軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第14話 エリオット様が宿で心配していました

翌朝、私は無事にレオンハルト殿下から逃げてきた。

殿下は何か言いたそうだったけれど、私は先に深く礼をした。

「それでは、失礼いたします」

言い終えると同時に、私はレオンハルト殿下の宿を出た。

昨日の殿下の漆黒の瞳と、妃になれという言葉は、まだ私の心に残っている。

本当に厄介で、腹立たしい殿下だ。

しかも、昨日の料理はとてもおいしかった。

『この宿で一番良い食材で作らせた料理だ。口に合ったかな』

昨日の殿下の言葉を思い出した。

私は思わず足を止めた。

もしかして、私が食いしん坊であることまで見抜かれていたのだろうか。

いや。

違う。

たぶん、違う。

そう思いたい。

ひとまず、身支度を整えるために私は自分の宿へ戻ることにした。

宿の入口近くに、見覚えのある姿があった。

私は驚きで、足が止まってしまった。

エリオット様が、宿の前で旅人の服で立っていたのだ。

私の姿を見つけた瞬間、エリオット様は駆け寄ってきた。

「宿の女将から朝、エレノア嬢が戻らないと連絡があり、心配になりこちらまで来てしまいました」

「宿の人と連絡を取られていたのですか」

「異国で女性が一人ですし、私にとっては、だい……いえ、放っておけない方ですから」

「……エリオット様」

そういえば、私は昨日、突然レオンハルト殿下に連れていかれたのだ。

宿に連絡など、できるはずもなかった。

けれど、まさかエリオット様が待っているとは思わなかった。

「申し訳ありません。ご心配をおかけしました」

私は深くお辞儀をした。

けれどエリオット様は、怒るでもなく、静かに微笑んでいる。

「すみません。危険な目に遭っていたわけではありません」

私は慌てて言った。

「あの、その、通商会議に無理やり参加させられて、昨日はレオンハルト殿下の宿に泊まることになってしまいました」

「通商会議に参加?」

「はい。でも、話が長くなるので……」

「いえ」

エリオット様は、それ以上聞かなかった。

「無事なら、それでいいです」

責める声ではなかった。

だからこそ、少しだけ申し訳なくなる。

「私はこの後、身支度を整えて観光に行きますので、エリオット様はお帰りください」

そう言ってから、私はもう一度頭を下げた。

「本当にすみませんでした。皇太子様が心配してくださっているとは、思いもしませんでした」

「いえ。私は、ちょうど今日は公務が空いていただけです」

エリオット様は淡々と言った。

それから、少しだけ声を和らげる。

「むしろ、あなたに会える口実ができてよかったかもしれません」

私は、返す言葉に困った。

「よければ、身支度が終わりましたら、私にミラの町を案内させてください」

困った。

これは、断ったら失礼だ。

昨日はレオンハルト殿下に振り回され、今日はエリオット様に案内される。

どうして私は、旅に出たはずなのに、王族から逃げられないのだろう。

「……はい。今日一日だけなら」

そう答えると、エリオット様は安心したようにうなずいた。

「ありがとうございます」

礼を言われるようなことではない。

そう思ったけれど、口には出せなかった。

身支度を整えたあと、私はエリオット様と港町ミラへ出た。

朝の市場は、想像していたよりずっと賑やかだった。

港から運ばれてきた木箱。

魚を売る声。

焼き菓子の甘い匂い。

異国の香辛料。

色鮮やかな布。

見たことのない形の果物。

私は、できるだけ落ち着いて歩こうとした。

断ったら失礼だから。

心配をかけたから。

今日一日だけだから。

そう自分に言い聞かせていた。

「人が多いですね」

「港町ですから」

エリオット様は、私の少し横を歩いていた。

近すぎず。

遠すぎず。

必要な時だけ、すぐ手が届く距離だった。

人波が急に強くなった。

横から押され、足元が少し流される。

その瞬間、エリオット様が私の手を取った。

「失礼」

「……エリオット様?」

「はぐれると困ります」

「子どもではありません」

「分かっています」

エリオット様は、私の歩く速さに合わせながら言った。

「ですが、人が多い」

強く引くわけではない。

急かすわけでもない。

ただ、手だけは離さない。

私は文句を言おうとした。

けれど、すぐ近くを荷を抱えた男たちが通り過ぎ、言葉を飲み込んだ。

確かに、人は多い。

それに、さっきのままなら、私は本当に流されていたかもしれない。

だから仕方ない。

これは仕方ないのだ。

人混みを抜けると、エリオット様はすぐに手を離した。

「失礼しました」

「……いえ」

私は、なぜか少しだけ拍子抜けした。

離されたのだから、それでよかったはずなのに。

本当に、今日は調子が狂う。

市場の奥へ進むと、焼き菓子の屋台があった。

薄く焼いた生地に、蜂蜜と砕いた木の実を挟んだものらしい。

香ばしくて、甘い匂いがした。

私は見ていないふりをした。

昨日、レオンハルト殿下の料理がおいしかったことを思い出したばかりだ。

ここでまた食べ物につられるのは、なんだか負けた気がする。

だから、見ていないふりをした。

見ていないふりをしたのに、エリオット様が足を止めた。

「食べますか」

「……見ていただけです」

「三度見ていました」

「数えないでください」

「目に入りました」

そう言って、エリオット様は屋台の主人に焼き菓子を二つ頼んだ。

断る間もなかった。

受け取った焼き菓子は温かく、蜂蜜が少し指についた。

一口食べる。

おいしい。

悔しいくらい、おいしい。

「おいしいですか」

「……はい」

「それはよかった」

そう言われると、なぜか負けた気分になる。

私は黙って食べた。

甘さがちょうどいい。

木の実の香ばしさもある。

生地は薄いのに、噛むと少しだけもちっとしている。

「口元についています」

「え」

エリオット様の指先が、私の口元に触れた。

ほんの一瞬だった。

「粉が」

「自分で取れます」

「もう取りました」

私は言い返せなかった。

エリオット様は、何事もなかったように歩き出す。

必要なことだけをして、すぐに引く。

だから余計に、こちらが勝手に意識してしまう。

本当に、困る。

市場を抜けて、港へ向かう途中だった。

多くの人が行き交う通りで、荷馬車も行き交っていた。

本当にミラの町は活気があると周りを眺めていた。

私の前に、細い路地から、小さな子どもが飛び出してきた。

その時、荷馬車が来ていた。

「危ない!」

私は一歩遅れた。

けれど、子どもを止めなければと思った瞬間、体が前へ出ていた。

その瞬間、横から強い力で引かれた。

息をのむ間もなく、私はエリオット様の腕の中にいた。

背中に腕が回され、肩が硬い胸にぶつかる。

すぐ近くで、馬のいななきと車輪の音が過ぎていった。

子どもは、近くの男の人に止められて無事だった。

私はほっと息を吐いた。

けれど、エリオット様は私をすぐには離さなかった。

「……エリオット様」

「危ないことをしないでください」

低い声だった。

怒鳴っているわけではない。

けれど、いつもの穏やかさとも違った。

「すみません、体が勝手に動いてしまいました」

「分かっています」

エリオット様は、静かに答えた。

「だから、責めているわけではありません」

それでも、腕の力は少し強いままだった。

「ですが、あなたが怪我をするのも困ります」

私は、言い返そうとして、できなかった。

近い。

近すぎる。

さっき手を取られた時とも違う。

粉を取られた時とも違う。

逃げようとしても、逃げられない距離だった。

それなのに、怖いとは思わなかった。

顔が熱くなるのを感じて、私は下を向いた。

ただ、落ち着かない。

胸の奥が、やけにうるさい。

昨日、レオンハルト殿下に赤いバラを差し出された時とは違う。

強引に言葉で捕まえられるのではなく、本当に危ないところを引き戻された。

それなのに。

いや、だからこそ。

どうしていいのか分からない。

「……すみません」

私が小さく言うと、エリオット様はようやく腕をゆるめた。

「こちらこそ」

「え?」

「少し、力を入れすぎました」

エリオット様は、いつもよりほんの少しだけ声を落とした。

「驚かせましたね」

私は、返事に困った。

怒られるほうが、まだ言い返せる。

でも、心配されたうえに謝られると。

どう返せばいいのか、ますます分からなくなる。

「……無事でしたから」

ようやくそう言うと、エリオット様は静かに息を吐いた。

「それなら、よかった」

少しだけ間が空いた。

エリオット様は、私から視線を外すように、通りの先を見た。

「……無事だと分かっても、すぐには離せませんでした」

小さな声だった。

聞き間違いかと思った。

けれど、聞き間違いではなかった。

私は何も言えなかった。

言い返す言葉も、冗談にする言葉も、何ひとつ出てこなかった。

その後、しばらく私は大人しく歩いた。

さすがに、さっきのあとで勝手に動く気にはなれなかった。

エリオット様も、何も言わなかった。

ただ、私の歩く速さに合わせてくれる。

手は、もうつながれていない。

それなのに、先ほどまで手を取られていたことを、私はまだ覚えていた。

港が見える高台に着くころには、海風が強くなっていた。

船が並び、荷が下ろされ、船員たちの声が飛び交っている。

潮の匂い。

濡れた木材の匂い。

遠くで鳴る鐘の音。

私はようやく、少しだけ息がしやすくなった。

これが見たかったのだ。

知らない町。

知らない港。

自分で選んで歩く道。

私は、やっと少しだけ自由を取り戻した気がした。

「楽しいですか」

エリオット様が聞いた。

「はい」

答えてから、自分でも少し驚いた。

思ったより、素直な声が出てしまったからだ。

エリオット様は、それ以上何も言わなかった。

ただ、隣で同じ海を見ていた。

それが、少しだけありがたかった。

夕方になるころ、港の空は赤く染まり始めていた。

海風が冷たくなる。

私は小さく肩を震わせた。

その瞬間、ふわりと上着がかけられた。

「寒いとは言っていません」

「震えていました」

「見ていたのですか」

「見ています」

エリオット様は、当然のように言った。

私は上着を返そうとした。

けれど、海風は思ったより冷たい。

そして、借りた上着は温かかった。

悔しい。

今日は、悔しいことばかりだ。

「ありがとうございます」

小さく言うと、エリオット様は静かにうなずいた。

「こちらこそ、案内できてよかった」

私は、港の向こうへ沈んでいく夕日を見た。

今日は、一人で観光するはずだった。

断ったら失礼だから。

心配をかけたから。

今日一日だけだから。

そう何度も自分に言い聞かせていた。

それなのに、今日のことは、ひとつずつ心に残ってしまっている。

私は自由になるために旅に出たはずなのに。

どうして王族という人たちは、こうも自然に私の歩く先へ入ってくるのだろう。

昨日の赤いバラは、まだ心に残っている。

けれど今日の海風の中には、エリオット様の静かな声も残ってしまった。

困ったことになった。

けれど、今日の港町を一人で歩いていたら、きっとこんなふうには覚えていなかった。

私は借りた上着を、少しだけ握りしめた。