作品タイトル不明
第26話 まだ知らない道へ
結局、その夜は、このホテルに泊まることになった。
疲れていたし、危ないと言われると断れなかった。
レオンハルト殿下は、公務があるから私はゆっくり休むようにと言った。
宿には連絡してもらえるらしい。
本当に、何から何まで勝手に進める人だ。
私はホテルの窓から外を見ながら、ひとりごとのように呟いた。
「殿下は、私の前では嘘をつかない」
それは、嬉しい。
私が嘘をつく人を警戒していることを、殿下は分かっているのだと思う。
だから、あの人は隠さない。
「でも、あれほど正面から言われると困る」
私が泣いたこと。
殿下が嫉妬したこと。
第三王子の身分など不要だと言ったこと。
エリオット様との関係にまで踏み込んできたこと。
全部、思い出すだけで胸が落ち着かない。
「殿下は強引で、厄介で、腹立たしい」
そこは間違いない。
「でも、優しいところも分かる」
私を粗末に扱ったことはない。
逃げ道を全部塞ぐように見えて、最後の一線は越えない。
腹立たしいほど見ていて、腹立たしいほど手を回す。
「国のため、民のために動いていることも分かる」
分かってしまう。
だから、余計に困る。
私はそこで、言葉を止めた。
窓の外は暗い。
港町ミラの灯りが、遠くで揺れている。
認めたくない。
でも、もう認めるしかない。
「どうも私は、レオンハルト殿下を好きになっている」
声に出した瞬間、胸が痛くなった。
「困る」
私はもう一度、呟いた。
「それは、本当に困る」
好きだからこそ、近づいてはいけない気がする。
好きだからこそ、また誰かの婚約者や妃という言葉に絡め取られそうで怖い。
そんなことを考えているうちに、睡魔が襲ってきた。
*
食べ過ぎと疲れのせいで、翌朝はまた日が高くなってから目覚めてしまった。
これは、ベッドが気持ちよすぎたせいだ。
仕方ない。
そう思うことにした。
目が覚めると、侍女の方が入ってきた。
「身支度を整えましょうか」
そう聞かれたけれど、そこまでしてもらう必要はないので断った。
すると、侍女の方は一通の手紙を差し出した。
「レオンハルト殿下からでございます」
嫌な予感しかしない。
それでも、受け取らないわけにはいかなかった。
私は封を開けた。
手紙には、殿下らしい、きれいな字が並んでいた。
君には本当に感謝している。
通商交渉がまとまった功績は大きい。
君の家に害が及ばないように対策はした。
私が帰れば、ラングフォード伯爵家を侯爵家へ格上げする方向で動くつもりだ。
これは、君が受け取るべき当然の報酬だ。
私に感謝する必要はない。
ただし、侯爵家に上げるのは、私と婚約する時の障害を少なくする思惑もある。
私は、手紙を持ったまま固まった。
「……本当に、正直ですね」
思わず声が出た。
私の心配事を分かっている。
私を守ろうとしてくれている。
家にも害が及ばないようにしている。
ラングフォード家は、政治闘争に負けた。
侯爵家に戻ることは、家にとって悲願だった。
侯爵家に格上げされれば、父と母は本当に喜ぶだろう。
妹のリリアも、家の格が上がれば嫁ぎ先で過ごしやすくなる。
「……いや、あの子はわがままが増えそう」
思わず笑ってしまった。
家にとっては良いことだ。
本当にありがたい。
「でも、私にとって良いことかは、まだ分からない」
親切なのは分かる。
でも、私の心の中に土足で入ってくる。
しかも、堂々と。
侯爵家。
婚約。
当然の報酬。
「本当に、次から次へと勝手に決める人ですね」
やはり、この街は去ろう。
私の心は決まった。
荷造りは、ほとんど終わっている。
この街は好きだ。
港町ミラは、私にたくさんのものを見せてくれた。
市場のにぎわい。
魚介料理。
美術館。
博物館。
図書館。
劇場。
マリベルさんとのお茶。
自由に歩く楽しさを、私はここで知った。
けれど、今は離れた方がいい。
このままここにいたら、レオンハルト殿下にも、エリオット様にも、ずるずると巻き込まれてしまう。
私はまだ、一人で歩きたい。
誰かの婚約者でも、誰かの妃でもなく。
私自身の足で。
内陸へ行こう。
私一人でも歩ける道を探すために。
私はすぐに、二通の手紙を書いた。
まずは、エリオット様へ。
心配しないでほしいこと。
一度、ミラを離れること。
リュミエール国へ向かうこと。
そして、またミラへ戻るつもりがあること。
丁寧に書いた。
エリオット様は、きっと心配する。
だから、できるだけ不安にさせないようにした。
それから、レオンハルト殿下への手紙を書こうとした。
けれど、便箋を前にした途端、腹が立ってきた。
ありがとうございました。
勝手に外堀を埋めないでください。
「……違う」
私は書きかけた文を見つめた。
ありがとうございました。
侯爵家も婚約も、勝手に決めないでください。
「これも違う」
ありがとうございました。
殿下のそういうところが本当に嫌いです。
「これは、わるくない」
でも、嫌いと書くと、殿下がにやける姿が浮かぶ。
私はしばらく筆を持ったまま固まっていた。
そして、短く書いた。
「ありがとうございました。殿下も、どうぞお元気で」
それだけだ。
十分だと思う。
むしろ、これ以上書いたら、余計なことを書いてしまいそうだった。
私は、レオンハルト殿下への手紙を侍女の方に渡した。
エリオット様への手紙は、宿の女将に預けることにした。
あの女将なら、きっときちんと届けてくれる。
*
そして、今。
私は乗合馬車に揺られている。
内陸の小国、リュミエール国。
アステリア連合国の一部でありながら、港町ミラとはまったく違う文化を持つ国だ。
古代ルミナ遺跡。
温泉。
山間の町。
きっと、私の知らない景色がある。
私の知らない世界がある。
そう思うと、胸が弾んだ。
馬車は、ゴトゴトと音を立てて進んでいく。
砂ぼこりの向こうには、まだ知らない道が続いている。