作品タイトル不明
第18話 大きな失念
馬車の窓から見えるミラの港町は、昼とは違う顔をしていた。
街灯の淡い光が石畳に落ち、酒場の扉が開くたびに、笑い声と音楽が外へこぼれる。
夜だというのに、人の流れはまだ途切れない。
王都とは違う。
潮の匂いと、酒と、焼いた魚の匂いが混ざった、少し騒がしくて、少し懐かしいような夜だった。
馬車の中から、この景色を見られたことだけは得をした気分になる。
けれど、私は決めていた。
そろそろミラを離れよう。
この町は好きだ。
友達もできた。
離れるのは嫌だ。
けれど、ここにいると王族につかまる。
それは、よく分かった。
伯爵家の娘が、王族と親しくなる。
それだけでも十分に面倒だ。
まして、妃だの、将来だの、そんな言葉がついて回るなら、厄介事に巻き込まれる未来しか見えない。
茶会では、王族に嫁いだ娘の話を何度も聞いた。
愛されている間は美談になる。
けれど、その愛が別の女性へ向いた時、残された妃がどれほど惨めな思いをしたか。
そんな話を、ご婦人たちは紅茶を飲みながら語る。
それなのに、娘をより高い家へ嫁がせようとする。
貴族社会は、本当に矛盾だらけだ。
私は、そこから少し距離を置きたい。
ただ、それだけなのに。
レオンハルト殿下が、ただ人を振り回して楽しんでいるだけではないことは分かっている。
側室の子で、後ろ盾が強くない。
あの軽さも、強引さも、どこかで自分を大きく見せるための鎧なのだろう。
少しでも弱く見せれば、冷遇される。
自分だけではなく、母親までも。
あの人は、思っているよりずっと繊細なのかもしれない。
エリオット様も、とても優しい。
年下なのに、落ち着いていて、私を包むようにいたわってくれる。
でも、あの方は皇太子だ。
私に向けられているものが好意だとしても、それは一時の感情かもしれない。
私は年上で、ただの伯爵令嬢で、婚約を破棄された女だ。
皇太子なら、もっと若くて、美しくて、家柄もふさわしい娘をいくらでも選べる。
そう考えた瞬間だった。
私は、思わず声を上げそうになった。
忘れていた。
本当に、大事なことを忘れていた。
エリオット様に、通商会議に参加したと話してしまっている。
しかも今日、会議場で私は発言した。
レオンハルト殿下の横に座り、青いドレスを着て、代表団の前で話した。
そんな話が、アステリア王国で噂にならないはずがない。
あの場にいた女は誰だ。
レオンハルト殿下の妃になるという令嬢は誰だ。
どんな顔だった。
どんな声だった。
そう聞かれれば、きっと誰かが話す。
そして、エリオット様は私を知っている。
顔も。
声も。
名前も。
エレノア・ラングフォード伯爵令嬢。
その名まで、知っている。
背中に冷たいものが走った。
もし、この話がルーベル王国に届いたら。
伯爵家が困る。
私は父と母に恨みがあるわけではない。
わがままな妹だが、計算高いだけで悪意までは持っていないことは私が一番わかっている。
家や親戚に迷惑をかけるために旅に出たのではない。
制度変更は、国や民には良いことかもしれない。
けれど、損をする貴族は必ずいる。
恨みを向ける相手を探す者もいる。
レオンハルト殿下には手を出せない。
なら、横に座っていた名もない令嬢を探す。
その令嬢が、ラングフォード伯爵家の娘だと知られたら。
伯爵家など、大貴族が本気で睨めば、それだけで傾く。
困った。
本当に困った。
エリオット様は優しい方だ。
私が不利になるようなことはしないと信じたい。
でも、皇太子という立場には、多くの人間がついてくる。
本人が望まなくても、周囲が動くことはある。
ルーベル王国の貴族から見れば、私のしたことは面白くないはずだ。
そうだ。
ミラを出よう。
内陸部へ向かう。
私がいなくなれば、噂は時間とともに薄れていくかもしれない。
少なくとも、ここに留まって王族たちに見つかるよりはましだ。
宿へ戻ると、私はすぐに荷造りを始めた。
服をたたむ。
薬草の袋をしまう。
旅に必要な小物を鞄へ詰める。
持ってきたものは多くないはずなのに、焦っているせいか、何度も同じ袋を開け閉めしてしまった。
あらかた荷造りを終えたころ、少しベッドで横になった。
夕食がおいしすぎた。
まだ疲れも残っていた。
次に目を開けた時、窓の外はもう明るかった。
どうしよう。寝てしまった。
私は慌てて起き上がり、残りの荷物を鞄へ詰め始めた。
大丈夫。
まだ間に合う。
エリオット様が来ることはないと信じたい。
レオンハルト殿下は、約束を守る方だ。
そう自分に言い聞かせながら、最後の服をたたんでいた時だった。
扉が叩かれた。
私は動きを止めた。
宿の女将の明るい声が、扉の向こうから聞こえる。
「エレノア様、お客様ですよ。男の方です」
手にしていた服を、思わず握りしめた。
間に合わなかった。
私は、ただ一人で歩きたいだけなのに。
どうして、こうなるのだろう。
王族は嫌いだ。
私に拒否権はない。
どうしよう。
病気だと言って断ろうか。
けれど、相手が誰かも分からないまま断るのはまずい。
私は、しぶしぶ女将に案内されて玄関へ向かった。
そこに立っていた男性を見て、私は足を止めた。
「トマス?」
妹の元従者だった。
以前よりも、ずっと明るい顔をしている。
「エレノアお嬢様」
トマスは、深く頭を下げた。
「どうしたの。仕事の方は大丈夫なの?」
「はい。エリオット皇太子殿下の下で働かせていただいております」
「え、そうなの。それはよかった」
「エレノアお嬢様に助けていただいたおかげで、新しい生き方ができています。今の仕事は、とてもやりがいがあります」
トマスは嬉しそうだった。
その顔を見ると、責める気にはなれない。
「今日は?」
「エリオット皇太子殿下から、お手紙を預かってまいりました」
トマスは、嬉しそうに封書を差し出した。
私は、その封書を見つめた。
エリオット様から。
やっぱり。
トマスは、私の気持ちを知らない。
ただ、私が皇太子殿下に気にかけられていることを、純粋に喜んでいるだけなのだ。
封を開ける手が、少し揺れた。
けれど、もう逃げても仕方がない。
なんとでもなれ。
私は、そう思って封を切った。