作品タイトル不明
第99話:酸に耐える導線と、探索者の名前
中層の湿気を帯びた空気が、肌にまとわりついてくる。
私は岩肌に沿って歩幅を狭め、慎重に足を進めていた。
足裏から伝わる泥のぬかるみ具合、鼻腔を突く微かな酸の臭い。
周囲の環境情報を一つずつ拾い上げ、頭の中で整理していく。
前方の泥の表面が、不自然に隆起した。
気泡が弾ける音とともに、半透明の粘性体が姿を現す。
酸性粘体(アシッドスライム) だ。
私は歩みを止め、息を潜めた。
これまでの私であれば、ここで化学凝固剤のボトルに手を伸ばしていただろう。
だが、あの資材はすでに私の手札から失われている。
私はバックパックのサイドポケットへ手を伸ばした。
ホームセンターで新たに調達してきた、摩擦係数が高く酸に強い特殊なワイヤーと、軽量の固定用金具を取り出す。
対象が体を伸縮させ、こちらへ向けて跳躍の予備動作に入る。
時間は限られている。
私は素早く岩壁の低い位置にある強固な突起を見極め、金具を押し込んでワイヤーの片端を固定した。
もう片端を両手で強く握りしめる。
対象が泥を蹴って跳躍した。
私はその軌道を横切るようにして、反対側へと跳んだ。
着地し、すぐに岩壁に二つ目の金具を素早く咬ませ、こちら側もワイヤーを固定した。
両端が固定され、一本のワイヤーが通路に張り渡された。
迫り来る巨体が、そのワイヤーに激突した。
不快な摩擦音とともに、強酸を帯びた粘液がワイヤーを包み込む。
以前試したロープであれば、ここで白煙を上げて溶け始め、私にコンマ数秒の猶予を与えるだけだった。
だが、今回用意したワイヤーは違う。
強酸に触れても容易には溶断せず、対象が前へ進もうとする強烈な運動エネルギーを、その張力で真っ向から受け止めた。
結果、空中で対象の粘性の高い体組織が限界まで引き伸ばされ、装甲の役割を果たしていた粘液層が極限まで薄くなる。
狙い通りだ。
私は腰からサバイバルナイフを抜き放った。
粘液が薄くなり、透けて見える内部の核に刃を沈める。
対象は光の粒となって霧散した。
魔石が落ちた。
私はナイフの汚れを拭って鞘に戻すと、魔石を拾い上げた。
ライトに照らしてみれば、濁りのない、綺麗な色をしていた。
ダンジョンの変容とルールの変更によって手札を奪われた状態から、自らの仮説と検証によって構築した新たな手順。
それがこの不条理な現場で、完璧に機能した。
それは、変容が始まって以来、初めての確かな前進だった。
胸の奥に、静かな熱が灯るのを感じる。
もちろん、変容に警戒しながら一歩ずつ進む今のやり方では、以前と同じだけの数をこなすことはできない。
稼ぎは減っている。
だが、変容したダンジョンであっても、環境に適した計算と検証を積み重ねていけば、かつての水準を取り戻すことは可能だ。
今日、その手応えを、私は得た。
私は床に落ちたワイヤーを回収し、酸による劣化具合を目視で確認する。
数回の使用には耐えそうだ。
これならば、予備をローテーションさせることで充分に業務を回していけるだろう。
予定していたノルマを達成することができた私は、心地よい疲れを感じながら、地上への帰路についていた。
大竪穴(スパイラル・ピット) へ向かうスロープを登っている途中、前方の角から微かな足音が聞こえてきた。
警戒して歩みを緩めたが、姿を現したのはモンスターではなかった。
桜色の防具を身に纏った、小柄な少女だった。
彼女も私に気づき、わずかに目を丸くした。
すれ違うだけだと思っていたが、彼女は私の横に並ぶと、少し気まずそうに視線をそらしつつも、歩調を合わせて一緒に歩き始めた。
私は前を向いたまま、特に口を開くことはしなかった。
沈黙が続く。
我慢しきれなくなったのか、彼女の方から声をかけてきた。
「……あなたは、なんで探索者になったの?」
唐突な問いだった。
「探索者の、何が面白いの?」
彼女を見れば、その瞳には純粋な疑問が浮かんでいた。
私は少しだけ考えた。
彼女に私の過去を語る必要はない。
だが、彼女は私と同じ現場を生きている。
「……あなたは、なぜ探索者になったのですか」
私は逆に問い返した。
彼女は少し驚いたような顔をしたが、むにむにと口元を動かしてから、ぽつりと言った。
「……ダンジョンが、目についたから」
彼女は視線を足元の岩盤へ落とした。
「なりたいものもないし、夢もない。将来に希望なんて、これっぽっちもなかった。そんな時に、テレビでダンジョンの特集をやってたの。で、探索者になってみようって思っただけ」
英雄に憧れる他の若者たちとは違う、あまりにも拍子抜けするような理由だった。
だが、そこには彼女なりの等身大の真実があるのだろう。
「あたしが答えたんだから、次はあなたの番」
彼女が私を促す。
私は歩幅を変えずに、事実だけを口にした。
「……一人で生きていくためです」
誰かに依存し、搾取される生活から抜け出し、自らの力で立つため。
「誰にも自分の時間を奪われず、自分の責任で、平穏な生活を維持する。そのための手段が、私にとってはダンジョンでした」
私の答えを聞き、彼女は目を丸くしてしばらく私を見つめていた。
やがて、吹き出すように笑い声を上げた。
「なんだ、あたしと似たようなものだね」
彼女の笑顔には、年相応の柔らかさがあった。
「ねえ、それは今でもそうなの?」
「今は……」
彼女に問われ、考えてみた。
「……少し、違うかもしれません」
少女の好奇心に輝く瞳が、私に言葉の続きを促す。
私は微かに口元を緩めて、
「計算と準備でリスクを管理し、今日を生き延びて、明日もまた温かい食事を摂る。それができているという実感が、今の私にとっては面白いのかもしれません」
「自分のことなのに、かもしれないって変なの」
少女は無邪気に笑った。
「でも、案外、そんなものかもしれないね」
スロープの先、外の光が微かに見え始めた頃、彼女がふいに立ち止まった。
私も足を止める。
彼女は真っ直ぐに私を見据え、はっきりとした声で言った。
「 水無川(みながわ) 、 咲良(さくら) 。あたしの名前。家族や友だちからは、咲良って呼ばれてる」
なぜ、今、急に名乗るのか。
彼女は視線を少しだけ落とし、薄暗い足元を見つめた。
「あの日、連行されていったあの人の名前、あたし、知らないんだよね」
スタンピードを引き起こした、あの中堅探索者のことだ。
「同じ場所で、命をかけてたのに。名前も知らないまま、いなくなっちゃった」
彼女は顔を上げ、再び私を見た。
「自分がもし何か失敗して、死んじゃった時。名前も知らない少女のまま、誰かの記憶に残るのは嫌だったから」
それは、この過酷な現場で生きる者としての、彼女なりの覚悟の形なのだろう。
「私は——」
「知ってる。静河でしょ。みんな、言ってるもん」
水無川さんはそういうと、
「あと、もう一つ」
言葉を区切り、はっきりと言った。
「見て盗むのは、諦めた。あなたのやり方はそもそも盗めないし。表面だけ真似しても、中身が違えば死ぬだけだって、この前よくわかったから」
だから、と彼女は胸を張った。
「あたしは、自分なりのやり方を探す。自分の目で見て、考えて、このダンジョンで生きていくための方法を模索する」
他者の真似ではなく、自らの頭で考え、検証を繰り返す。
それこそが、この変容し続けるダンジョンで生き残るための唯一の道だ。
「それがいいと思います」
私が同意すると、水無川さんは少しだけ照れたように笑い、再び歩き出した。
その背中を追いかけるように、私も足を踏み出した。
彼女とはロビーで別れた。
換金を済ませて外に出れば、梅雨明けが近いのだろう。
厚い雨雲は薄れ、鮮やかなオレンジやピンクの夕焼けが広がっていた。
スーパーマーケットに立ち寄って、宿舎の自室へと戻った。
今日使用した特殊なワイヤーを点検し、酸による摩耗の進行度合いを手帳に記録した。
限界を迎える前に交換できるよう、使用回数の目安を設定する。
この仮説が正しければ、明日はもう少し予備のワイヤーと金具を補充しておくべきだろう。
次なる検証に向けた課題を整理し終え、私はキッチンに立った。
今日の夕食は、麻婆豆腐だ。
フライパンで割引されていた豚挽肉を炒め、豆板醤と甜麺醤で香りを出す。
賽の目に切った豆腐を加え、鶏ガラスープで煮込んでいく。
最後に水溶き片栗粉でとろみをつけ、花椒を振った。
炊きたての白米と一緒にテーブルへ。
レンゲで豆腐とひき肉をすくい、白米に乗せて口へ運んだ。
パンチのある辛味の奥に、肉の強い旨味が広がる。
「……美味い」
今日得た確かな前進の手応えが、食事の味をさらに深くしているように感じられた。
それから、数日後。
朝の探索者協会のロビーに足を踏み入れた私は、空気がいつも以上に重く、淀んでいることに気がついた。
掲示板の前に、幾重にも人垣ができている。
私は人々の肩越しに、そこに張り出された新しい通達を見た。
『ダンジョン特別管理法の施行および、探索者活動の国家管理体制への移行について』
瀬能氏から聞いていた話が、ついに現実のものとなったのだ。