作品タイトル不明
第17話 夕食だけなら
控室に戻った瞬間、緊張の糸が切れた。
私は椅子に座った。
座った、というより、崩れ落ちた。
背筋を伸ばしている余裕など、もうどこにもなかった。
会議場では、あれほどまっすぐ立っていたのに。
いまは、指先に少し力を入れるだけでも疲れる。
私は、深く息を吐いた。
終わった。
少しやり過ぎたという反省はあった。
けれど、あの場では貴族に対する怒りで動いてしまった。
しばらく、テーブルにつっぷしていると、使節団の方が声をかけてくれた。
「大丈夫ですか」
私は返事をしようとした。
けれど、その前に、相手が優しく言った。
「そのままで構いません」
私は甘えることにした。
この使節団が殿下に近い者たちで構成されていることは、前に聞いていた。
「誰も、失敗する交渉には来たくないからな」
殿下は、いつもの調子でそう言っていた。
私が発言したことも、私が誰であるかも、外へ漏らさないよう厳命しているとも聞いている。
ここでは、少しだらけても許してくれるだろう。
思わず眠りそうになったころ、使節団の方がお茶を持ってきてくれた。
それを飲むと、少しだけ息が戻った。
何とか背筋を伸ばせるくらいには、回復したらしい。
「よくぞ、まとめてくださいました」
「殿下も、私たちも、大きな成果を得られました」
「いえ」
私は慌てて立とうとした。
けれど、足に力が入らない。
カップを持つ指も、少し震えていた。
それでも、気持ちは晴れやかだった。
やり切った。
そう思えた。
「皆様のご迷惑でなかったでしょうか」
私がそう尋ねると、文官の方たちは丁寧にお辞儀をしてくれた。
言葉を重ねるより、その仕草だけで十分だった。
感謝されているのだと、分かった。
伯爵令嬢の私が、異国の通商会議で男たちを言葉で追い詰めたなどと広まらないように。
殿下は最初から考えてくれていた。
それも、分かっていた。
少し頭の回転も戻ってきたので、そろそろ殿下からどう逃げるか考えようとした。
ちょうどその時、扉が開いた。
レオンハルト殿下だった。
本当に、絶妙なタイミングで来る人だ。
やはり厄介だ。
殿下は控室に入ると、まず使節団の者たちを見た。
「ご苦労だった」
その一言で、部屋の空気が少し変わる。
皆が静かに頭を下げた。
それから殿下は、私の方を向いた。
「見事だった」
いつものからかうような声ではなかった。
静かで、まっすぐな声だった。
私は、少しだけ目をそらした。
「お褒めいただくようなことはしておりません」
「いいや。君は会議を動かした」
そう言われると、返す言葉に困る。
「夕食だけ付き合ってくれないか。今日の礼を、少しでもしたい」
軽い口調ではなかった。
丁寧に言われてしまった。
私が一瞬悩んでいると、殿下は続けた。
「ご令嬢も疲れているだろう。部屋で休んだ方がいい。このまま帰すのは心配だ」
「夕食後は、馬車で君の宿まで送らせる」
「何かを頼んだりはしない。私のわがままだが、付き合ってくれ」
まったく、私のことをよく見ている。
すぐにでも部屋で横になりたい。
そして、殿下からした手に出られると、断れない。
「はい。では、これが最後ということでよければ」
殿下は、少し渋い顔をした。
「分かった。約束しよう」
それから、控えていた侍女たちへ視線を向ける。
「部屋に連れて行け」
殿下付きの侍女たちが、私を抱えるようにして連れて行ってくれた。
情けないとは思う。
けれど、体が言うことを聞かない。
部屋に入ったあとの記憶は、ほとんどない。
どうやら、すぐに眠ってしまったらしい。
部屋の前にいた侍女の方が、少し早めに起こしてくれた。
おかげで、夕食の席へ向かう前に、どうにか身支度を整えられた。
夕刻、侍女の方の案内でレストランに向かった。
レオンハルト殿下が、いつものような明るい笑顔で迎えてくれる。
「ご令嬢、顔色がよくなったようだな。安心した」
「ありがとうございました」
「今夜くらい、形式は不要だ。町娘として接してくれ」
殿下の言葉に反論するのも、もう疲れていた。
「では、そのようにします」
そう言って、私はテーブルについた。
用意された夕食は、やはり豪華だった。
見られているのは分かる。
けれど、お腹は空いている。
この人の前で取り繕っても無駄だと、もう諦めていた。
殿下の計算だと分かっているのが腹立たしい。
それでも、食事はおいしかった。
悔しいくらい、おいしかった。
私が食事に夢中になっている間に、殿下は三枚目の肉を食べていた。
肉を切りながら、こちらを見る。
「今日は本当に助かった。どのような褒美でも渡したいのだが」
「いえ、褒美などいりません。お気持ちだけで」
「まったく、欲がなさすぎる。他のご令嬢なら喜ぶのだが」
「私は町娘ですから、お礼などは不要です」
「そう怒らないでくれ。実際、困っていたのだ」
「それは分かります。ですが、最初から私に発言させるつもりだったのでは」
「まったく、すべて見抜かれる。私は平凡であったのかと思い知らされる」
殿下は、少しだけ苦く笑った。
「いや、今のは単なる愚痴だ。忘れてくれ」
そう言って、殿下はワインを口にした。
「君を使ったことは謝罪しよう」
「はい。謝罪は受けました」
「いつから気づいていたんだ」
「殿下と話した後、宿で考えていた時です」
私は、カップを置いた。
「女性から正論を言わせれば、相手は受けざるを得なくなります」
「今回の発端は、内陸の軍事技術に強いグランヴェル国です。内陸にとっては、海側の貴族を苦々しく思っています」
「グランヴェル国の不満は、かなり和らぐ提案です」
「誰か第三者が強気で押せば、倒れる状態だと考えました」
「殿下の駒としては、私が一番使いやすかったのでしょう」
殿下が、嬉しそうに拍手した。
「まったく、その通りだ。しかし、私は途中で助け船が必要だと考えていた」
「君の目線の使い方、発言の正当性、そして何より、相手を挑発してそれを利用するところ」
殿下は、本当に楽しそうに言った。
「君といると驚かされる。本当に面白い。愉快だ」
「はい。私も殿下から学びましたから」
「まったく、ぶれないな」
「ぶれません」
そう答えると、殿下は少しだけ静かになった。
「私が心から感謝していることだけは、分かってほしい。そして、民のためにやっていることも」
私は、少しだけ黙った。
この人がただ面白がっているだけではないことは、分かっている。
民のため。
国のため。
古いものを変えるため。
それが嘘ではないことも、分かっている。
だからこそ、腹立たしい。
「はい。それは分かっています」
私は言った。
「だから、殿下は厄介で、嫌いです」
殿下は一瞬だけ黙った。
それから、喉の奥で小さく笑った。
「嫌いか」
「はい」
「なかなか厳しいな」
「小娘を巻き込まないでください」
「これ以上、機嫌を損ねられたら困るな」
殿下はそう言って、静かに立ち上がった。
「では、馬車で送らせよう」
「ありがとうございます」
私は頭を下げた。
「殿下も、お元気で」
そう言うと、殿下は少しだけ目を止めた。
その顔から、いつもの笑みが消えた。
けれど、何も言わなかった。
馬車に乗せられた時、私は晴れ晴れした気分だった。
やっと一人で自由に旅ができる。
そう思っていた。
しかし、私は大きな失念をしてしまっていた。