作品タイトル不明
第45話 王妃の肖像の紙幣
玉座の間に、貴族が集まっていた。
毎日、貴族が王宮に集まり、国政の議論をするわけではない。
王都に屋敷を構えている者もいれば、領地へ戻っている者もいる。
特に地方を治める諸侯は、王都に常に詰めているわけではない。
重大な案件の時に、王が招集をかける。
あるいは、貴族側から招集の要請が出る。
今日の王前会議は、エーレンフェルト公爵からの要請で開かれた。
先王の正妃の実家。
第一王子の後ろ盾。
そして、レオンハルト様にとって、最も厄介な政敵の一つ。
エーレンフェルト公爵は、若い王を弾劾するつもりなのだろう。
王が民の前で語るなど、王家の威信を損なう。
王妃が民の前に顔を出すなど、前例がない。
そのうえ、あの宣言には王と民しかいなかった。
貴族たちは気づいている。
私たちが民の前で述べた言葉に、貴族がいなかったことを。
王冠は王に。
国は民に。
そこに、貴族の名はなかった。
だから、彼らは集まった。
レオンハルト様に圧力をかけるために。
レオンハルト様の罠にかかったことも知らずに。
あえて、宣言の中から貴族の言葉を抜いた。
貴族たちがどう動くかを見るために。
自分から集めれば警戒される。
けれど、相手から集まってくるなら話は別だ。
本当に、人を動かすのが上手い。
恐ろしいぐらいに。
レオンハルト様は、争いで物事を解決するのは下策だと言っている。
争いで解決できても、恨みを根深くさせるだけだ。
その根が、いつか国を分ける元になる。
それを避けるには、戦う前に、相手に勝てないと思わせればよい。
名声でも。
資金力でも。
軍事力でも。
それまでは、愚か者だと、卑怯だと思われてもよい。
そのように振る舞うだけで、相手は油断する。
本当に、厄介で、怖い人だ。
*
玉座の間へ入る時、レオンハルト様は当然のように私をエスコートした。
貴族たちの間に、ざわめきが走る。
なぜ、王妃が政治の場にいるのか。
なぜ、王の横に座るのか。
なぜ、後宮で控えていないのか。
声に出さずとも、視線だけで十分に分かった。
私は背筋を伸ばした。
ここで目を伏せれば、負けだ。
私は王妃だ。
レオンハルト様の隣に立つと、神と国と民の前で誓った。
ならば、ここにも座る。
レオンハルト様は玉座に腰を下ろす前に、貴族たちを見渡した。
それから、少し困ったように笑った。
「今後、国の会議には、できれば私の最愛の王妃もそばに置かせてもらいたい」
玉座の間が、静まり返った。
レオンハルト様は、肩をすくめる。
「いや、分かっている。王妃を政治の場に出すなど前例がない、と言いたい者もいるだろう」
そこで、私の方を見た。
とても甘い目だった。
「だが、私は王妃とひと時も離れたくないのだ。どうか、若い王のわがままだと思って許してくれ」
私は、扇の陰で息を止めた。
この方は。
本当に、この方は。
いくつの顔を持っているのだろう。
貴族たちの顔に、困惑と呆れが広がっていく。
若い王が、王妃に溺れている。
諸侯の顔色をうかがいながら、わがままを通そうとしている。
そう見えるだろう。
けれど違う。
レオンハルト様は、わざとそう見せている。
すべて芝居だ。
王妃を大事にするだけの愚かな王を演じている。
でも、私の心臓には色々な意味で悪い。
「それで、諸侯たちは何の話で集まったのかな」
話題をそらした。
人を煙に巻くのが上手い。
エーレンフェルト公爵の顔が引き締まった。
年を重ねても背筋の伸びた、重々しい男だった。
銀に近い髪を後ろへなでつけ、深い色の礼服を身にまとっている。
声は低く、よく通った。
「王妃陛下を民衆の前に立たせる。陛下は、それがこのルーベル王国の威信を損なう行いとは思われませんか」
エーレンフェルト公爵の率いる貴族たちが、同調する声をあげた。
レオンハルト様は、困ったように笑った。
「エーレンフェルト公爵、そう怒るな。そなたと私の仲ではないか」
エーレンフェルト公爵は、苦虫を噛みつぶしたような顔になった。
そなたと私の仲。
そんな関係ではない。
けれど、王からそう言われては、正面から否定もしにくい。
その一言で、率いてきた貴族たちの声が収まった。
レオンハルト様は、相手に反論の間を与えずに話し出した。
「民の前で語ったのは、民に希望を持たせるためだ」
レオンハルト様は、少し照れたように笑う。
「私の愛しい王妃は、民の間で女神と呼ばれていると聞いている。まあ、私としては当然だと思うが」
視線が私に集まった。
やめてほしい。
本当にやめてほしい。
私は扇で口元を隠し、何も動じていない顔を作った。
「民が希望を持てば、民は働く。民が働けば物が動く。物が動けば金も動く。先の通商会議も、ありがたいことに悪くない成果を上げた」
レオンハルト様は、諸侯の顔色をうかがうように続ける。
「今、物流は少しずつ増えている。そなたたちの領地も、多少は潤っているのではないかな。いや、そうであってくれれば、私としても嬉しいのだが」
そこで、レオンハルト様の味方である数少ない貴族の一人が進み出た。
「陛下のお考えは、私たち貴族に富をもたらし、国の安定のためになっております」
別の貴族も続いた。
「陛下と王妃陛下のお言葉で、王都はかつてなく賑わっております」
「そして、その波は地方にも広まりつつあると聞いております」
レオンハルト様は、子どものように喜んだ。
「そうか、そうか。それはよかった。諸侯が潤い、しっかりと領地を守ってくれれば、私は最愛の王妃との時間が取れる」
貴族たちの間に、かすかな笑いが広がった。
「私は、この国を支えているそなたたちのことを一番に考えて動いているのだ。私が頼れるのは、諸侯しかないのだから」
レオンハルト様は、そこで私を見た。
また、甘い目だった。
「それとも、王妃の前で私を情けない王にしたいのかな?」
私は、扇の陰で息を整えた。
情けない王。
今のレオンハルト様は、十分にそう見える。
諸侯に気を遣い、王妃に溺れ、嫌われたくないと笑う若い王。
公爵が連れてきたはずの貴族たちは、レオンハルト様の言葉に耳を傾け始めている。
「だから、あまり怒らないでほしい。私は、そなたたちに嫌われたいわけではないのだ」
玉座の間の空気が、わずかに緩んだ。
貴族たちが、互いに視線を交わす。
この王は、我らを軽んじていない。
むしろ、こちらに気を遣っている。
若い。
王妃に溺れている。
危険な王ではない。
反対派の多くが、そう思い始めていた。
レオンハルト様は、軽く両手を広げた。
「それよりも、もっとそなたたちが潤う話を考えてみたのだ。遠方から来ている者もいるのだろう。せっかく集まったのだ。私を叱るだけで帰るのは、少しもったいないではないか」
エーレンフェルト公爵は、しばらく何も言わなかった。
その沈黙が、彼の不快を何よりはっきり示していた。
けれど、他の貴族たちの表情には興味が浮かんでいる。
潤う話。
それは、貴族たちにとって無視できない言葉だった。
「気に入ってもらえるかは分からないが」
レオンハルト様は、わざとらしいほど控えめに笑った。
「私は、よいことを思いついた」
そして、楽しげに言った。
「私の顔と、王妃の顔を入れた紙幣を発行する」
一瞬、誰も反応しなかった。
紙幣。
聞き慣れない言葉に、玉座の間が戸惑いに包まれる。
一人の伯爵が、おずおずと口を開いた。
「陛下。紙幣とは、何でございましょうか」
「借用書や小切手に近いものだ」
レオンハルト様は、すぐに答えた。
「まずは、高額の取引に使う金貨を、少しずつ紙幣に置き換えていきたい。重い金貨を運ばずとも、大きな商いができるようにするのだ」
貴族たちは顔を見合わせた。
そういうものなのかと、少しずつ納得しているようだった。
レオンハルト様は、そこで少し照れたように私を見た。
「何より、私の愛しい王妃の顔が入るのだ。民はすぐにでも手に入れたがるだろう」
また視線が私に集まった。
やめてほしい。
本当にやめてほしい。
私は扇の陰で、静かに息を整えた。
エーレンフェルト公爵が、静かに口を開いた。
「陛下。その紙幣の責任は、どこが持つのでございますか」
さすがだと思った。
公爵は、ただ怒るだけの人ではない。
この話の危うさに気づいている。
レオンハルト様は、少し慌てたように笑った。
「もちろん、そなたたちに負担を押しつけるつもりはない。そこは安心してくれ」
そして、へりくだるように笑う。
「責任は、私が持とう。王妃を愛する私のわがままで、諸侯に迷惑をかけるわけにはいかない」
玉座の間が揺れた。
「王家が責任を持つ。紙幣を持って換金所へ行けば、金貨にも銀貨にも交換できるようにする」
「銀貨にも、でございますか」
「そうだ。大きな取引には金貨を選べばよい。細かな支払いが必要なら銀貨に崩せる。使う者が困らぬようにしたいのだ」
レオンハルト様は、少しだけ頼りなさそうに笑った。
「もちろん、私の考えが甘いところもあるかもしれない。その時は、諸侯の知恵も借りたい」
私は、黙って聞いていた。
換金所。
最初は、紙幣を金貨や銀貨に替える場所。
けれど、ゆくゆくはそれだけでは終わらない。
いずれは、金を預かり、必要な者へ貸し、商いを動かす場所になる。
そして、レオンハルト様は改革のための資金をそこから集めたいのだ。
「換金所は、王都、港町、大きな街道の分岐に置くつもりだ。最初は限られた場所でよい。いきなり広げて、そなたたちに迷惑をかけても困るからな」
貴族たちが、また互いに顔を見合わせた。
自分の領地に置けるのか。
港を持つ家は有利になるのか。
街道沿いの町は栄えるのか。
そんな計算が、視線だけで交わされている。
「金貨を作らずとも商売が成立すれば、商いが活発になる。そなたたちの領地も潤う」
レオンハルト様は、少し控えめに笑った。
「金貨を増やすために、金や銀をかき集める必要も薄くなる。諸侯に求めている負担も、いくらか軽くできるだろう」
その言葉に、貴族たちの目の色が変わった。
私たちの負担が減る。
領地が潤う。
それは、彼らにとって分かりやすい利益だった。
「失敗しても、そなたたちには何も損はない。責任は王家が持つ。成功すれば、諸侯は潤う」
レオンハルト様は、少し情けないほど人のよい顔で笑った。
「私が諸侯をいかに大切にしているか、分かってくれるかな」
玉座の間に、低いざわめきが広がった。
先ほどまでのざわめきとは違う。
怒りではない。
計算だ。
自分の領地に換金所が置かれれば、人が集まる。
商人が来る。
宿が潤う。
倉庫が必要になる。
街道が使われる。
貴族たちが、それぞれの利を考え始めている。
エーレンフェルト公爵は、それを見ていた。
若い王を責めるために集めた貴族たちが、今は王の差し出す利を見ている。
公爵が剣にしようとした者たちは、その剣先を下ろし始めている。
レオンハルト様は、まだ何も奪っていない。
ただ、与えると言っただけだ。
信用を与える。
感謝を与える。
利益を与える。
そして、その裏で、国の金の流れを王家の手元へ引き寄せようとしている。
「陛下」
公爵の声は、先ほどよりも少し重くなっていた。
「紙の札に、民がそこまでの信用を置くとは限りませぬ」
「そうだな。今、作らせている紙幣がある。皆も見てくれ」
役人たちが、作成中の紙幣を諸侯に配った。
レオンハルト様は、嬉しそうに私を見た。
「私の最愛の王妃の顔は美しいだろう」
銅版で精巧に刷られた私の横顔と、陛下の横顔が、青いインクで押されている。
裏には通し番号と、紙幣用の複雑な刻印があった。
その精巧さに、玉座の間が静かにざわめいた。
「特殊な、破れにくい厚手の紙を使っている。インクも、王妃の気品が出るように特別なものを選ばせた」
「これは、民も手に入れたがるだろう。私の自信作だ」
レオンハルト様は、私に向かって笑った。
「王妃、気に入ってくれたかな」
私は扇の陰で、一度だけ息を整えた。
「はい。とても……陛下のお気持ちは、よく伝わりました」
「もちろんだ。王妃を生涯愛すると誓ったのだから」
ずるい。
本当にずるい。
私たちが惚気のために紙幣を作ったような雰囲気に変えようとしている。
エーレンフェルト公爵は黙っていた。
口元だけは穏やかに保っている。
けれど、その沈黙は、先ほどまでよりもずっと重かった。
彼は気づいているのだろう。
この紙幣が成功すれば、王家は金の信用を握る。
換金所が増えれば、商いの流れも見える。
商人は王家の紙を使い、民は王家の印を信じるようになる。
けれど、今この場で強く反対すればどうなるか。
諸侯の利益を邪魔する者に見える。
商いの発展を妨げる者に見える。
王が差し出した負担のない儲け話を、自分の都合で潰す者に見える。
さらに、貴族たちは油断する。
愚かな王だ。
王妃に溺れ、諸侯に媚びる若い王だ。
いざとなれば、退けることもできる王だと、思い込む。
「諸侯には、ここまで来てもらって感謝している」
レオンハルト様は、穏やかに告げた。
「反対の意見もなさそうなので、今日は閉会としよう」
そして、私の方へ手を差し出す。
「私と王妃の紙幣でこの国が潤い、諸侯も潤うことを願っている」
そう言うと立ち上がり、私をエスコートして退場した。
諸侯たちは呆然としていた。
けれど、その顔には、怒りよりも欲が浮かんでいた。
また儲かるかもしれない。
そう思わせた時点で、この会議はもう、エーレンフェルト公爵のものではなかった。