作品タイトル不明
第36話 母のシチュー
王宮が見えてきた頃、歓声の種類が少し変わった。
民衆の声は、まっすぐだった。
喜び。
驚き。
期待。
それが、私に向かって飛んできていた。
けれど王宮に近づくにつれて、沿道に並ぶ人々の中に、貴族たちの姿が増えていく。
冷たい視線。
妬ましい視線。
値踏みするような視線。
そして、隠しきれない憧れの視線。
民衆の純粋な歓喜とは、まるで違った。
私は笑顔を絶やさないまま、ああ、また貴族社会に戻ってきたのだと思った。
ここでは、笑顔の裏を読まれる。
ドレスの質を見られる。
歩き方を見られる。
誰に選ばれたのか、何を得たのか、何を失うのかを、勝手に測られる。
きっと、お茶会ではもう好き勝手に言われているのだろう。
「庶民の前に顔をさらすなんて、はしたない」
「そんなこと、私は死んでもできないわ」
「少し前までは落ちぶれた伯爵家の令嬢でしょ」
「だから何ともないのよね」
「まだ結婚もしていないのに王妃きどりとはよいご身分ね」
「レオンハルト陛下をどうたらし込んだのかしら」
「そんなこと決まってるでしょ」
そんな声が、聞こえたわけでもないのに耳の奥に浮かんだ。
けれど、そんな言葉でひるむような私ではない。
堂々と振る舞う。
何事にも動じず、堂々と振る舞えばいい。
それだけは分かっていた。
王宮の正面に馬車が止まった。
周囲には貴族たちが並んでいる。
その中には、知っている顔もあった気がする。
けれど、今は一人一人を確かめる余裕などない。
私は笑みを崩さず、集まっている貴族たちをゆっくりと見渡した。
目にだけは、少し力を込めて。
レオンハルト陛下からは、君に睨まれると「僕でも怖い」と言われている。
褒め言葉とは思えないが、使える武器は使わせてもらう。
貴族たちの間に、わずかな迷いが走った。
まだ王妃でもない小娘に、頭を下げるのか。
それとも、陛下が王妃と決めたことに逆らうのか。
その迷いは、すぐに終わった。
最初に年配の貴族が頭を下げた。
それを合図にしたように、並んでいた貴族たちが一斉に礼をする。
私は礼をすることも、言葉をかけることもしない。
貴族社会では、最初に序列を決め、従わせることが必要なのだ。
ただ、笑みを崩さず、その礼を受けた。
お腹が鳴らないことを祈りながら。
馬車に乗っていた護衛兼侍女が、すぐに階段を取り付けてくれた。
私は笑顔のまま、ゆっくりと階段を下りる。
赤いドレスの裾を踏まないように。
冠を傾けないように。
背筋を曲げないように。
それだけで、もう十分に大変だった。
王宮の扉が開く。
私が中に入ると、扉は閉じられた。
外の歓声が遠くなる。
広い玄関広間には、誰もいない。
出迎えの列もない。
挨拶に詰め寄ってくる貴族もいない。
私を囲む侍女や官吏の姿もない。
陛下の配慮だと、すぐに分かった。
民の前では、私をできるだけ華やかに見せる。
でも王宮の中では、王妃ではなく私として扱ってくれる。
本当に、腹が立つくらいよく分かっている人だ。
少し怖くもある。
私が何を嫌がり、何にほっとするのか。
それを、どうしてここまで読めるのだろう。
私は侍女たちに連れられ、すぐに奥の部屋へ通された。
扉が閉まる。
その瞬間、全身から力が抜けそうになった。
けれど、休む間もなく、また侍女たちが動き始める。
王妃の冠が外される。
宝石が外される。
髪飾りが外される。
金糸の赤いドレスが、慎重に脱がされていく。
私は黙って立っていた。
されるがままである。
それから、湯船に入れられた。
またですか。
そう思った。
女性同士とはいえ、やはり恥ずかしい。
けれど、汗も化粧も落とさなければならないことは分かっている。
半日近く笑顔で手を振り続けたのだ。
体も顔も、もう自分のものではないような気がしていた。
湯で体を流され、髪を整えられ、香油をほんの少しつけられる。
この先も、ずっとこうなのだろうか。
王妃になれば、着替えも湯浴みも、食事も、歩く道さえ誰かに整えられるのだろうか。
そう考えると、少し気が重くなった。
でも、慣れるしかない。
私は王妃になると決めたのだ。
嫌なこと全部から逃げるために旅をしたわけではない。
自分で選ぶために旅をした。
なら、選んだ先にある面倒なことも、受け止めるしかない。
湯から上がると、今度は淡い青のドレスを着せられた。
コルセットはない。
締めつけも少ない。
柔らかくて、軽い。
私は思わず息を吐いた。
「このドレスは……」
「陛下から、楽に過ごせるものを、と」
侍女が控えめに答えた。
また陛下だ。
本当に、こちらが腹を立てる隙をなくしてくる。
化粧も落とされた。
鏡に映った私は、さっきまでの王妃とはまるで違っていた。
旅で少し日に焼けた顔。
少し疲れた目。
いつもの私。
王妃の顔ではない。
エレノアの顔だった。
それを見て、私は少しだけ安心した。
そして、また侍女に案内される。
廊下を歩いていると、いい匂いがしてきた。
香ばしい匂い。
煮込まれた肉と野菜の匂い。
焼きたてのパンの匂い。
食堂だ。
私のお腹が、危険な音を立てそうになった。
どうか鳴らないで。
そう祈りながら中へ入ると、そこには誰もいなかった。
長い食卓。
白い布。
銀の食器。
湯気を立てる料理。
けれど、席にいるのは私だけだった。
侍女が一礼する。
「陛下より、ゆっくり召し上がるようにとうかがっております」
「一人で、ですか」
「はい。ご用があれば、すぐにお呼びください」
そう言うと、侍女は一礼して部屋を出ていった。
扉が閉まる。
私はしばらく、その扉を見つめた。
それから、ほっと息を吐く。
誰かに見られながら食べるのは、今の私には無理だった。
王妃らしく一口ずつ上品に食べるなど、今はできない。
私は椅子に座った。
作り笑いをやめる。
背筋も、少しだけ緩める。
そして、いつものように食べ始めた。
美味しい。
悔しいくらいに美味しい。
パンは外が香ばしく、中は柔らかい。
肉はほろほろと崩れる。
野菜には甘みがある。
果物はよく冷えていた。
そして、どれも私の好みに合っている。
レオンハルト陛下は、私の好きなものを知っている。
数えるほどしか食事を共にしていないのに、何を美味しそうに食べていたか見ていたのだ。
本当に厄介な人だ。
そう思いながら食べていると、ひとつの器に目が止まった。
白い湯気を立てる、素朴なシチューだった。
王宮の料理にしては、少しだけ家庭的に見える。
私は何気なく匙を取った。
一口食べた。
その瞬間、手が止まった。
母の味だった。
「……」
伯爵家で厨房に立つ母の姿が浮かんだ。
白い湯気。
木の匙。
台所に立つ母の横顔。
袖を少しまくって、鍋をかき混ぜる手。
伯爵家の奥方が自分で料理をするなんて珍しいと、使用人たちはよく困ったように笑っていた。
それでも母は、時々台所に立った。
父のために。
私たち姉妹のために。
家族のために。
特にこのシチューは、母がよく作ってくれた。
寒い日。
私が熱を出した日。
リリアが泣き疲れて眠った日。
食卓には、この味があった。
私は、そのシチューが好きだった。
好きだったのだ。
そう思った途端、涙が出た。
さっきまで民衆の前で笑っていた。
王妃の冠をかぶっていた。
赤いドレスで手を振っていた。
なのに、シチューを一口食べただけで、私は泣いている。
私は、父と母が嫌いで家を出たわけではない。
むしろ、どちらかと言えば好きだ。
父も母も、私を大事に育ててくれたと思う。
父は不器用な人だった。
けれど、ラングフォード家のことを本気で考えていた。
ラングフォード家は、祖父の代までは侯爵家だった。
けれど父の代で政治闘争に敗れ、伯爵家へ降格された。
父にとって、それはきっと重かったのだろう。
だから父は、娘のどちらかを侯爵家へ嫁がせたかった。
家の名誉を、少しでも取り戻したかった。
それは貴族社会では、特別おかしな考えではない。
むしろ、当たり前のことだったのだと思う。
母も、私を嫌っていたわけではない。
貴族の娘として、恥ずかしくないように育てようとしてくれた。
美しく振る舞うこと。
感情を見せすぎないこと。
家のために何ができるかを考えること。
そういうものを、母は母なりに教えてくれていたのだろう。
分かっている。
父が私を嫌っていたわけではないことくらい、分かっている。
母が私を粗末に育てたわけではないことも、分かっている。
ただ、あの家にいる限り、私はずっと誰かのために譲る娘でいなければならなかった。
家の名誉。
血筋。
婚姻。
体面。
そういうもののために、女の人生が当然のように決められていくことが、どうしても息苦しかった。
私が嫌だったのは、父でも母でもない。
ラングフォード家そのものでもない。
貴族社会だった。
私はシチューをもう一口食べた。
やはり、美味しい。
懐かしい。
泣きながら食べると、味が少し分からなくなる。
それでも、私は食べた。
あれこれ考えながらも、しっかり食べた。
町娘のように。
王妃になる者としては、少し行儀が悪いのかもしれない。
でも今だけは、誰も見ていない。
陛下は、たぶんそれも分かっていて、一人にしてくれたのだろう。
リリアのことも、思い出した。
あの子は、ただの、わがままな妹だ。
泣けば誰かが助けてくれる。
欲しいと言えば、誰かが譲ってくれる。
可愛くすれば、周囲が味方をしてくれる。
そういう世界で生きてきた子だ。
私はそれに腹を立てることもあった。
呆れることもあった。
私も、自分の窮屈さをリリアに向けていたのかもしれない。
リリアは、貴族社会に向いていたのだと思う。
私は、向いていなかった。
ただそれだけだったのだろう。
食事を終える頃には、少し落ち着いていた。
そこへ、年配の侍女が紅茶を持ってきてくれた。
香りのよい、とても美味しい紅茶だった。
私が一息ついたのを見計らって、侍女が声をかける。
「ご家族の方が来られています。お会いになりますか」
私は顔を上げた。
陛下から、家族を宮殿に呼んでいることは聞いていた。
――君には悪いが、事は早く進めたい。民に王妃として顔を見せ、そのまま王宮へ来てほしい。
――この計画を了承してくれるなら、家族は宮殿に呼んでおく。
そう言われた時、私は驚いた。
けれど、とても楽しみにもしていた。
父と母に会いたかった。
リリアにも、会いたかった。
私は素直に答えた。
「楽しみにしていました。連れて行ってください」
侍女は丁寧に頭を下げると、私の手を取って立ち上がらせてくれた。
私は、はやる気持ちを抑えた。
私は侍女の後について、廊下を歩き出した。