作品タイトル不明
第41話 陛下の急用
やっと王宮に着いた。
私の心臓は、何とか耐えきった。
たぶん、レオンハルト様には気づかれていないと思う。
そう、信じたい。
レオンハルト様は、疲れた様子など少しもなかった。
私は四回目の演説では、声が上ずり、少しかすれていた。
それなのに、レオンハルト様は最後まで力強い声で、民衆に気持ちを伝えていた。
本当に、どういう体力をしているのだろう。
馬車が王宮の前に着くと、すぐに側近の一人が慌てたような様子で近づいてきた。
その姿を見ると、レオンハルト様は私に短く告げた。
「私は執務室に行く。君は休め」
それだけ言うと、私を残して行ってしまった。
忙しいのは分かる。
王になったばかりで、今日あれだけの言葉を民の前で宣言したのだ。
すぐに処理しなければならないことがあるのだろう。
分かる。
分かるのだけれど。
花嫁を一人残していくものなのだろうか。
どうも、レオンハルト様は、そのあたりの気遣いは苦手なのかもしれない。
そう考えて、ふと気づいた。
私は、レオンハルト様のことをどれだけ知っているのだろう。
政治の話。
国の話。
貴族社会の話。
商人や関税や制度の話。
そういう話は、たくさんした。
けれど、お互いのことをゆっくり話した記憶は、ほとんどない。
あれ。
私は、どこでレオンハルト様を好きになったのだろう。
改めて考えても、よく分からない。
強引で。
厄介で。
人の心まで計画に入れて。
腹が立つほど正しくて。
なのに、いつの間にか好きになっていた。
あれ。
なんで。
でも、今でも胸の高鳴りは収まらない。
レオンハルト様が馬車の上で片膝をつき、私を見上げた時の目を思い出すだけで、顔が熱くなる。
そんなことを考えていたら、私はいつの間にか、薔薇の花を浮かべた湯船につかっていた。
いい香りがする。
いつもより、ずっと良い匂いがする。
侍女たちの気合いも、明らかに入っていた。
それに、うっすら笑っている。
あ。
今日は、新婚初夜だ。
胸が跳ねた。
急に緊張してきた。
まずい。
どうしよう。
母からは、殿方に任せていればよいのよ、と言われていた。
けれど、何をどう任せればよいのだろう。
侍女に聞こうかと思った。
でも、恥ずかしくて聞けない。
困った。
もっと母に詳しく聞いておけばよかった。
でも、聞くのが怖かったのだ。
リリアは、母にそういうことを詳しく聞いていた。
私は、本を読む方がよいと思っていた。
私の悪い癖だ。
一番大事なところが抜け落ちている。
考えても無駄だ。
たぶん、何とかなるのだろう。
そう気持ちを切り替えようとした。
けれど、体が火照るばかりで、少しも切り替えられない。
侍女が私の様子に気づいたのか、控えめに声をかけてきた。
「のぼせられましたか。お上がりください」
そのまま、体を洗われる。
まだ慣れない。
けれど、恥ずかしさは少し薄れてきていた。
人は、たぶん慣れるのだろう。
その時、陛下付きの侍女が浴室に入ってきた。
「王妃様。陛下よりお伝えするようにと」
私は顔を上げた。
「陛下は急用のため、今夜はお一人でお休みください、とのことでございます」
私は、思わず渡りに船だと思ってしまった。
「分かりました。ご無理をなさらないようにとお伝えください」
陛下付きの侍女が、浴室から出ていく気配がした。
よかった。
助かった。
私は強運だ。
そう思った。
けれど、すぐに別の考えが浮かんだ。
急用。
何かあったのだろうか。
貴族の誰かが反乱でもしたのか。
まさか、今日の言葉はかなり危険だった。
でも、そんなことぐらいで反乱しないと思っていた。
急に不安になってきた。
私が考えた言葉で、レオンハルト様が危険な状態になっている。
そう思ったら、すぐにでも会いに行きたくなった。
侍女たちにも、隙は見せられない。
私は王妃らしく振る舞うことにしている。
「すぐに体を流してください」
侍女たちが、はっと顔を上げる。
「着替えたら、陛下のところへ行きます」
「先にお伝えした方がよろしいのでは」
伝えたら、レオンハルト様はきっと、私を心配させまいとして断るだろう。
「いいえ。陛下には伝えないように」
侍女たちの顔が青ざめた。
私は、そんなに恐ろしく見えるのだろうか。
まあ、その方がよい。
そう思いかけて、気づいた。
もしかして、陛下が来ないことに文句を言いに行くと思われているのだろうか。
頭が少し冷えてきた。
けれど、止まるつもりはなかった。
「すぐに用意してください」
低い声で言った。
怖い王妃だと思われるくらいで、今はちょうどいい。
侍女たちは慌てて私の体を流し、夜着の上に軽いガウンを羽織らせてくれた。
そこで、私は大事なことに気づいた。
レオンハルト様が今どこにいるのか、分からない。
「陛下のところへ向かいます。案内してください」
侍女たちは一瞬だけ顔を見合わせた。
けれどすぐに、一人がうなずいた。
侍女たちの情報網を使えば、陛下の居場所くらい分かるのだろう。
違う意味で胸が痛い。
私は足早に、侍女について行った。
執務室の前には、衛兵たちが立っていた。
私は少し目に力を込め、片手を横に振った。
衛兵たちは、何も言わずに下がった。
私は扉を開いた。
執務室の中には、重い沈黙が落ちていた。
机に肘をつき、レオンハルト様が頭を抱えて下を向いている。
けれど、そこにいたのは、レオンハルト様と、彼が一番信頼している側近のロイドだけだった。
「陛下。来てしまいましたよ」
ロイドがそう言った。
ロイドは、レオンハルト様の古くからの側近らしい。
陛下と仲が良く、私も数少ない、少しだけ気安く話せる相手だった。
レオンハルト様が顔を上げる。
私を見て、驚いていた。
レオンハルト様が驚く姿を見て、私の方が驚いた。
何かあったのだ。
私はそのまま、レオンハルト様の前まで歩いていった。
「急用とは何ですか」
レオンハルト様は、すぐに答えなかった。
「何か、私の考えた言葉で問題があったのですか」
少し迫るような声になってしまった。
ロイドの顔が、なぜか笑っている。
陛下が大変な時に笑うとは、どういうことなのだろう。
「ロイドさん。陛下が困っている時に笑うとは、それでも家臣ですか」
ロイドは目を見開いた。
それから、驚いているレオンハルト様を見た。
「陛下。何か言ってください。私が悪者にされてしまいます」
レオンハルト様は、やっと口を開いた。
「分かった。ロイド、お前は下がれ」
「はいはい。王妃様、私は何も悪くありませんからね」
「それは、陛下からお聞きします」
ロイドは肩をすくめ、楽しそうに笑いながら部屋を出ていった。
扉が閉まる。
二人きりになった。
私はレオンハルト様を見た。
「貴族の反乱があったのですか」
「違う」
「それとも、敵国が攻めてきたのですか」
「それも違う」
いつものレオンハルト様らしくない。
目を合わせようとしない。
そのせいで、私は余計に不安になった。
「では、何があったのですか」
レオンハルト様は咳払いをした。
けれど、やはり私と目を合わせない。
「何か言ってください」
「王妃。落ち着いてくれ」
「落ち着いています」
たぶん。
「貴族の反乱も、敵国の侵攻もない。君の考えた言葉は完璧だった。何も問題はない」
「では、何があったのですか」
レオンハルト様は、しばらく黙った。
それから、低い声で言った。
「その……私は、君に嫌われているのではないかと不安だった」
「はあ」
思わず、変な声が出た。
「私は、君を無理やり王妃にした。無理やり王宮に閉じ込めたようなものだ」
「……」
「君が本当は嫌がっているのではないかと思った」
レオンハルト様の声は、いつもより弱かった。
「君に拒絶されるのが、怖かった」
私は、しばらく何も言えなかった。
政治の話なら、何手も先を読む人だ。
民の心も、貴族の反応も、教会や商人の利害も読む人だ。
そのレオンハルト様が。
私に嫌われるのが怖くて、執務室に逃げていた。
「私は、レオンハルト様が好きです」
言葉は、思ったより素直に出た。
「心から愛しています」
レオンハルト様の顔に、はっきりと笑顔が戻った。
それを見て、私は胸が熱くなった。
「……よかった」
レオンハルト様は、小さく息を吐いた。
「まさか、君が私を愛してくれているとは思えなかった」
「なぜですか」
「君から愛していると言われたのは、今が初めてだ」
あれ。
私は言っていなかっただろうか。
いや。
言っていない。
たぶん、言っていない。
レオンハルト様からは、何度も熱烈に言葉を向けられていた。
けれど私は、いつも冷静に振る舞っていた気がする。
嫌いです。
お元気で。
そういう冷たい言葉ばかり言っていた気がする。
また、頭が真っ白になりそうだった。
レオンハルト様なら、私の気持ちくらい見抜いていると思っていた。
違ったのだろうか。
レオンハルト様は、もう一度咳払いをした。
「私は、女性とどう接すればよいのか分からないんだ」
「え」
「国の話ならできる。歴史でも、政治でも、通商でも、関税でも、いくらでも話せる」
それは知っている。
「けれど、女性と話すのは苦手だ」
私は思わず、レオンハルト様を見つめた。
「君と話す時は、それを知られたくなくて、無理をして偉そうな言葉を使っていた」
「……」
「君を、だましていたのかもしれない」
レオンハルト様の声が、少し弱くなる。
「幻滅されたかな」
私は首を横に振った。
「幻滅などしません」
自分でも驚くほど、すぐに答えていた。
「レオンハルト様が私一人を愛してくださるなら、私も同じです」
レオンハルト様は私を見た。
今度は、まっすぐに。
「君は、本当にまっすぐだな」
その声は、少しだけ震えていた。
「よかった」
そして、レオンハルト様は私の手を取った。
「私は、君一人を一生愛すると、君に誓う」
そう言うと、レオンハルト様の顔が近づいてきた。
心臓が、もう一度大きく跳ねる。
レオンハルト様の手が、私の指に触れた。
今日、大聖堂で指輪を交わした手だった。
逃げようとは思わなかった。
それからの記憶は、飛んでしまった。