作品タイトル不明
第22話 今は決められません
ベランダで、私たちはしばらく黙って夜景を見ていた。
横にいるエリオット様の鼓動が聞こえそうだ。
エリオット様の顔が険しい。
なにか嫌な予感がする。
目の前には、ミラの港町の灯りが広がっている。
本当に綺麗だ。旅にでなければ見られなかった景色だ。
私はどう切り出せばよいのか分からず、扇を握ったまま黙っていた。
すると、突然、エリオット様が膝をついた。
何が起こるの。私はどうすればよいの。
私は驚いて、手にしていた扇を落としてしまった。
「エレノア嬢」
真剣な声だった。
「だまして夜会に連れてきたこと。そして、あなたの了承もないまま、父上と母上に紹介したことを謝罪したい」
乾いた音が、ベランダに響く。
「いえ、お立ちください」
慌てて言った。
「謝罪は受けます。受けますので、お立ちください」
けれど、エリオット様は膝をついたままだった。
「最初に船であなたに会ってから、今までずっと考えていました」
エリオット様の声は、もう取り繕っていなかった。
「私の気持ちは、一時的なものなのか。それとも、そうではないのか」
私は何も言えなかった。
「あの船の嵐の時、私はもう駄目だと思いました」
エリオット様は下を向いたまま続けた。
「私が死ねば、父上と母上がどれほど悲しむか。そう思うと、情けないことに涙が出ていました」
あの嵐の記憶が、胸の奥でよみがえる。
激しい雨。
傾く船。
怒号。
冷たい風。
そして、必死に立っていたエリオット様の姿。
「けれど、あなたは甲板まで来た。荷を下ろし、船の重心を下げることを伝えに来てくれた」
私は、あの時の自分を思い出した。
怖かった。
逃げたかった。
けれど、何もしなければ船が沈むと思った。
だから動いただけだ。
「あなたは、他の令嬢とは違いました。泣くのでも、叫ぶのでもない。常に前を見て、常に希望を捨てない人だと、改めて感じた」
違う。
私はそんな立派な人間ではない。
ただ、怖くて、必死だっただけだ。
そう言いたかったのに、声が出なかった。
「嵐の中、甲板まで来てくれたあなたを見た時、私はあなたを守ると決めました」
エリオット様の声は、隠しきれないほど震えていた。
「私の中に、生きることと、守ることへの強い意志が生まれたのです」
「あとは無我夢中でした。周りに指示をして、嵐を乗り越えられた」
そこで、言葉が途切れた。
「神に、何度も感謝しました」
床に涙が落ちていた。
泣いていたのだ。
エリオット様は立ち上がらなかった。
顔も上げなかった。
膝をついたまま、下を向いている。
私に涙を見せたくないのだと分かった。
「泣き虫の癖は、まだ直ってないようだ」
それは、私に向けた言葉というより、自分を笑うような声だった。
私は、どうすればよいのか分からなかった。
レオンハルト殿下なら、怒ればいい。
怒っても、あの人はきっと受け流す。
けれど、エリオット様は違う。
怒れば、壊れてしまいそうで困る。
「あなたに嫌われていることは分かっています」
エリオット様の声が震える。
「それでも、私の正直な気持ちを、どうしても伝えたかった」
私は、深く息を吸った。
逃げ続けることはできる。
ごまかすこともできる。
けれど、この人は膝をついて、涙まで隠しきれずに、それでも本心を伝えている。
なら、私も逃げてはいけないのだと思った。
「どうか、お立ちください。私も、正直な気持ちをお伝えします」
エリオット様は、ようやく立ち上がった。
目元には、まだ涙の跡が残っていた。
私は何も考えず、ハンカチを取り出して、その涙を拭いてしまった。
拭いてから、自分で驚く。
どうして私は、こんなことをしているのだろう。
エリオット様は年下だからだろうか。
どうにも、世話をしたくなる時がある。
「エリオット様」
「はい」
「エリオット様のことは、嫌いではありません」
言葉にすると、胸の奥が痛んだ。
「近くにいると、胸が高鳴ります。たぶん、好意はあります」
エリオット様の息が止まった気がした。
私は先に続けた。
「それが、今の私にはとても困ります」
エリオット様は、黙って私を見ていた。
「私は、婚約を破棄され、貴族社会から距離を置きたいと考えて旅に出ました」
夜風が冷たい。
けれど、言葉を止めるわけにはいかなかった。
「今は、婚約とか、結婚とか、そういうことに振り回されたくないのです」
私は、扇を拾うことも忘れていた。
「私の心の中にも、嵐の中のエリオット様の姿は焼きついています」
あの時のエリオット様を、忘れられない。
船倉に人と荷を運んできてくれた姿。
嵐が過ぎ去ったあとに、一番に私に伝えに来てくれた姿。
暗い船倉で冷たい海水につかり、泣くことしかできなかった私を支えて、船室に連れて行ってくれた姿。
私を救ってくれた。
あの時、本当に王子様のようだと思った。
でも、皮肉なことに、本当に王子様だった。
「でも、今の私は、それらを忘れたいのです」
エリオット様が、私の手を握った。
近い。
困る。
心臓が跳ねる。
「私のことを、好きだと言ってくださるのですか」
その声は、信じたいのに信じきれないような声だった。
私は逃げなかった。
「たぶん、好意はあります」
そこまでが、今の私に言える精一杯だった。
「でも、今は決められません。将来も分かりません」
エリオット様の手に、力が入った。
「私は、貴族社会も、王族の社会も、自分には合わないと感じています」
言葉にするたび、胸が苦しくなる。
けれど、言わなければならない。
「今は、一人で考えたいだけなのです」
それから、もう一度エリオット様を見た。
「そして、一人で歩いてみたいだけなのです」
私は、握られた手を見た。
エリオット様は、そっと手を離してくれた。
エリオット様の顔から、張りつめていたものが抜けた。
私はようやく息ができた。
私も、自分の気持ちを正直に伝えられたからかもしれない。
胸につかえていたものが、やっと落ちた。
「レオンハルト第三王子の妃になるという話は?」
エリオット様が尋ねた。
「あれは、殿下が場を有利に進めるために言っただけです」
私ははっきり答えた。
「根も葉もないことです」
エリオット様は、深く息を吐いた。
「あなたの口から、そのことが聞けて安心しました」
「よかった。第三王子の将来の妃が、旅人の服で海を渡るとは思っていませんでした」
その言葉に、私も肩の力が抜けた。
ようやく、ゆっくりと呼吸できるようになった。
それでも、すべてが解決したわけではない。
私はまだ旅人でいたい。
エリオット様は王太子殿下だ。
その距離は、簡単には消えない。
けれど今だけは、逃げるためではなく、自分の足で立っている気がした。
その時だった。
庭の方で、人の動きが乱れた。
警備の兵たちが、慌ただしく走り出す。
何かあった。
そう思った瞬間、王宮の中からも足音が響いた。
扉が開き、兵士が広間へ駆け込んでくる。
「ルーベル王国の通商交渉使節団が襲撃を受けました!」
その声が、夜の空気を切り裂いた。
私は息を止めた。
ルーベル王国の使節団。
それは、レオンハルト殿下たちのことではないのか。