作品タイトル不明
第42話 夫婦の朝
私は、夜明け前に、はっと目を覚ました。
すぐには、自分がどこにいるのか分からなかった。
天蓋。
柔らかな寝具。
薄い朝の気配。
そして、すぐそばにある温もり。
素肌と素肌が触れ合っている感覚がした。
その瞬間、レオンハルト様の腕が伸びてきた。
私は、そのまま抱き寄せられてしまった。
眠っているはずなのに。
離す気はないらしい。
静かな寝息。
力強い鼓動。
肌に触れる温もり。
殿方の胸に抱かれて眠ることが、こんなに安心できるものだとは思わなかった。
心地よい。
この胸で、ずっと眠っていたい。
そう思ってしまった。
いつも民の前で堂々と声を響かせる人が、今はすぐ近くで眠っている。
不思議だった。
そして私は、また眠ってしまった。
次に目を開けると、朝日が部屋に差し込んでいた。
薄い金色の光が、天蓋の布を淡く照らしている。
私は、ゆっくりまばたきをした。
すると、ベッドの縁でレオンハルト様が私を見ていた。
寝顔を見られていた。
ずるい。
私の方が早く起きたはずなのに。
いつの間に起きていたのだろう。
私は慌てて布団を顔にかけようとした。
けれど、すぐに止められた。
「隠さないでくれ」
「見ないでください」
「無理だ」
「なぜですか」
「私のお姫様が、あまりに可愛いからだ」
お姫様。
その言葉に、顔が熱くなった。
「私は、もう王妃です」
「知っている」
レオンハルト様は笑った。
「だが、私にとっては、お姫様でもある」
そんなことを言いながら、顔が近づいてくる。
逃げられなかった。
いや。
逃げたくなかった。
ようやくレオンハルト様の顔が離れた時、私は息をするのを忘れていたことに気づいた。
その直後。
私のお腹が鳴った。
かなり、はっきりと。
「……」
「……」
う。
恥ずかしい。
考えてみれば、昨日はほとんど何も食べていない。
大聖堂で式を挙げ、馬車に立ち、民の前で演説をして、王宮に戻って、それから。
それからのことは、あまり思い出さないことにした。
とにかく、食べていないのだ。
レオンハルト様は、何もなかったような顔をした。
「朝食にしよう」
その気遣いが、かえって恥ずかしい。
私は起き上がろうとした。
その時、自分が何もまとっていないことに気づいてしまった。
顔が一気に熱くなる。
私は慌てて布団に潜り込んだ。
「見ないでください」
「見ていない」
絶対に見ている声だった。
私は布団の中で、何とか寝間着を着た。
レオンハルト様は、その様子まで嬉しそうに見ていた。
恥ずかしい。
ずるい。
でも私は、平気な顔を保った。
たぶん。
レオンハルト様に、また抱き上げられた。
まただ。
また、抱き上げられている。
「歩けます」
「知っている」
「では、下ろしてください」
「私たちしかいない」
そう言われても、恥ずかしいものは恥ずかしい。
けれど、抵抗できなかった。
朝食は、隣の部屋に用意されていた。
ようやく私を下ろして、席に座らせてくれる。
白い布のかかった小さな食卓。
温かいパン。
柔らかく煮た卵。
香りのよいスープ。
果物。
甘い蜂蜜。
どれも、私の好きなものだった。
私はいつものように食べてしまった。
お腹がすいていたのだ。
しかたない。
レオンハルト様の口元が、少しだけ笑っている。
「……何か」
「いや」
「笑っていませんか」
「笑っていない」
嘘だ。
絶対に笑っている。
「昨日は、ほとんど食べていなかったのです」
「分かっている」
「なら、見ないでください」
「無理だ」
また、それだ。
私は返す言葉に困り、もう一口スープを飲んだ。
悔しいけれど、おいしい。
食べ終える頃には、ようやく体の中に力が戻ってきた。
空腹とは恐ろしい。
昨日まで王妃として式を受け、民の前で言葉を述べ、陛下の隣に立っていたのに。
今朝の私は、ただ朝食に救われている。
でも、それも悪くないと思った。
レオンハルト様は、食後のお茶を飲みながら、私を見た。
「今日は、公務を入れていない」
私は瞬きをした。
「入れていないのですか」
「ああ」
「王になったばかりなのに、よろしいのですか」
「今日くらいはよい」
レオンハルト様は、当然のように言った。
「今日は、君と過ごす日だ」
胸が跳ねた。
私は、持っていた茶器を落としそうになった。
「私と、ですか」
「他に誰がいる」
「でも、陛下はお忙しいのでは」
「忙しい」
「では」
「だからこそ、時間を取った」
レオンハルト様は静かに言った。
「王になった。夫にもなった。王としての務めもあるが、夫としての務めもある」
夫。
その言葉に、また顔が熱くなる。
「まずは、この部屋を見よう」
「この部屋を?」
「君はまだ、ここをほとんど見ていないだろう」
言われてみれば、そうだった。
昨夜は何も考えられなかった。
今朝も、起きたと思えば布団に潜ったり、朝食を急いで食べたりしていた。
私はまだ、この部屋をちゃんと見ていない。
レオンハルト様と、これから共に過ごす部屋を。
私は立ち上がり、部屋を見渡した。
寝室は広かった。
大きな天蓋付きの寝台。
淡い金の布。
深い緑の刺繍。
厚い絨毯。
花や鳥の模様が織り込まれた壁掛け。
金の縁取りがされた背の高い鏡。
隣には、衣装部屋がある。
さらに奥には、湯浴みのための部屋。
そして、寝室の反対側には小さな居間が続いていた。
小さな、と言っても伯爵家の客間よりずっと広い。
寝室の奥には、バルコニーへ続く扉があった。
レオンハルト様がその扉を開ける。
朝の風が入り込んできた。
私は外へ出た。
バルコニーには、花が飾られていた。
白い花。
淡い黄色の花。
小さな青い花。
風に揺れる花のそばには、小鳥たちが集まる餌箱もある。
そこに、つがいらしい緑色の小鳥がいた。
二羽で身を寄せ合って、仲良く餌を食べている。
かわいい。
仲が良いのね。
私たちみたい。
素直に、そう思えた。
思ってから、少しだけ顔が熱くなる。
昨日までなら、きっとそんなことは考えなかった。
レオンハルト様は、怖くて厄介で、腹が立つほど正しい人だった。
けれど今は、その厄介さも含めて、そばにいたいと思っている。
「気に入ったか」
レオンハルト様が聞いた。
「はい」
私は素直にうなずいた。
「とても」
バルコニーからは、セレナ川の流れがよく見えた。
朝の光を受けて、水面がきらきらと光っている。
あの川を見て、私は旅に出た。
そして今、王妃として戻ってきた。
レオンハルト様は、私の手を取った。
指には、昨日交わした指輪がある。
朝の光を受けて、小さく光った。
「ここから、君とこの国を見ることができる」
レオンハルト様が言った。
「この部屋から、ですか」
私は川を見つめた。
部屋の中には、豪華なものがたくさんあった。
でも、ここからの景色が一番美しいと思った。
セレナ川。
風。
花。
小鳥。
そして、隣にいるレオンハルト様。
それだけで、十分すぎるほどだった。
「陛下」
「何かな」
「私は、この部屋を気に入りました」
「それはよかった」
レオンハルト様が、私の髪に触れた。
「今日は、君と話したいことがたくさんある」
「私もです」
私は小鳥たちを見た。
つがいの小鳥は、餌を食べ終えたのか、二羽並んで羽を休めている。
本当に、仲が良い。
私たちも、そうなれるだろうか。
なれる気がした。
少なくとも、そうなりたいと思った。
私はレオンハルト様の手を、少しだけ握り返した。
「今日は、何から話しますか」
レオンハルト様は、少し考えた。
「まずは、君がこの部屋で何をしたいかから聞こう」
「この部屋で?」
「ああ。ここは、私たちの部屋だからな」
私たちの部屋。
『二人の愛の巣』と私は名付けた。
いい響きだ。
気に入った。
私は口元が緩みそうになるのをこらえた。
「では、本棚がほしいです」
レオンハルト様が一瞬黙った。
それから、楽しそうに笑った。
「君らしい」
「それから、地図も」
「すでに用意してある」
「では、机の横に置ける小さな棚も」
「用意させよう」
「あと、花と小鳥の餌箱は、このままがいいです」
「君が気に入ると思った」
私はレオンハルト様を見た。
「全部、分かっていたのですか」
「全部ではない」
「では、どこまでですか」
「君がこの部屋で、ただ飾られているだけでは満足しないだろうということまでは」
私は何も言えなくなった。
その通りだった。
私は、この部屋で綺麗な服を着て、ただ待っているだけの王妃にはなれない。
本を読みたい。
地図を見たい。
書きたい。
考えたい。
そして、レオンハルト様の隣に立ちたい。
レオンハルト様と結婚してよかった。
心から、そう思えた。
甘い言葉だけではなく。
綺麗な贈り物だけでもなく。
同じ未来を見ようとしてくれる人。
あ。
仕返しを忘れている。
そういえば、いつか仕返ししてやると決めていた。
けれど今は、なんだかその気も失せてしまった。
私の心は、幸せで満ちていた。