作品タイトル不明
第27話 老夫婦の話し
乗合馬車に乗って、しばらくは外を眺めていた。
砂ぼこりの向こうには、まだ知らない道が続いている。
港町ミラとは違う景色。
内陸の小国、リュミエール国。
古代ルミナ遺跡に、温泉に、山間の町。
その一つ一つを思い浮かべるだけで、胸が弾む――はずだった。
けれど、馬車の揺れは思ったより単調で、昨夜の疲れも思ったより重かった。
外を眺めていたはずのまぶたが、いつのまにか落ちかける。
いけない。
一人旅の途中で、こんなに無防備に眠るなんて。
そう思ったところまでは覚えている。
ゴトン、と大きな音がした。
「ひゃっ」
思わず飛び起きた。
馬車が大きく揺れ、私は隣の人にぶつかりそうになって、慌てて体を戻す。
心臓が妙に速い。
眠っていない。
私は、眠っていない。
たぶん。
「あら、大丈夫、お嬢さん」
声をかけてきたのは、隣に座っていた身なりのよい老婦人だった。
上品な外套を羽織り、膝の上にはきちんと畳まれた毛布が置かれている。
その隣には、同じくらい年を重ねた老夫が座っていた。
こちらは口数が少なそうな人で、ずっと窓の外を見ている。
「大丈夫です。少し驚いただけです」
「そう。よかったわ。馬車の旅は、慣れないと驚くわよねえ。上等な馬車と違って、遠慮なく揺れるでしょう」
私は少しだけ笑った。
本当に、その通りだった。
伯爵家の馬車は、少なくともここまで容赦なくは揺れない。
乗合馬車は、道の石も、わだちも、遠慮なく体に伝えてくる。
自由というものは、なかなか尻に厳しい。
「お嬢さん、お一人で旅をしているの?」
「はい」
「まあ。こんなに若い方が一人旅なんて、心配ねえ。何かあったの?」
私は返事に困った。
何か。
ありすぎる。
婚約を破棄された。
嵐に遭った。
王太子殿下に会った。
殿下に振り回されたとか、逃げるように町を出たとか。
どれを選んでも、乗合馬車の中で話す内容ではない。
私が黙っていると、老婦人は勝手にうなずいた。
「言いたくないことなら、言わなくていいのよ」
「若い頃にはね、言葉にしたくないことの一つや二つ、誰にでもあるものだから」
そう言って、老婦人は隣に座る老夫をちらりと見た。
「ねえ、あなた」
老夫は窓の外を見たまま、短く言った。
「知らん」
「ほら、この人は昔からこうなの。聞いているのに、聞いていない顔をするのよ」
老婦人は楽しそうに笑った。
馬車の中の空気が、少しだけやわらぐ。
私も、少し肩の力が抜けた。
「リュミエール国へは、温泉に行かれるのですか」
私が尋ねると、老婦人の顔がぱっと明るくなった。
「ええ。湯治よ。膝にも腰にもいいって言うでしょう」
「去年も行ったのだけれど、この人がまた連れて行くと言い出したの」
「言い出したのは、お前だ」
老夫がぼそりと言う。
「私が行きたいと言ったら、あなたが連れて行くと言ったのでしょう。同じことよ」
「違う」
「同じです」
二人のやり取りに、馬車の中で小さな笑いが起きた。
向かいに座っていた旅人まで、口元を緩めている。
老婦人はそれに気をよくしたように、さらに話し始めた。
「この人はね、若い頃は本当に何もしない人だったのよ。家ではカップ一つ動かさないの」
「今は動かす」
「ええ、今はね。今は動かすわね」
老婦人は、どこか得意そうに笑った。
「でも若い頃なんて、仕事から帰ってきたら座っているだけ」
「お茶も出されるのを待つ。着替えも出されるのを待つ」
「何か頼めば、あとで、と言って結局忘れる」
老夫は黙っている。
否定しないのだから、本当なのだろう。
「よく我慢されましたね」
思わずそう言うと、老婦人は目を丸くしてから、声を上げて笑った。
「本当ねえ。よく我慢したわ」
老夫が、少しだけ気まずそうに顔をそむける。
その仕草が、妙に少年のようだった。
「でもね」
老婦人の声が、そこで少しだけ変わった。
明るさは残っている。
けれど、笑い話だけではない響きがあった。
「うちには、子どもが育たなかったの」
私は言葉を失った。
馬車の車輪が、道の小石を踏む音だけが聞こえる。
老婦人は、まるで昨日の天気を話すように続けた。
「一度だけね、子を授かったことがあったの」
その声は、穏やかだった。
「お腹が少しずつ大きくなってね。私はもう、毎日毎日、早く会いたくて仕方がなかったわ」
老婦人は笑っていた。
「小さな服を縫ったの。男の子でも女の子でも着られるように、白い布でね。下手だったけれど、楽しくて」
老夫は、外の景色を見ていた。
「でも、生まれた時には、もう泣かなかったの」
誰も、何も言わなかった。
老婦人の目の端に、小さく光るものが浮かんでいた。
「もう昔のことよ。本当に、ずっと昔のこと」
そう言って、老婦人は明るく笑った。
けれど、その笑顔が胸に痛かった。
「若い頃はね、姑によく言われたわ。子を産めない嫁はいらないって。せっかく授かった子も守れないのかって」
胸の奥が、ぎゅっと痛んだ。
「夫に何か言ってほしかったのだけれど、この人は私の前では何も言わなかったの」
老夫は、まだ外の景色を見ていた。
その横顔は、何も聞こえていないようにも見える。
「怒りもしなかった。泣きもしなかった。ただ黙って、そこにいたの」
老婦人は膝の毛布を指でなでた。
「だからね、私は若い頃、この人はあの子のことも、私のことも、何とも思っていないのだと思っていたの」
「違う」
老夫が、ようやく言った。
低く、短い声だった。
「ええ。今なら分かるわ」
老婦人は微笑んだ。
「後になって知ったの。この人、私がいないところで、お義母様をなだめていたのよ」
私は思わず老夫を見る。
老夫はますます顔をそむけた。
「言うな」
「いいじゃない。もう昔の話だもの」
「昔の話でも、言わんでいい」
「この人ね、私にだけは、私を好きだと知られたくなかったのですって」
老婦人は、今度は少女のように笑った。
「お義母様には知られていたのにね。馬鹿でしょう?」
「馬鹿とは何だ」
「馬鹿よ。若い頃のあなたは、本当に馬鹿」
老夫は何も言わなかった。
けれど、怒ってはいないようだった。
老婦人は膝の毛布をなでながら、少しだけ遠くを見るような顔をした。
「お義母様が亡くなって、この人も仕事を辞めて、それからね。少しずつ、話すようになったの」
「……」
「若い頃は、一日に三言くらいしか話さなかった人が、今では私の行きたいところなら、どこへでも連れて行ってくれるのよ」
「どこへでもではない」
「どこへでもよ。去年は温泉。一昨年は花祭り。その前は川沿いの宿。今度はリュミエール国の湯治場と、古代ルミナ遺跡も見たいわね」
老夫は黙った。
その沈黙が、答えだった。
私は何も言えなかった。
長い時間を一緒に過ごした夫婦というのは、こういうものなのだろうか。
言葉が足りない。
けれど、相手の望みは覚えている。
腹立たしい。
でも、そばにいる。
「でもね」
老婦人の声が、また少しだけ沈んだ。
「私は今でも、悪いと思っているの」
「奥様が、ですか」
「ええ。あの子のことをね」
老婦人は笑っていた。
けれど、さっき浮かんだ涙は、まだ消えていなかった。
「私のせいで、この人に子を抱かせてあげられなかった」
「家を継ぐ子も残せなかった。小さな服も、一度も着せてあげられなかった」
馬車の中が、いつのまにか黙っていた。
誰も、笑わない。
誰も、口を挟まない。
揺れる馬車の中で、老婦人の声だけが静かに残っていた。
老夫が、初めて老婦人の方を見た。
「お前だけが悪いのではない」
短い声だった。
老婦人は少しだけ目を伏せた。
「分かっているわ」
「分かっておらん」
老夫は、老婦人の膝にかかっていた毛布を直した。
その手つきは不器用だった。
けれど、乱暴ではなかった。
「わしも、抱きたかった」
老婦人の指が、毛布の上で止まった。
老夫は、それ以上すぐには言わなかった。
ただ、硬い声で、続けた。
「泣けなかっただけだ」
老婦人は何も言わなかった。
「泣けば、お前がもっと泣くと思った」
老婦人の目から、とうとう一粒だけ涙が落ちた。
老夫は、老婦人の顔を見ないまま言った。
「わしは、お前と結ばれたことに後悔はしていない」
老婦人は、困ったように笑った。
「ね。今では、こういうことを言うのよ」
声が少しだけ震えていた。
「若い頃に言ってくれればよかったのにねえ」
老夫は何も言わなかった。
ただ、毛布を直した手を、そのまま老婦人の膝の上に置いた。
老婦人は、その手に自分の手を重ねた。
私は、目をそらせなかった。
若い頃に欲しかった言葉を、何十年も経ってから受け取る。
それは幸せなのだろうか。
寂しいことなのだろうか。
私には、まだ分からない。
でも、老婦人が老夫の手を握った時、二人の間に流れた長い時間だけは、少し分かった気がした。
殿方というものは、どうしてちょうどよくできないのだろう。
言わなすぎる人もいる。
言いすぎる人もいる。
どちらにしても、受け取る側の心は騒がされる。
私は、レオンハルト殿下を思い出してしまった。
すぐに、頭を振って、忘れようとした。
若い頃に言えなかった言葉。
遅れて届いた優しさ。
長い時間をかけて、ようやくほどける後悔。
私には、まだ分からないことばかりだ。
ぼんやりと考えていたら、もう日は傾いていた。
馬車の外の光が、橙色に変わっている。
そういえば、今日は野宿だと聞いていた。
人生初の野宿。
私は、ちゃんと眠れるのだろうか。
虫はいるのだろうか。
地面は固いのだろうか。
……食事は、ちゃんと出るのだろうか。
そんなことを心配している自分に、少し笑ってしまった。
一人で歩くと決めた。
もう私は、前を向くしかないのに。