軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第15話 一人旅を楽しんでいたのに

それから一週間ほど、私は一人で港町ミラを歩いた。

美術館へ行った。

博物館へ行った。

図書館にも行った。

劇場で芝居も見た。

市場の人たちとも、少しずつ話せるようになった。

一人で食堂に入る時にも、もう緊張しなくなった。

最初は扉の前で三度も迷っていたのに、今思うと少し恥ずかしい。

今では、店の人に「今日のおすすめは何ですか」と気軽に聞ける。

隣の席の夫人から「お一人なの?」と驚かれても、私は普通に答えられるようになっていた。

「はい。一人で観光しています」

たいていは驚かれる。

けれど、それにももう慣れてきた。

お店の人にすすめられた魚の煮込みは、驚くほどおいしかった。

私は、少しずつ自由になっていた。

誰かに連れられて歩くのではなく。

誰かの顔色をうかがって座るのでもなく。

自分で店を選び、自分で扉を開け、自分で食べたいものを頼む。

それだけのことが、こんなに楽しいとは思わなかった。

誰かの娘でもなく。

誰かの婚約者でもなく。

誰かの妃候補でもなく。

ただ、自分の足で歩く旅人として。

そして何より嬉しかったのは、友人ができたことだった。

マリベルさん。

私より少し年上で、陽気で、よくしゃべる人だ。

市場の布屋で知り合ったのだけれど、気づけば一緒にお茶を飲む仲になっていた。

「ミラを見たと言うなら、丘の上から町を見なきゃだめよ」

マリベルさんは、お気に入りだという店で紅茶を飲みながら、楽しそうに言った。

店の窓からは、通りを行き交う人々が見える。

商人も、水夫も、旅人も、見慣れない服の人も多い。

港町は、ただ座って眺めているだけでも飽きない。

「丘ですか」

「そう。少し歩くけどね。頑張って登ると、港も、大聖堂も、市場も、ぜんぶ見えるの」

「それは見たいです」

「でしょう? 朝のうちに行くのがいいわ。昼を過ぎると暑いし、夕方は恋人たちが増えるから」

「恋人たち」

「そうよ。夕日を見るには最高だから」

マリベルさんは、にやりと笑った。

私は紅茶のカップを持ったまま、少しだけ視線をそらした。

恋人。

今の私には、できるだけ考えたくない言葉のはずだ。

そう思ったのに、なぜか赤いバラと、抱き寄せられたことを思い出した。

私だって、誰かに優しくされれば嬉しい。

恋をあきらめたわけでもない。

いつか結婚して、子どもを授かる未来を、まったく望んでいないわけでもない。

でも、今は違う。

幼いころから、良い家に嫁ぎなさいと言われてきた。

男子を生んで、嫁としての場所を守りなさい。

それがあなたの役目だと。

今は、その言葉に反発していることも分かっている。

けれど、旅に出て、嵐に遭い、一人で食堂に入れるようになって、町の人と気さくに話せるようになった。

旅に出なければ、一生私には縁のない世界だった。

今は、この自由を縛る恋はしないと決めている。

「では、明日の朝に行ってみます」

「ええ、それがいいわ。丘の上には小さな甘味屋もあるから、そこで蜂蜜菓子を買うといいわよ」

「蜂蜜菓子」

「今、目が輝いたわね」

「気のせいです」

「そういうことにしておくわ」

マリベルさんは声を上げて笑った。

その時だった。

通りのほうから、やけによく通る声が聞こえてきた。

「港町ミラの景色は素晴らしいな。人々が生き生きしている」

私は、紅茶のカップを持つ手を止めた。

嫌な予感がした。

とても、嫌な予感がした。

声のしたほうを見ると、護衛を連れた男性がこちらへ歩いてくる。

明るい声。

堂々とした足取り。

人目を集めることに慣れた態度。

そして、私の席へまっすぐ向かってくる迷惑な自信。

レオンハルト殿下だった。

店の空気が、ほんの少し変わった。

給仕が慌てて背筋を伸ばし、近くの客が声をひそめる。

マリベルさんは、私と殿下を交互に見た。

その顔には、完全に面白がっている色が浮かんでいた。

やめてほしい。

本当に、やめてほしい。

「ご令嬢、お茶をされているのか」

殿下は当然のように私たちの席の前で足を止めた。

「では、私もお茶にするか」

まったく、相手の同意を求めない。

私が断れないことを知っている。

「殿下、通商会議では?」

私はできるだけ平静に尋ねた。

「今日は休みだ」

「私はこれから用事があります」

「ご令嬢を探していたのだ。そう邪険にするな」

「王命の件は終わったのでは」

「君は終わったが、私はまだ終わっていない」

殿下は、勝手に椅子を引いて座った。

店の人が慌てて近づいてくる。

殿下は短く紅茶を頼み、何事もなかったように私を見る。

本当に、厄介な人だ。

「困ったことに、貴族どもの反対が強くてな。ご令嬢の知恵を借りたいのだが、どうかな」

「私などに知恵はありません」

「そう言うな」

殿下は少しだけ声を低くした。

「これが通れば、庶民の暮らしはよくなる。ご令嬢も、通すべきだと思うだろう」

「それは、そうですが」

私は口を閉じた。

レオンハルト殿下は、私の弱いところを突く。

民の暮らし。

日用品の値段。

港で止まる荷。

途中で消える金。

内陸へ届かない品物。

そういうものを出されると、ただ嫌ですとは言いにくい。

私は、しばらく考えた。

貴族の損がないように、貴族だけが扱える品を用意すれば、案は通るかもしれない。

けれど、それでは解決にはならない。

結局、民の暮らしは後回しになる。

貴族の面子。

昔からの決まり。

家の利益。

男たちは、いつもそういうものばかり大事にする。

私は、それを知っている。

黙って微笑んでいればいいと思われていた。

家のために婚約し、家のために捨てられ、それでも淑女らしくしていろと言われた。

傷ついても、怒っても、声を荒らげるな。

家の恥になるから。

淑女らしくないから。

女なのだから。

そう言われ続けてきた。

そのくせ、男たちは自分の面子と過去の決まり事には、いくらでも声を荒らげる。

最後には、戦争などという最も馬鹿げた手段に出る。

私の自由を奪う者たち。

民の暮らしを見ない者たち。

自分の利益だけを守ろうとする者たち。

だんだん、腹が立ってきた。

私は、静かにカップを置いた。

「殿下」

「なんだ」

「分かりました」

レオンハルト殿下の息が、ほんの少し止まった気がした。

「私に、会場での発言権をお与えください」

「ご令嬢が発言する?」

「はい」

マリベルさんが、隣で小さく息をのんだ。

店の空気まで、少し止まったような気がした。

けれど私は、もう引かなかった。

「私が話します」

レオンハルト殿下は、しばらく私を見ていた。

それから、楽しそうに笑った。

「面白い。与えよう」

「どのような話をするか、聞かなくてよいのですか」

「構わない。そんなことを先に聞いたら、楽しみが減る」

この人は、本当におかしい。

でも、私ももう腹を決めてしまった。

「明日、会場に行きます」

「助かる」

「ただし、これで本当に終わりにしてください」

「善処しよう」

「その言葉が一番信用できません」

殿下は声を上げて笑った。

その笑い方が、少しだけ楽しそうすぎて腹が立つ。

「では、今日は一緒に豪華なディナーはどうかな」

う。

一瞬、誘惑に負けそうになった。

本当に一瞬だけ。

けれど、私は首を振った。

「お断りします」

「残念だ」

「明日、会場に行きます。それだけです」

「では、これを受け取れ」

殿下は護衛に目配せした。

差し出されたのは、封蝋のついた小さな通行証だった。

「明日の会場に入るためのものだ。使節団の服は用意しておく」

「服までですか」

「会場で発言するなら、それなりの形がいる」

私は通行証を受け取った。

手の中で、封蝋がやけに重く感じた。

自由に歩いていたはずなのに。

また、会場へ戻ることになった。

けれど今度は、ただ後ろの席に座らされるためではない。

自分の言葉で話すためだ。

レオンハルト殿下は、満足そうに立ち上がった。

「明日を楽しみにしている」

「私は楽しみではありません」

「そうか? 私はとても楽しみだ」

本当に、腹立たしい人だ。

殿下が護衛を連れて店を出ていくと、しばらくしてマリベルさんが身を乗り出してきた。

「ねえ」

「はい」

「あなた、何者なの?」

私は通行証を握ったまま、深く息を吐いた。

「私にも、少し分からなくなってきました」

明日は、小高い丘へ行くはずだった。

蜂蜜菓子を買って、港町を見下ろすはずだった。

それなのに私は、通商会議の場に立つことになっている。

淑女らしく黙っているためではない。

私の自由を奪う人たちに、言いたいことを言うために。