作品タイトル不明
第35話 私は制度改革の象徴になる
そして私は今、国王専用の船の中で、バラの花を浮かべた風呂桶につかっている。
何人もの侍女が腕をまくり、私の髪を洗い、肌を磨き、爪の先まで整えている。
女性とはいえ、とても恥ずかしい。
けれど、逃げられない。
私は、されるがままになって耐えるしかなかった。
ルーベル王国の王都には、セレナ川という広い川が流れている。
私が乗っているのは、国王専用の豪華な船だった。
数時間後には、その船で王都の河川港に到着する。
この船は、風がなくても進め、川もさかのぼれるように作られている。
船の下には、櫂と呼ばれる長い棒が何本も並んでいて、船員たちが内側からそれを動かす仕組みになっている。
帆だけに頼らず、川の流れに逆らって進める最新式の船なのだという。
その船で私がルーベル王都に乗りつけることも、レオンハルト陛下の改革の一つだった。
手紙の最後には、短くこう書かれていた。
「君なら大丈夫だ」
本当に、厄介で、嫌いだ。
私は、河川港から王宮まで、一人で民の前を通らなければならない。
王妃になる者として、民心をつかむためだという。
王妃が庶民の前に素顔をさらすなど、前例はなかった。
建国記念日や年始に、王宮のバルコニーから手を振ることはある。
けれど、それは遠くから姿を見せるだけだ。
民の前に降り、同じ道を進む王妃など、これまでいなかった。
しきたりを重んじる者たちからは、当然、反対もあったと書かれていた。
けれど陛下は、王妃が民の前に姿を見せることの意味を説明し、反対する者たちを一人ずつ丁寧に説明して納得させたらしい。
たぶん、あの人の丁寧は、私の知っている丁寧という言葉とは違う。
まあ、私もその計画は読んでいた。
読んではいたのだ。
けれど、まだ王妃にもなっていない私を、王妃として使い、そして私一人に任せるのだ。
手紙には、こうも書かれていた。
「君の美しさは民の心をつかむだろう。私はいない方がよい」
私は、庶民の人たちの前で顔を見せること自体抵抗はない。
厄介な陛下が隣でいるより一人の方がよい。
しかし、私一人でできるのだろうかと不安にはなる。
何なら、その場で叫べと言われれば叫べる。
盗賊相手に叫んだこともあるのだ。
今さら、顔を見せるくらいで怖がってはいられない。
そう思って、私は侍女たちに身を任せた。
磨き上げられたあと、私はまた赤いドレスを着せられた。
今回は自分で選んだのではないのだが、赤いドレスになってしまう。
赤い色だが、とても上品だった。
布には細かな金糸が縫い込まれていて、太陽の光を浴びると柔らかく輝く。
そして、また濃い化粧をされた。
それは少しありがたかった。
旅の間に日に焼けた顔を、少しは隠せるからだ。
手紙には、こうも書かれていた。
「遠くからでも、君の気品と美しさを見せるためだ」
気品。
美しさ。
どちらも私には重すぎる言葉だ。
そう、私は「制度改革の象徴」として使われるのだ。
陛下の言葉では、そうなる。
私の感覚では、制度改革の道化である。
けれど、腹をくくるしかない。
私は、王妃になると決めたのだ。
レオンハルト陛下の改革を共に進めると決めたのだ。
河川港に近づく前から、私は船の舳先に立たされた。
川風がドレスの裾を揺らす。
髪は崩れないように固められ、宝石のついた髪飾りが重い。
首にも、胸元にも、手首にも、宝石がついている。
そして頭には、王家代々の王妃が使ってきたという冠がのせられていた。
重い。
とても重い。
王妃とは、首も鍛えなければならないのだろうか。
そんなことを考えている場合ではなかった。
河川港が見えてきた。
すごい人だ。
川沿いに、信じられないほどの人が集まっている。
すでに多くの人が国旗を振っていた。
屋台も並んでいるらしい。
あたりで何かを焼いている煙が立っている。
完全にお祭り状態だった。
私は息を吸った。
陛下の言う「制度改革の象徴」として振る舞うことを心に刻んだ。
船がゆっくりと河川港に近づく。
歓声が、波のように押し寄せてきた。
私は手を上げた。
それだけで、川沿いの人々が大きくどよめいた。
思っていたより、ずっと声が大きい。
耳が震えるほどだった。
船が停まり、タラップが下ろされた。
私は侍女に手を引かれながら、一歩ずつ降りていく。
赤いドレス。
王妃の冠。
王家の宝石。
それを身につけて、民の前に姿を現した。
ただ、それだけだった。
それだけなのに、群衆が揺れた。
「エレノア王妃だ!」
「本当だ、王妃様だ!」
「王妃様は美しい!」
「手を振られている!」
「きれい!」
「こちらを見られた!」
「私を見てくれた!」
悲鳴のような歓声が上がる。
若い女性たちが手を振り、子どもたちが肩車され、老人たちが手を合わせている。
中には、膝をついて私を拝む人までいた。
兵士たちが群衆を抑えようとしている。
けれど、人々は前へ前へと押し寄せていた。
王妃という存在を、これほど近くで見る者など、ほとんどいなかったのだろう。
それに、私はただの王妃ではない。
新しい国王が、民の前に初めて出した王妃なのだ。
レオンハルト陛下は、本当に人がどう動くかをよく考えている。
私も、ここまでの騒ぎになるとは想像していなかった。
元は落ちぶれた伯爵令嬢です。
いや、少し前までは、ただの旅人でした。
心の中でそう言い訳しても、目の前の人々には届かない。
彼らが見ているのは、私ではない。
王妃だ。
新しい時代の象徴だ。
制度改革の看板だ。
私はもう、ただの旅人ではない。
群衆の熱が、歓声が、私にそれを教えてくる。
私は背筋を伸ばした。
赤いドレスの裾を踏まないように気をつけながら、ゆっくりと手を振る。
また歓声が上がった。
頭が痛くなりそうだった。
けれど、私は笑った。
王妃になる者として。
レオンハルト陛下の隣に立つ者として。
そして、自分でこの道を選んだ者として。
兵士たちが群衆を抑える中、私は馬車へ進んでいった。
笑顔を向け、手を振りながら、背筋を伸ばして。
馬車には、階段が取り付けられていた。
踏み台ではない。
階段だ。
さらに馬車の上には、立つための台と、低い手すりまで用意されている。
本当に、用意がよすぎる。
私は侍女に支えられながら階段を登った。
そして、馬車の上に立ち、周りの人々を見渡す。
「王妃様が馬車の上に立たれている!」
「私たちに笑顔を見せてくれる!」
「王妃様!」
「エレノア王妃様!」
パニックは終わりそうにない。
皆が私を見て、称賛の声を上げている。
そして馬車は、ゆっくりと進み始めた。
私は立ったまま、笑顔を崩さず、手を振り続ける。
「制度改革の象徴」として。
体力には自信がある。
馬車も、立っていられないほど揺れるわけではない。
それでも、笑顔は疲れる。
とても疲れる。
少しでも気を緩めると、だらしない顔に戻りそうになる。
辛い。
大変だ。
でも、陛下の考えを成すためには、こんなところで弱音を吐くわけにはいかない。
王都の町を進んでいくと、私への称賛だけではなく、レオンハルト陛下への称賛の声も混ざって聞こえてきた。
「新しい王様は、私たちが買う物を安くしてくれた!」
「貴族の反対を押し切ったそうだ!」
「実行力のある人だ!」
「私たちのことを気にかけてくれている!」
「税も下げてくれるらしいぞ!」
「能力さえあれば、貴族でなくても役人に取り立てられるらしい!」
「誰でも学べる場を用意してくれるそうだ!」
本当に、陛下の計画通りに進んでいる。
厄介で、恐ろしい人だ。
私の身支度が始まってから、王宮にたどり着くまでに半日かかってしまった。
聞いていた。
分かっていた。
それでも、私のお腹はもう限界だった。