作品タイトル不明
第46話 魔法の紙
二人の部屋に戻って来ると、私はいろいろな意味で疲れていた。
玉座の間では、ずっと背筋を伸ばしていた。
王妃として、貴族たちの前で少しも怯えていない顔を作っていた。
けれど、部屋に戻った途端、肩の力が抜けた。
あれは、戦場だった。
剣も槍もない。
血も流れていない。
けれど、間違いなく戦場だった。
それなのに、レオンハルト様は涼しげな顔をしている。
あれだけのことをしておいて、疲れた様子もない。
むしろ、どこか楽しそうですらあった。
私は、確認のために尋ねた。
「陛下。この会議は成功したのですか」
レオンハルト様は、嬉しそうに笑った。
「大成功だ」
迷いのない声だった。
「貴族たちは、私は敵ではないと考えただろう」
「そして、王妃に溺れる無能な王だと」
レオンハルト様は、あっさりとうなずいた。
「エーレンフェルト公爵の顔を見たか。奴が私に対して放てた矢は一つだけだった」
「王家の威信が傷つく、という話ですね」
「ああ」
レオンハルト様は、楽しそうに笑う。
「だが、人の本音は威信よりも富だ。威信とは、富を得るために使われる言葉でもある」
私は黙って聞いた。
「実際の利があれば、人は流される。王家の威信がどうのと言っていた者たちも、紙幣と換金所の話を聞けば、自分の領地が潤うかどうかを考え始める」
その通りだった。
怒りではない。
計算。
玉座の間に広がったあのざわめきは、まさにそれだった。
「エーレンフェルト公爵は、私を弾劾するために貴族たちを連れてきた。だが、連れてきた貴族たちは、私を味方だと考え始めた」
レオンハルト様は、窓の外へ視線を向けた。
「奴は、仲間まで失った」
その声は軽かった。
けれど、言っていることは恐ろしい。
エーレンフェルト公爵は、レオンハルト様を追い詰めるために会議を開かせた。
けれど、その会議そのものを、レオンハルト様に利用された。
貴族たちは、若い王を責めるために集まったはずだった。
けれど帰る頃には、王が差し出した利益の話を考えていた。
「ですが」
私は口を開いた。
「貴族にも富を与えることになります。貴族たちを、強くしてしまうのではありませんか」
レオンハルト様は、私を見た。
その目は、さっきまでの軽い王とは違っていた。
「私は、ルーベル王国を壊したいのではない」
静かな声だった。
「この国は、私の祖先が作った。貴族の祖先も、民の祖先も、血を流して作ってきた国だ」
私は息を呑んだ。
「国を乱し、壊してしまえば、アステリア連合国に隙を突かれる」
レオンハルト様は、自分の手を見下ろした。
「今のままだと、ルーベル王国は衰退して滅ぶだろう。国を一つにまとめなければ、外の脅威には勝てない」
「外の脅威」
「そうだ。まだ先は長い。暗闇を手探りで歩いている状態だ」
レオンハルト様は、少しだけ笑った。
「私にも、すべてが見えているわけではない」
そう言う顔は、玉座の間で見せた小者の顔ではなかった。
強い王の顔でもない。
遠くを見ながら、それでも歩こうとする人の顔だった。
私は別のことを尋ねた。
「紙幣とは、秘密基地で考えられたものなのですか」
「いや」
レオンハルト様は首を振った。
「元は、東にある大きな大陸からの情報だ」
「東の大陸」
「王妃も知っているように、ルーベル王国が制覇した大陸は、周りは海に囲まれている」
「はい」
「西には、アステリア連合国の大陸がある。連合国は十四の国で構成されている」
そこまでは、私も知っている。
旅でアステリア王国へ行き、リュミエール国へ向かった。
あの大陸は、いくつもの国が連なっている。
「そして東には、この大陸の何倍もある、広い大陸がある」
レオンハルト様は言った。
「しかし、とても遠い。今の船では、運よく到達して帰って来るだけでも数か月はかかる」
「数か月も」
「ああ。しかも、半分以上の船は帰ってこない」
私は言葉を失った。
「未知の大陸だ。ただ、争いが多いということは、技術の進歩も早くなる」
レオンハルト様の声が、少しだけ低くなった。
「今後、この国にとって最も大きな脅威となるかもしれない」
遠い大陸。
まだ多くの者が知らない場所。
けれど、そこにも国があり、人がいて、争いがある。
そして技術がある。
「その大陸のある国からの情報に、紙幣という考え方があった」
「その国では、すでに紙幣が使われているのですか」
「使われているらしい。しかも、その国は王政ではない。民が指導者を選ぶ仕組みの国だ」
私は驚いた。
民が指導者を選ぶ。
以前、レオンハルト様が話していた国だ。
「秘密基地で、紙幣の効果と運用の仕方を検討した。これは画期的な考え方だ」
レオンハルト様は、少し楽しそうだった。
「ただの紙がお金に変わる」
「ただの紙が、お金に」
「ああ。ただの紙でも、王家が責任を持ち、いつでも金貨や銀貨に替えられると分かれば、金と同じ価値を持つようになる」
私は、その言葉を頭の中で繰り返した。
ただの紙。
王家の責任。
金と同じ価値。
「最初は、皆、換金所で金貨や銀貨に交換するだろう」
レオンハルト様は続けた。
「紙など信用できない。そう思う者も多いはずだ。だから、換金所で実際に金貨や銀貨に替えられることを見せる必要がある」
「信用を育てるためですね」
「そうだ。だが、やがて交換する意味そのものが薄れていく」
「なぜですか」
「紙幣が金貨と同じ価値を持つと、人々が理解するからだ」
レオンハルト様は、指先で机を軽く叩いた。
「金貨そのものが欲しいのではない。人が欲しいのは、金貨で得られる物だ。紙幣で同じ物が得られると分かれば、重い金貨をわざわざ持ち歩く意味は薄れる」
私は、ゆっくりとうなずいた。
商人なら、すぐに分かるかもしれない。
大きな取引に金貨を運ぶのは危険だ。
重い。
盗賊に狙われる。
護衛も必要になる。
紙幣なら、持ち運びやすい。
必要なら換金所で金貨にも銀貨にも替えられる。
それは、商いを大きく変える。
「この仕組みも、話し出すと長くなる」
レオンハルト様は笑った。
「今は、魔法の紙と考えればよい」
「魔法の紙」
私は思わず繰り返した。
魔法でもないのに、ただの紙が金になる。
けれど、魔法よりも厄介かもしれない。
魔法なら、力のある者にしか扱えない。
けれど紙幣は、信じた者すべてを巻き込む。
「これが成功すれば」
私は、ふと思ったことを口にした。
「大貴族も、自分の領地で同じようなものを作るのではありませんか」
「作るだろうな」
レオンハルト様は、当然のように言った。
「それも狙いだ」
私は言葉を失った。
「狙い、ですか」
「ああ」
レオンハルト様は、まるで簡単な話でもするように続けた。
「王家の紙幣が成功すれば、真似をしたがる大貴族が出る。自分の領地でも同じように紙を出せば、富が増えると思うだろう」
「でも、それは」
「危うい」
レオンハルト様は、私の言葉を引き取った。
「紙幣は、ただ紙を刷ればよいものではない。交換できる金貨や銀貨を用意し、信用を守り、出す量を制御しなければならない」
私は、背筋が冷えるのを感じた。
「何の考えもなく大量に作れば、どうなると思う」
「紙幣を持つ人が増えると、いつかは金貨や銀貨に替えられなくなる」
「そうだ」
レオンハルト様は、満足そうにうなずいた。
「領主の手元に十分な金銀がなければ、換金できない。換金できないと分かれば、紙幣はただの紙になる」
ただの紙。
さっきまで金と同じ価値だったものが、一瞬でただの紙になる。
「その時、民も商人も怒るだろう。貨幣に替えろ。約束を守れ。そう言い出す」
私は喉が渇いた。
「領地は混乱します」
「そうなると、私に泣きついてくるしかなくなる」
レオンハルト様は、当然のように言った。
「助ける代わりに、身内が暮らせるだけの狭い領地を与えればよい」
「狭い領地」
「命は取らない。家名も残す。だが、国を揺らすほどの力は削る」
レオンハルト様の声は穏やかだった。
この方は、ただ敵を潰す方法を考えているのではない。
この国に戦乱を起こさず、恨みも最小限に抑える方法を考えているのだ。
「厄介な大貴族は、国を壊さずに退けられる」
本当によく考えている。
「相手が受け入れなければ?」
ようやく、それだけを尋ねた。
「その時は、私とその領地の民とで奪うしかなくなる」
レオンハルト様は、淡々と言った。
「だが、勝てない戦はしないだろう」
確かにそうだ。
紙幣の失敗で、民と商人を怒らせた領主が、王と民を相手に戦えるはずがない。
レオンハルト様の考えに、隙はない。
本当に厄介で、恐ろしい人だ。
けれど、私が引っかかったのは、そこではなかった。
紙幣の策も。
大貴族を自滅させる考えも。
換金所を将来の力に変える構想も。
怖い。
けれど、分かる。
国を変えるには、綺麗な言葉だけでは進まない。
敵を見極め、味方を作り、利を与え、時には罠を張る必要がある。
それは分かる。
でも。
私は、私たちの愛まで計画に入れられているのが嫌だった。
レオンハルト様が一息つくようにお茶を飲み、カップを置くまで待った。
その音が、やけに大きく聞こえた。
「陛下」
「どうした、王妃」
レオンハルト様は、穏やかに私を見た。
私は膝の上で手を握った。
「私は、陛下に言いたいことがあります」
レオンハルト様の顔が、わずかに強張った。
「どうした」
「私を愛していることを、計画に入れられるのは嫌です」
言った瞬間、部屋の空気が止まった気がした。
レオンハルト様の表情が変わった。
苦しそうな顔だった。
「なぜだ」
その声は、かすれていた。
レオンハルト様は、胸を押さえた。
私は一瞬、演技だと思った。
そんな顔をして、私をかわそうとしているのかと。
でも違う。
これは演技ではない。
本当に苦しんでいる。
「レオンハルト様?」
レオンハルト様の体が傾いた。
椅子が音を立てた。
そのまま、レオンハルト様が倒れた。
私は、震えて声も出せなかった。
だめだ。
助けを呼ばないと。
「だれか!」
声が裏返った。
「だれか、いないのですか!」
扉の外にいた者が駆け込んでくる。
私は、倒れたレオンハルト様に駆け寄った。
「陛下が……陛下が倒れました!」
自分の声が、自分のものではないみたいだった。
私はレオンハルト様の顔を見た。
青白い。
唇の色も悪い。
「エレノア……大丈夫だ」
レオンハルト様が、かすかに言った。
大丈夫なわけがない。
こんな顔で。
こんな声で。
大丈夫なはずがない。
私の言葉で傷ついたのではない。
これは違う。
これは、何かが起きている。
「医者を!」
誰かが叫んだ。
「すぐに医者を呼べ!」
「王宮の出入りを止めろ!」
「陛下がお倒れになった! 誰も外へ出すな!」
王宮の中が、一瞬で騒然となった。
レオンハルト様が信頼して配置していた人たちが、慌ただしく動き始める。
扉が閉められる。
廊下を走る足音が響く。
誰かが衛兵に命じている。
侍女が悲鳴を飲み込んでいる。
私は、レオンハルト様の手を握った。
冷たい。
嫌だ。
こんなのは嫌だ。
「レオンハルト様」
声が震えた。
「レオンハルト様、しっかりしてください」
返事はない。
私はただ、レオンハルト様の名を呼ぶことしかできなかった。
さっきまで、あれほど念密な策を語っていた人が。
玉座の間で、貴族たちを手のひらの上で動かしていた人が。
今は、私の目の前で力を失っている。
「レオンハルト様……」
涙がこぼれた。
私は、泣くしかできなかった。