は許可証を受け取り、保安検査場へと向かった。
トレイにバックパックと金属類を置き、ゲートをくぐる。
警告音は鳴らなかった。
制服の保安職員が荷物を確認し、許可証と照合して静かに頷いた。
私はバックパックを背負い直した。
振り返ると、まだ書類と格闘している颯真くんがこちらを見ていた。
「では」
私が告げれば、彼は驚いたような表情をしていたが、やがて呆れたような表情に変わり、
「俺はあと何回、お前に驚かされるんだろうな」
颯真くんのその言葉を背に、私は完全に統制されたゲートの先、ダンジョンへと歩みを進めた。
ダンジョンは、ゲート前の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
新しいルールである書類の手続きで、ほとんどの探索者たちが足止めを食っているためだろう。
だが、その煩雑な手続きというフィルターが、結果として現場のノイズである他者を排除し、私にとっては極めて静かな作業環境を作り出すこととなった。
「……いつもこうならいいのですが」
今は書類に四苦八苦している彼らも、慣れる時が来るだろう。
私は意識を切り替え、足音を殺し、目的のエリアへと向かった。
前方の泥の表面が隆起し、 酸性粘体(アシッドスライム) が姿を現す。
私は確立したばかりの手順を素早く実行に移した。
岩壁にワイヤーを張り渡し、対象の跳躍を受け止め、極限まで引き伸ばされて薄くなった粘液層の奥の核にサバイバルナイフを突き立てる。
対象が光の粒となって霧散し、魔石が落ちる。
ダンジョンが静かである分、いつもよりやりやすかった。
私は予定していた通りの数をこれまでより早く達成し、帰路についた。
夜、宿舎の自室。
机の上には、完成したレバニラ炒めと白米、それに味噌汁があった。
濃い味付けとニラの風味が白米を進ませた。
今日の仕事は、事前の書類審査という手間があったとはいえ、現場に入ってしまえば他者の干渉が完全に排除された、極めて快適で静かなものだった。
だが、この新しい規則の中で安定して利益を出し続けるには、この一時的な成功に甘んじていてはいけない。
それに、問題は帰宅後に発覚した。
現場では使用前も使用後も確認し、何の問題もなかった固定金具が、帰ってきて点検をしている際、劣化していることに気がついた。
変容による影響だろう。
何かしらのガスだろうが、私自身には現時点で影響が出ていないことを考えれば、おそらく人体には無害と考えてもいいはずだ。
とはいえ、油断はできない。
影響を与えたそれらしきものを、私は感知できなかったのだ。
これが人体に有害なガスだった場合、どうなっていたか。
指定エリア以外でも、防毒マスクの着用は必須かもしれない。
……いや、今回、資材に深刻な問題が発生したように、防毒マスクにも何かしらの影響が出るかもしれないことを考えれば——。
「……考えることが山積みですね」
だが、思考は止めない。
私はレバニラ炒めを咀嚼しながら、変容を今も続けるダンジョンと、新しいルールの中で生きていくための段取りを頭の中で組み立て始めた。