軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第12話 第三王子に捕まってしまいました

通商会議の場へ入る前に、私たちは聖マリア大聖堂の奥にある控室へ通された。

聖マリア大聖堂。

港町ミラの中心に立つその建物は、外から見れば、ただ美しく、清らかな祈りの場に見えた。

白い石壁。

高く伸びる尖塔。

色硝子を通して床に落ちる、淡い光。

旅人として訪れたなら、私はきっと、しばらく言葉を失って見上げていただろう。

けれど今、私がいるのは礼拝堂ではない。

大聖堂の奥に設けられた、使節団用の控室だった。

厚い扉。

磨かれた長机。

壁際に控える文官たち。

窓の外からは、かすかに鐘の音が聞こえてくる。

それなのに、部屋の中に祈りの穏やかさはなかった。

あるのは、これから始まる会議への緊張だけだ。

私は、レオンハルト殿下の少し後ろに立ちながら、部屋の空気を読もうとしていた。

ルーベル王国の文官たちは、皆、表情を固くしている。

紙束を抱えた者。

小声で何かを確認している者。

何度も襟元を直している者。

誰も、余裕があるようには見えなかった。

王族がいるのだから、もっと堂々としていてもよさそうなものなのに。

そう思ったところで、私はすぐに考えを改めた。

この会議そのものが、厄介なのだ。

「さて」

長椅子に腰を下ろしたレオンハルト殿下が、まるで茶会の前に菓子の種類を尋ねるような軽い声で言った。

「エレノア嬢。先に言っておくが、今回の会議は荒れるぞ」

「でしょうね」

私が答えると、殿下は面白そうに目を細めた。

「驚かないのか」

「ここまで連れてこられた時点で、穏やかな会議だとは思っておりません」

「賢明だ。ただし、今日はお互い様子見だ。戦いは明日からだな」

殿下は笑った。

けれど、その笑い方には、どこか苦さが混じっていた。

「昔は、ルーベル王国のほうがずっと強かった」

殿下は、机の上に広げられた地図へ視線を落とした。

そこには、ルーベル王国とアステリア連合国、そして両国の間を隔てる広い海が描かれている。

海上には、いくつもの航路が赤い線で引かれていた。

「アステリア連合国など、小国の寄せ集めにすぎない。そう考えていた者も多い。実際、かつてはそうだった」

私は黙って聞いた。

「通商会議も、ルーベルで開かれるのが当然だった。王城の会議室で、ルーベルの大臣が席を決め、ルーベルの文官が記録を取る。アステリア側は、そこへ招かれる立場だった」

招かれる。

その言葉だけで、当時の力関係は分かる。

同じ席に着いているように見えても、場を用意する側と、そこへ来る側では意味が違う。

「条件を決めるのも、ほとんどこちら側だった。アステリア側に不満があっても、飲むしかなかった」

殿下は地図の上で指を止める。

そこは、港町ミラだった。

「だが、今は違う」

その声から、軽さが少し消えた。

「アステリア連合国の盟主であるアステリア王国は、近年、かなり力を伸ばしている。善政で人を集め、港を栄えさせ、船を増やし、税収を伸ばし、軍を整えた。今のアステリア連合国は、昔のように頭を下げる小国の集まりではない」

「だから今回、会議はルーベルではなくアステリアで開かれるのですね」

私が言うと、殿下は片眉を上げた。

「その通りだ」

「力関係が変わったことを、場所そのもので示している」

「話が早いな」

殿下は笑った。

けれど、その笑みはどこか苦い。

「ルーベル王国は、まだ大国の顔をしている。だが、アステリア連合国はもう、こちらの顔色をうかがう小国の集まりではない」

控室の空気が、少し重くなった気がした。

誰かが息を呑んだのかもしれない。

あるいは、私がそう感じただけかもしれない。

「アステリア側は、関税率の見直しを求めている」

レオンハルト殿下は続けた。

「今の取り決めは、ルーベルが強かった時代のものだからな。向こうにしてみれば、不公平な古い鎖だ」

「ルーベル側にしてみれば、手放したくない既得権益ですね」

「その通り」

殿下はあっさりとうなずいた。

「税率を守れば、アステリアを怒らせる。譲れば、ルーベルの貴族どもが怒る。何も決まらなければ、無能と呼ばれる。だから誰もこの役目を欲しがらなかった」

「それを、殿下が引き受けたのですか」

「誰もやりたがらなかったからな」

軽い口調だった。

けれど、それだけではない気がした。

側室の子である第三王子。

表舞台に立つ機会が多くない王子。

誰も欲しがらない役目でも、彼にとっては数少ない機会なのかもしれない。

殿下は、地図の上を指でなぞった。

「アステリア連合国も一枚岩ではない」

その指先は、海に面した国々から、内陸へと移っていく。

「港を持つ国は、交易で潤う。海を持たない国は違う。連合国という仕組みの弱点だ」

殿下の指先が、内陸の大きな国の上で止まった。

「そこをどう切り崩すかが、この交渉の分かれ目にもなる」

私は、そこで少しだけ顔を上げた。

「殿下に勝算はあるのですか」

殿下の目が、面白そうに細くなる。

「勝算か。あると言えばある。ないと言えばない」

また、他人事のような口ぶりで話している。

私は眉を寄せた。

「私は、何をすればよいのですか」

「ご婦人たちの噂話かな」

「噂話、ですか」

「君なら、噂と真実を見極めているだろう」

私は頭痛がしそうになった。

けれど、否定はできなかった。

昔は、アステリアに娘を嫁がせたいルーベル貴族は少なかった。

アステリア側は、ルーベルとのつながりを得るために、結納や婚姻条件で破格の待遇を用意していた。

ルーベルより古い掟が少なく、嫁いだ令嬢たちの中には、思ったより良い暮らしができたと言う人も多かった。

けれど、力関係が変わった今は違う。

破格の条件はなくなった。

それでも、アステリアへ嫁ぎたい娘はまだ多い。

港が栄え、人が集まり、金が動く国。

そこに未来を感じる者が増えたのだろう。

だから、お茶会ではアステリアの話題もよく出た。

どこの国の王妃が冷遇されているか。

どこの王家と公爵家が不仲か。

どこの小国が、アステリア王国ばかり栄えることに不満を持っているか。

そういう話は、公式の文書には残らない。

けれど、紅茶と菓子の間には、いくらでも転がっている。

「複雑に入り組んでいますので、細かいことはあとでお伝えいたします」

私は、地図に目を落とした。

「噂話では、大きく三つに分かれています」

「続けろ」

「アステリア王国に従う国」

私は、海に面した国々を見た。

「内陸最大の国、グランヴェル国に従う国」

次に、地図の内陸部を見る。

「そして、どちらにもつかず、両方に良い顔をする国です」

レオンハルト殿下は、黙って聞いていた。

「アステリア王国とグランヴェル国は、血縁関係を結び、良好な関係を築いています。ただし、いまは問題があるようです」

「たとえば?」

「小国の妃に、アステリア王が強く愛情を注いでいます。そのせいで王妃が冷遇され、王妃の出身国であるグランヴェル国との関係は冷えているそうです」

殿下の目が、わずかに鋭くなった。

「ほう。その小国の妃は、君の妹と同じということなのかな」

「いえ、もっと厄介です」

私は首を振った。

「妹は、私より愛されることを望んでいるだけですから」

「なるほど。鋭い分析だな」

「その妃は、男子を産んでいます。あることないことを王妃の責任にして、自分の子を国王にすることに執念を燃やしている、という噂があります」

「なかなか強欲な妃だな」

「見た目は、穏やかでかわいらしい方らしいです」

私は、そこで少しだけ言葉を選んだ。

「けれど裏では、かなりあくどいことをしていると囁かれています」

「あはは。それは面白い噂だな」

「面白いでしょうか」

「面白いとも。両国に亀裂があるということは、私にとってはよいことだ」

殿下は笑った。

けれど、その目は笑っていない。

「グランヴェル国は、内陸最大の国だ。鉄鉱石が取れ、技術改革にも力を入れている」

「軍事技術の民間転用で、船舶の強化や農機具の改良にも関わっている」

「アステリア連合国を裏から支えている国と言っていい」

私は黙って聞いた。

「だが、港がない。農地も多くない。食料は他国に依存している」

「港湾国が交易で潤っても、グランヴェル国の国庫が同じように潤うわけではない」

「むしろ、内陸部の物価は高くなりやすい」

殿下は、地図の上でグランヴェル国の位置を指先で叩いた。

「グランヴェル国が関税に大きな不満を持ち、今回の通商交渉が開かれた」

「表向きはアステリア連合国全体の要求だが、両国の足並みを崩せれば、勝算が作れる」

私は、ようやく殿下が私を連れてきた理由を理解した。

表向きには、王や大臣たちが国を動かしている。

けれど私は、社交界で見てきた。

一人の妃の涙。

一人の愛妾の微笑み。

一人の娘の婚姻。

それだけで、家と家の関係が変わることがある。

国も、きっと同じなのだ。

公式の地図には描かれない線。

紅茶と菓子の間にだけ現れる亀裂。

殿下は、それを欲しがっていたのだ。

ちょうどその時、扉の向こうから文官の声がした。

会議の準備が整ったらしい。

レオンハルト殿下は立ち上がり、扉へ向かう。

「では行こうか、エレノア嬢」

殿下は、楽しげに言った。

「古い大国が、昔の椅子にまだ座っていられるかどうかを確かめに」

私は、その言い方に少しだけ息をのんだ。

けれど、何も言わずに後に続いた。

扉が開く。

その向こうに広がっていた会議室を見た瞬間、私は控室で聞いた話が、決して大げさではなかったのだと理解した。

聖マリア大聖堂の奥に設けられた会議室は、思っていたよりも広かった。

高い天井。

白い石柱。

壁に並ぶ各国の旗。

ルーベル宮殿の会議室より、明らかに豪華だった。

もう、弱国ではない。

そう見せつけるような部屋だった。

ルーベル使節団の者も、息を呑んでいた。

早くも劣勢に立たされている空気が感じられた。

初日の通商会議は、笑顔と共に始まった。

最初は、両国の繁栄。

お互いが協力し合うことの賛美。

両国の長い友好。

美しい言葉が並んでいた。

けれど時間が経つにつれ、声の調子は少しずつ強くなっていった。

笑顔の奥にある譲る気のなさが、はっきりと伝わってくる。

ルーベル王国側は、これまでの関税率を守るべきだと主張した。

アステリア連合国側は、それでは公平ではないと譲らなかった。

机の上には、税率表、交易品目、過去の取り決め、港の使用記録、船舶数の推移が並べられていた。

けれど、誰もそれを真正面から見ていないように思えた。

ルーベル側は、数字の後ろにある面子ばかりを見ている。

アステリア側は、数字の後ろにある屈辱ばかりを見ている。

だから、話は少しも前に進まなかった。

「現行の関税率は、長年にわたり両国間で守られてきた正当な取り決めです」

ルーベル側の文官が言う。

すると、アステリア側の代表が即座に言い返した。

「その長年が、そもそも一方的な力関係の上に成り立っていたのではありませんか」

「アステリア連合国は、もはや小国の集まりではありません」

「そのことを、お忘れなきよう。これは我々が主催する会議であります」

また空気が硬くなる。

私は、会議室の端に座らされていた。

レオンハルト殿下の同行者、という曖昧な立場だ。

発言権があるわけではない。

けれど、耳はある。

目もある。

そして、黙って聞いている時間だけは十分にあった。

レオンハルト殿下は、会議が始まってからも余裕の笑みを浮かべていた。

真剣に議論を聞いているようには見えない。

陶器に目を留め、壁の絵を眺め、柱の彫刻や天井画へ視線を移している。

「あの陶器を見てみろ。東の国から入ったものだ」

殿下は、私にだけ聞こえるほどの声でつぶやいた。

「あの絵の青も悪くない。良い染料を使っている。配合もいいのだろう」

そしてまた、会議の方へ視線を戻す。

けれど、発言はしない。

ただ退屈そうに、飾りや絵を眺めているだけに見える。

相手方の代表者たちは、レオンハルト殿下の様子を見ていた。

そして、薄ら笑いを浮かべた。

勝ち誇ったように、椅子の背へゆったりと体を預ける者もいる。

ルーベル王国は、通商会議に無能な第三王子を寄越した。

この交渉は、こちらの勝ちだ。

彼らの顔には、そう書いてあるようだった。

けれど私は、途中で気づいてしまった。

レオンハルト殿下は、会議を聞いていないのではない。

聞いている。

見ている。

誰がどの言葉に眉を動かしたのか。

誰がどの国の名に反応したのか。

誰が強気に出て、誰が沈黙したのか。

そして、この部屋に飾られた陶器や絵や彫刻が、どこの国とのつながりを示しているのか。

そのすべてを、楽しそうに見ているのだ。

相手を油断させるための芝居。

本当に、底の読めない人だ。

厄介で、苦手で、そして恐ろしいほど頭が切れる。

結局、その日は何ひとつ決まらないまま散会となった。

大聖堂を出るころには、空は夕暮れに沈みかけていた。

白い石壁が赤く染まり、遠くから鐘の音が聞こえてくる。

港町ミラは美しかった。

けれど私は、その美しさを楽しむ気分ではなかった。

そして何より厄介なのは。

この会議は、一日や二日で終わるものではないこと。

最低でも一週間。

長引けば、月をまたぐことさえあるということ。

レオンハルト殿下が、最初からそれを分かったうえで、私をここへ連れてきたことだった。