作品タイトル不明
第11話 王命という名の厄介事
私は感激に染まりながら、聖マリア大聖堂の高い天井を見上げていた。
天上界の絵の中で、光を受けた聖マリアが静かに微笑んでいる。
色とりどりのステンドグラスから差し込む光が、石の床に落ちていた。
この場所は、私が思っていたよりもずっと大きい。
美しいだけではない。
祈りも、歴史も、国の思惑も、すべて抱え込んでいる場所なのだ。
私はしばらく、その光の中に立っていた。
その時だった。
「婚約破棄したどこかのご令嬢が、旅に出たとは聞いていたが」
軽い声がした。
大聖堂の静けさには、あまり似合わない声だった。
「まさか、こんなところで出会えるとはな。人生、何が起こるか分からない」
私は声の方へ振り返った。
柱のそばに、一人の青年が立っていた。
上等な服を着ているのに、立ち方はどこか気楽だった。
少し崩した姿勢。
何もかも面白がっているような笑み。
けれど、その目だけは油断なくこちらを見ている。
私は一瞬、呼吸を忘れた。
「……レオンハルト殿下」
「覚えていてくれたか。光栄だ」
彼は楽しそうに笑った。
ルーベル王国第三王子、レオンハルト殿下。
幼いころ、王宮で何度か会ったことがある。
私より二つ年上だったはずだ。
側室の子で、強い後ろ盾はない。
けれど、王宮の中で誰も彼を軽くは扱わなかった。
何を考えているのか分からない。
次に何を言い出すのか分からない。
それなのに、気づけば会話の中心にいる。
幼いころの私には、少し怖い人だった。
そして今も、少し苦手だと思った。
「今日は天気もいい。私の気分と同じだ」
レオンハルト殿下は、まるで旧友に話しかけるように言った。
「ご令嬢はどう思う?」
何を聞かれているのだろう。
天気の話なのか。
私の噂の話なのか。
それとも、まったく別の何かなのか。
この人は苦手だ。
何を考えているのか、まったく分からない。
私は何と答えればよいのだろう。
「……良い天気だと思います」
私が無難に答えると、レオンハルト殿下は口元を上げた。
「無難な返事だな」
「申し訳ありません」
「謝る必要はない。無難な返事ができるのも、立派な処世術だ」
「褒めているのですか」
「かなり」
まったくそうは聞こえなかった。
「昔の君は、もう少し言い返した気がする」
「昔のことは、よく覚えておりません」
「それは残念だ。私はなかなか覚えているぞ」
さらりと言われて、私は困った。
覚えられていても、何を覚えられているのか分からないのが怖い。
「それにしても、ラングフォード伯爵令嬢」
「はい」
「ずいぶん質素な格好をしているな」
私は自分の旅服を見下ろした。
昨日から何度も言われている気がする。
「旅の途中ですので」
「町娘に見せたいのか?」
「……そのつもりでした」
「服だけなら、まあ悪くない」
「ありがとうございます」
「だが、背筋が令嬢のままだ」
私は言葉に詰まった。
エリオット様にも似たようなことを言われた気がする。
「皆さま、同じようなことをおっしゃいますね」
「全員が同じことを言うなら、それはだいたい正しい」
レオンハルト殿下は悪びれもせずに言った。
この人は、否定しても受け流す。
そして、気づけば自分の言いたい場所へ話を運んでいる。
「それで、君はここで何をしている?」
「観光です」
「観光」
「はい。私は聖マリア大聖堂を見に来ました」
「良い趣味だ」
「ありがとうございます」
「なら、ちょうどいい」
私は嫌な予感がした。
この人が言う「ちょうどいい」は、たぶん私にとって都合がよくない。
「これから通商会議がある。君も来い」
「殿下、意味が分かりません」
「分からないなら、見ればいい」
レオンハルト殿下は、当然のように言った。
「そんな公の場に、なぜ私が行くのですか」
「君には知識がある」
「知識だけで、会議に連れていかれては困ります」
「知識だけではない。好奇心もある。実行力もある。何より、王子に対して口を閉じない」
「それは褒めているのですか」
「かなり」
まただ。
まったく褒められている気がしない。
「王都の図書館に、朝から晩までこもれる令嬢がいるとはな」
私は眉を寄せた。
「なぜ、ご存じなのですか」
「こっそり、ご令嬢を眺めていたのさ」
私は思わず言い返してしまった。
「こっそり眺めるとは、淑女に対して失礼ではありませんか」
「そういう返しができるなら十分だ」
「十分とは、何がですか」
「通商相手は、もっと失礼なことを言う」
私は言葉に詰まった。
話が飛んでいる。
けれど、飛んだ先で妙に筋が通っているのが腹立たしい。
「私は観光に来たのです」
「なら、観光の続きだ」
「通商会議が、ですか」
「そうだ」
レオンハルト殿下は、ステンドグラスの光が落ちる石床を見た。
「聖マリア大聖堂は美しい。だが、ここは祈りの場であると同時に、国同士が腹を探り合う場所でもある」
彼は軽く笑った。
「君は大聖堂を見に来た。なら、その裏側も見ていけ」
「私は、しばらく貴族社会から距離を置きたいのです」
「距離を置くのは自由だ」
あっさり認められて、私は一瞬だけ安心しかけた。
けれど、レオンハルト殿下はすぐに続けた。
「だが、君はまだラングフォード伯爵令嬢だ。君の父上は王に仕えている。そして私は、王命を受けてここに来ている」
嫌な予感が、背筋を走った。
「……まさか」
「そのまさかだ」
レオンハルト殿下は、にこやかに言った。
「王命を受けた第三王子の協力要請を、ラングフォード伯爵令嬢は断るのか?」
「それは、脅しではありませんか」
「いいや」
彼は胸に手を当てた。
「非常に丁寧なお願いだ」
「どこがですか」
「笑顔で言っているところだ」
私は思わず、高い天井の聖マリアを見上げた。
光を受けた聖マリアは、ただ静かに微笑んでいる。
助けてくださる気は、なさそうだった。
「殿下は、相変わらず強引でいらっしゃいますね」
「相変わらずと言えるほど覚えているではないか」
しまった。
私の言葉は、すぐに拾われる。
「今のは言葉のあやです」
「言葉のあやを使えるなら、会議でも困らない」
「困ります」
私は、思わず王子をにらみつけてしまった。
「困っている顔には見えないのだが」
「それは褒め言葉ではありません」
「褒めている」
この人の褒め言葉は、なぜこうも腹が立つのだろう。
レオンハルト殿下は、私の返事を待たずに歩き出した。
「まだ承諾していません」
「承諾は、歩きながら考えればいい」
「殿下」
「王命である。それ以上の反論は無意味だ」
私は深く息を吐いた。
一人旅だったはずなのに。
社交界から距離を置きたかったはずなのに。
私は聖マリア大聖堂を見に来ただけだった。
それなのに、今は通商会議に連れていかれようとしている。
どうしてこうなるのだろう。
大聖堂の奥へ続く通路は、入口付近とは空気が違っていた。
人の声は遠くなり、石の床を踏む音だけが静かに響く。
一般の人間が入れる場所は入口付近までだ。
その先は、王族や各国の使者、教会関係者のための場所。
私は本来なら、足を踏み入れるはずのない場所だった。
それなのに、今は第三王子に連れられて、その境目を越えようとしている。
その少し前を歩きながら、レオンハルト殿下は独り言のように言った。
「ヴェルナー侯爵家も、君を手に入れていれば安泰だったのにな」
私は顔を上げた。
「息子のカイルは甘やかされた。何もかも自分の物になると考えている。愚かな男だ」
レオンハルト殿下は振り返らなかった。
「あの家が侯爵家でいられるのも、そう長くはないだろう」
「殿下」
「どこかのご令嬢が婚約を破棄し、慰謝料まで取ったと聞いた時は、大笑いした」
軽い声だった。
けれど、通路に響くその声は、なぜか冷たく聞こえた。
「だが、そのご令嬢が一人で旅に出たと聞いた時は、驚いた」
レオンハルト殿下は、そこで少しだけ足を緩めた。
「そして、少し尊敬した」
私は言葉に詰まった。
からかわれているのか。
本気なのか。
やはり、この人はよく分からない。
「私も遊びで来ているわけではない」
レオンハルト殿下は、前を向いたまま続けた。
「今まで、公の場の職務はほとんど与えられなかった。今回の通商会議は、私にとって数少ない表舞台だ」
声は軽かった。
けれど、足取りは止まらない。
「失敗すれば、また王宮の隅に戻される。側室の子には、次の機会などそう多くない」
私は何も言えなかった。
その言い方は、同情を求めるものではなかった。
ただ、事実を確認するような声だった。
「……そのようには見えません」
「見えないようにしている」
それだけ言って、レオンハルト殿下は少し笑った。
「弱みは、誰に見せるかで違ってくるからな」
私は返す言葉を失った。
軽口のように聞こえるのに、その声は少しだけ低かった。
この人は、何を考えているのか分からない。
けれど今の言葉だけは、ただ私をからかうためのものではない気がした。
「それを、私に見せてよろしいのですか」
「だから見せている」
「……意味が分かりません」
「分からないなら、そのままでいい」
レオンハルト殿下は、振り返らずに歩き続けた。
「ラングフォード家も、ヴェルナー家も、家の格に振り回されている。侯爵家、伯爵家、婚姻、派閥。どれも別々に見えて、実際には全部つながっている」
彼の声が、少しだけ低くなった。
「君が離れたいと言う貴族社会は、そうやって息をしている」
「私は、その息苦しさから離れたいのです」
「なら、なおさら見ておけ」
レオンハルト殿下は足を止めずに言った。
「嫌いなものほど、仕組みを知らなければ逃げ方も分からない」
私は黙った。
悔しい。
けれど、その言葉は間違っていなかった。
私はもう一度だけ、高い天井を見上げた。
天上界の絵の中の聖マリアは、やはり静かに微笑んでいる。
今度こそ助けてくださるかと思ったけれど、やはりその気はなさそうだった。
「ラングフォード伯爵令嬢」
レオンハルト殿下が、前を向いたまま言った。
「はい」
「今の君は、知らないものを見たがっている顔をしている」
私は足を止めかけた。
この人は、本当に人の顔をよく見る。
見られていることが、少し怖かった。
「今日は、少しだけ世の中の裏側を見せてやる」
私は、深く息を吐いた。
一人旅だったはずなのに。
私の旅は、どうしてこうも、面倒ごとばかり連れてくるのだろう。