作品タイトル不明
第39話 大聖堂の誓い
大聖堂の鐘が鳴った。
一度ではない。
高い鐘。
低い鐘。
いくつもの鐘が重なり、王都の空へ広がっていく。
その音は、今日この国で王の婚礼が行われることを告げていた。
私はいま、レオンハルト陛下の隣で、大聖堂の入り口に立っている。
胸が高鳴っていた。
私がレオンハルト陛下と、本当に結婚する。
そして、この国の王妃になる。
まだ、これは夢ではないのかと思ってしまう。
レオンハルト陛下は、深紅の儀礼衣に金糸の刺繍をまとい、肩には白い毛皮で縁取られた王のマントを掛けていた。
胸元には王家の紋章が輝き、腰には宝石を埋め込んだ剣が下げられている。
王冠は重く、ただの飾りではなく、この国を背負う責任そのものに見えた。
漆黒の髪と、深く黒い瞳。
その瞳に見つめられると、いつも胸が高鳴る。
強い意志。
そして、私をいとおしく見る眼差し。
今日はその眼差しが、いつにも増して強く、深く、私はレオンハルト陛下の顔をまっすぐ見ることができなかった。
「緊張しているのか。私がいる。安心してくれ」
小さな声で、陛下がささやいた。
心臓の高鳴りが増す。
陛下に聞こえるのではないかと、不安になるほどだった。
「君は、本当に美しい」
私の方を見て、あの黒い瞳で見つめられた。
頬が熱くなる。
胸がざわつく。
私は何も言えなかった。
視線を落としてしまった。
私は、白に近い淡い金の婚礼衣をまとっていた。
胸元と袖口には細かな金糸の刺繍が入り、裾は床に広がるほど長い。
肩から落ちる薄いヴェールの上には、小さな宝冠が置かれている。
華やかではある。
けれど、派手さよりも、王妃としての気品と威厳を求められた衣装だった。
衣装も。
宝冠も。
この場に立つ意味も。
どれも、重かった。
大聖堂の扉の向こうには、国の主要な貴族たちと、限られた身内だけが待っている。
今日の式は、盛大なものではない。
他国の要人を山ほど招くわけでもない。
王都中を飾り立てるわけでもない。
国の中枢にいる者たちと、身内だけで、大聖堂で式を挙げる。
その後で、民の前に出る。
二人でパレードをする。
それが、レオンハルト陛下の決めた形だった。
貴族たちに見せるためだけの婚礼ではない。
民に示すための婚礼。
そして、国の新しい形を示すための婚礼。
王宮楽隊のラッパが鳴った。
高く、鋭く、石の壁を突き抜けるような音だった。
その音を合図に、大聖堂の扉が開く。
香の匂いが流れてきた。
次の瞬間、パイプオルガンの低い音が、大聖堂の奥から押し寄せてきた。
床が震える。
胸の奥まで震える。
その重い音の上に、聖歌隊の声が重なった。
広い大聖堂の中にいるのは、選ばれた者たちだけだった。
王族。
高位貴族。
宮廷の重臣。
教会の高位聖職者。
そして、私の家族。
父と母がいた。
母はすでに目を潤ませていた。
父は背筋を伸ばし、私を誇らしげに見ていた。
リリアもいた。
その横に、カイルもいる。
私は一瞬だけ、そちらを見た。
リリアは私と目が合うと、ぎこちなく頭を下げた。
この雰囲気にのまれているようだった。
カイルは、私と目を合わせようとしなかった。
私はそれ以上、そちらを見なかった。
大聖堂の中央には、赤い敷物がまっすぐ祭壇まで続いている。
その先で、大司教が待っていた。
白と金の祭服をまとい、手には古い祈祷書を持っている。
レオンハルト陛下が歩き出した。
私も歩き出す。
けれど、一歩、遅れそうになった。
その瞬間、レオンハルト陛下の手が私の手を取った。
止まるためではない。
共に歩くために。
私はその手に導かれ、もう一度まっすぐ前を見た。
主要貴族たちが、一斉に頭を下げた。
その動きが、波のように広がっていく。
広い大聖堂に、パイプオルガンの音と聖歌が響く。
音は高い天井に昇り、石の柱に反響し、また私たちの上へ降ってきた。
私は足元だけを見ないようにした。
下を向けば、衣装の裾を踏む。
顔を上げすぎれば、宝冠が揺れる。
ただ、まっすぐ歩く。
陛下の隣を。
祭壇の前に着くと、パイプオルガンの音がゆっくりと弱くなった。
聖歌隊の声も、細くなっていく。
やがて、音が止んだ。
大聖堂の中に、深い沈黙が落ちる。
大司教が一歩前へ出た。
その声が、石の柱に響いた。
「これより、レオンハルト王とエレノア・ラングフォードの婚姻を、神と国の前に執り行う」
私の名が響いた。
エレノア・ラングフォード。
その名で呼ばれるのは、あとどれほどあるのだろう。
そう思ったのは、一瞬だけだった。
大司教は、集まった者たちを見渡した。
「この婚姻に異議ある者は、今この場で申し出よ」
沈黙が落ちた。
誰も動かない。
誰も声を出さない。
大聖堂の外では、まだ鐘の余韻が遠くに残っているような気がした。
けれど、この場には音がなかった。
主要貴族たちの視線が、こちらに集まっている。
私を値踏みする者。
陛下の意図を探る者。
この婚姻が何を変えるのかを考えている者。
父も、母も、リリアも、カイルも、黙っていた。
大司教が、ゆっくりとうなずいた。
「異議なきものと認める」
その言葉を合図にしたように、祭壇の横で香炉が揺れた。
細い煙が、白く立ち上る。
大司教がレオンハルト陛下に向き直った。
「レオンハルト王。汝はエレノア・ラングフォードを妻とし、王妃として迎えることを望むか」
陛下は迷わず答えた。
「望む」
短い言葉だった。
けれど、その声は大聖堂の奥まで届いた。
大司教が、今度は私を見る。
「エレノア・ラングフォード。汝はレオンハルト王を夫とし、この国の王妃として隣に立つことを望むか」
望むか。
命じられるのではない。
差し出されるのでもない。
私は、自分で選んでここにいる。
「望みます」
自分の声は、思ったよりはっきり響いた。
大司教が祈祷書を開く。
「では、誓約を」
レオンハルト陛下が私の方を向いた。
大聖堂の奥から、パイプオルガンの低い音が、ごく小さく響き始める。
陛下は口を開いた。
「私、レオンハルトは、エレノア・ラングフォードを妻とし、王妃として迎える」
声は低く、揺るがなかった。
「生涯ただ一人の伴侶とし、彼女を守り、彼女と共にこの国を治めることを誓う」
大聖堂の空気が、わずかに揺れた。
生涯ただ一人。
この場にいる者たちは、その意味を全員分かっている。
側室を持たない王。
その誓いが、神と国の前で言葉にされた。
私は、その重さを受け止めた。
次は私の番だった。
私はレオンハルト陛下を見た。
今度は、逃げずにまっすぐ陛下の顔を見た。
レオンハルト陛下は、私を見ていた。
強く、穏やかに。
私と結ばれることを、心から喜んでいるように。
「私、エレノア・ラングフォードは、レオンハルト陛下を夫とし、王として支えます」
声は震えなかった。
「その隣に立ち、この国と民のために、私にできる務めを果たすことを誓います」
一度だけ、息を吸う。
「陛下が正しき道を進む時は支え、誤る時は止めます」
大聖堂の空気が、もう一度揺れた。
最後の言葉は、儀式通りの言葉ではなかった。
私の意志を、神と陛下と皆に伝えるための言葉だった。
大司教も、ほんの一瞬だけ動きを止めた。
けれど、止めなかった。
レオンハルト陛下の口元が、ほんのわずかに緩んだ。
私はそれ以上、何も言わなかった。
十分だった。
侍従が銀の盆を持って進み出る。
その上には、二つの指輪が置かれていた。
王家の紋章が内側に刻まれた、金の指輪。
飾りは多くない。
けれど、重みがあった。
パイプオルガンの音が止む。
指輪の儀だけが、大聖堂の中心に置かれた。
陛下が指輪を取る。
私の左手を取った。
「エレノア」
陛下が私の名を呼ぶ。
「この指輪を、私の誓いの証として贈る」
指輪が私の指に通される。
ぴたりとはまった。
次に、私が指輪を取った。
レオンハルト陛下の手を取る。
剣を握る手。
書類に署名する手。
この国を動かす手。
私はその指に、指輪を通した。
「この指輪を、私の誓いの証としてお贈りします」
金の輪が、陛下の指に収まった。
大司教が祈祷書を閉じる。
「神と国の前に、ここに婚姻は成った」
大聖堂の鐘が鳴った。
深く、重く。
一度。
その音は、石の壁を震わせるようだった。
続いて、二度目の鐘が鳴る。
三度目。
やがて、いくつもの鐘が重なった。
それは、ただの祝いの音ではなかった。
国が、新しい王妃を認めた音だった。
私はレオンハルト陛下の妻になった。
けれど、式はまだ終わらない。
大司教が、私の方へ向き直った。
「エレノア・ラングフォード。前へ」
私は一歩進んだ。
祭壇の前で膝をつく。
薄いヴェールが肩から落ち、衣擦れの音がかすかに響いた。
鐘の音が遠ざかる。
代わりに、聖歌隊の声が低く始まった。
大司教が小さな銀の器を受け取る。
聖油だった。
王の戴冠に使われるものよりも、ずっと少ない。
それでも、その意味は重い。
大司教は指先に聖油を取り、私の額に触れた。
冷たい感触がした。
「王の隣に立つ者よ」
大司教の声が降ってくる。
「王を支え、民を守り、弱き者の声を聞け」
私は目を伏せた。
「権威に溺れず、恐れに退かず、この国のために務めを果たせ」
聖歌隊の声が、ゆっくりと高くなる。
侍従が、今度は小さな箱を持ってきた。
箱の中には、王妃の印章が入っていた。
金の持ち手に、王家の紋章と、私の名を示す印が刻まれている。
大司教がそれを取り、私の前に差し出した。
「これより、汝は王妃として言葉を持つ」
私は両手を差し出した。
王妃の印章が、掌に乗る。
小さい。
けれど重い。
命令。
書簡。
嘆願。
許可。
拒絶。
この印章は、ただの飾りではない。
私が王妃として、言葉と責任を持つ証だった。
「お受けいたします」
大司教がうなずいた。
パイプオルガンの音が、再び低く響き始める。
大司教の声が、大聖堂に響いた。
「立ちなさい、エレノア王妃」
エレノア王妃。
その名が、石の柱に反響した。
私は立とうとした。
すぐに、手が差し出される。
レオンハルト陛下の手だった。
私はその手を取った。
支えられて立つ。
けれど、ただ支えられるためではない。
この人の隣に立つために。
私は陛下の隣へ戻った。
その瞬間、ラッパが鳴った。
入場の合図ではない。
婚姻の終わりでもない。
新しい王妃の誕生を告げる音だった。
高く、澄んだ音が、大聖堂の天井へ昇っていく。
大司教が両手を広げた。
「ここに、レオンハルト王とエレノア王妃の婚姻を認める」
主要貴族たちが、一斉に頭を下げた。
父も。
母も。
リリアも。
カイルも。
大聖堂の中にいるすべての者が、私たちに礼をした。
聖歌隊の声が高まる。
パイプオルガンがそれを支える。
重く、深く、荘厳な音が、大聖堂全体を満たしていく。
長くはない式だった。
豪華すぎる式でもなかった。
けれど、軽い式ではなかった。
この場にいた者たちは、分かったはずだ。
この婚礼が、ただの結婚ではないことを。
この王が、今までの王と同じ道を歩くつもりがないことを。
そして、その隣に立つ王妃も、ただ飾られるために選ばれたわけではないことを。
最後の祈りが始まった。
大司教の声。
聖歌隊の声。
パイプオルガンの音。
それらが重なり、大聖堂の石壁に反響する。
私はレオンハルト陛下の隣で、その祈りを受けた。
額には、まだ聖油の感触が残っている。
左手には、指輪の重みがある。
両手には、王妃の印章の重みを覚えている。
最後の祈りが終わった。
大司教が祈祷書を閉じる。
その音が、式の終わりを告げた。
レオンハルト陛下が、私を見た。
「行こう、王妃」
私はうなずいた。
「はい、陛下」
王宮楽隊のラッパが、もう一度鳴った。
パイプオルガンの音が高まる。
聖歌隊の声が、その上に重なる。
二人で祭壇に背を向ける。
赤い敷物の先に、大聖堂の扉が見えた。
その向こうには、民が待っている。
まだ姿は見えない。
けれど、遠くから人々の声がかすかに響いていた。
式は終わった。
私はもう、エレノア・ラングフォードとしてだけ歩いているのではない。
この国の王妃として、扉の向こうへ向かっていた。
もう、戻れない。
けれど、逃げたいとは思わなかった。
私はレオンハルト陛下の隣で、音の中を歩き出した。
扉の向こうには、民の声が待っている。
王妃としての一日は、ここから始まる。