作品タイトル不明
13話 未知の病
そして、翌日。
懲りない私は、カミルを巻き込んでいた。醤油の輸出について改めて話し合うため、今度は三人で橘屋の門をくぐった。
しかし、土間でどれだけ待っても、目当ての人物は現れなかった。
代わりに姿を見せたのは、源蔵ではなく――昨日も顔を見せていた青年だった。
「あー悪いなあ。今日は当主……、体調を崩してて、人前に出られる状態ではないんだよ」
「体調を崩されている、と?」
私は思わず問い返した。
「ああ……ここんとこ、ずっとだ。昨日は調子が良さそうだったんだけどな」
青年は困ったように視線を落とした。その表情に、心配と疲弊したような翳りが滲んでいた。
それを見て、カミルが一歩前へ出た。
「もし差し支えなければ、一度診せていただけませんか」
「診せて、だと……?」
青年が目を瞬かせる。
「ええ、僕は医師です」
カミルは迷いなくそう告げ、青年を真正面から見つめた。
青年は直ぐに答えなかった。異国の者、それも見ず知らずの相手を当主の枕元へ通すことへの戸惑いは、顔を見れば分かった。短い逡巡ののち、意を決したように口を開く。
「……実はよ、こっちの医師方には何度か診てもらってるんだが。だけど、どいつも……はっきりとした原因が分からないって言うんだ」
その声に、じわりと疲労が滲んでいた。きっと、何度も同じことを繰り返してきたのだろう。医者を呼び、首を傾げられ、また次の医者を探す。そんな日々が、この青年の肩にのしかかっているのが伝わってきた。
青年がふと、顔を上げた。
「だけど……異国の医師であれば、あるいは」
独り言のように呟いてから、彼は迷いを振り払うように背筋を伸ばす。
「もし良かったら……診てもらえるか」
「ええ、勿論」
カミルは短く、しかし躊躇いなく答えた。
青年は一つ頷くと、「こっちだ」と奥へと歩き始めた。廊下を進むにつれ、醤油の香りが薄れ、代わりに古い木と畳の静かな匂いが漂ってくる。
案内された部屋の襖を、青年がそっと開けた。
薄暗い室内に、布団が一組。そこに、昨日とは似ても似つかぬほど小さく見える源蔵が、横たわっていた。白髪が枕に広がり、あの険しかった眼差しが、今は薄く閉じられている。
「おい、親父」
青年が呼びかけると、虚ろな目が天井を彷徨い、私たちのほうへと向く。
「……お前らは、昨日の」
掠れた声だった。それでも私を認めた瞬間、その目に昨日と同じ光が戻った。頑固で、鋭い、あの眼差しだ。
カミルは表情ひとつ動かさず、源蔵の傍らへ膝をついた。
「それは、後ほどゆっくりと」
まず源蔵の顔色をつぶさに観察する。それから何でもないことのように、手首へ指先をあてた。その所作に無駄はなく、手慣れていた。
「……何をしている」
「脈を診ております」
「医者なら、もう何人も来た。みんな首を捻るばかりで、何の役にも立たなかったわ」
「そうでしたか」
「どうせ、あんたにもなにも出来んだろう」
「……おっしゃる通りかもしれません」
源蔵が、わずかに眉を顰めた。言い返されると思っていたのだろう。あっさりと同意されて、拍子抜けしたような顔だった。
その間も、カミルの指先は源蔵の手首から離れない。脈を辿るように意識を沈め、今度は瞼の裏を確かめ、次に脚へと触れた。ためらいのない所作で先へと指を滑らせた瞬間、源蔵の顔がわずかに歪む。
「……ここが、痛みますか」
「……少しな」
「いつ頃からですか」
「……ひと月ほど前から、じわじわと」
問いかけるカミルの声は低く、穏やかで、詰問するふうがまるでなかった。源蔵もいつの間にか、ぼそぼそと答えている。
私は部屋の隅で、息を殺してその様子を見守っていた。
「足以外にも手にも痺れがありますか?」
「そうだ、良く分かったな」
カミルは静かに頷き、思案するように目を伏せた。
「食欲不振、手足の痺れ、ひと月以上にわたる倦怠感……」
症状を一つずつ、確認するように口にしていく。
「……正直に申し上げます。これだけの症状が揃いながら、私の知識の中に今すぐ断言できる病が、思い当たりません」
源蔵が、ふん、と鼻を鳴らした。
「やはり、異国の医者では――」
「あの……少し、よろしいでしょうか」
おずおずとした声が、会話を遮った。
声の主はサクラだった。部屋の隅で控えていた彼女が、遠慮がちに一歩前へ出る。
「どうしたの、サクラ」
「実は……城下町でも、そういった患者が増えていると、私も報せを聞いております」
その一言で、部屋の空気が静かに張り詰めた。
「まさか……疫病か?」
源蔵の声が沈んだ。
その問いに答える者は誰もいなかった。
「うーん……」
私は思わず唸った。城下町だけ、という言葉が頭に引っかかる。
「城下町だけなの、サクラ?」
「ええ……農村のほうからは、そういった症状は聞いておりませんね」
「農村では聞かない、のね……」
その言葉を転がすように反芻するうち、頭の奥で何かがゆっくりと動き始める。城下町と農村で、何が違うのか。食べるもの、暮らし、仕事――
「……農民は、玄米や雑穀を食べているのよね」
ふと、呟きが漏れた。以前、サクラから聞いた話が蘇る。城下町では精米技術が発達して、白米をよく食べるようになったのだと。
その瞬間、頭の中でばらばらだった記憶がひとつに繋がった。
前世の知識、かつて読んだ一冊の本の内容だった。江戸の町で、同じような状況のもと、同じ症状を訴える病が広まったことがある。
白く精米された米ばかりを食べ続けることで、本来は米の外側に含まれている栄養が削ぎ落とされ、やがて体に深刻な不足が生まれる。その結果、手足の痺れや倦怠感を引き起こす病が流行した――。
「それだわ!」
自然と声が大きくなった。
「農民は精米していない米を食べているから、栄養が残っている。でも城下町では精米した白米ばかりを食べるから、栄養が削ぎ落とされてしまう。だから城下町にだけ、同じ症状の人が増えているのよ」
「どういうことだい?」
カミルが問う。その眼差しが、真剣な色を帯びていた。
「その病の名は――、“脚気”。白米ばかりを食べることで起こる、栄養不足の病気なの」
カミルの視線が、わずかに細められる。
「……どこで、その話を?」
「お、王妃教育の最中に読んだの。海外の書物に書いてあったわ」
前世の知識だとは、さすがに言えるはずもない。自分でも少し早口になっているのが分かったが、それを気にしている余裕はなかった。
「農民は精米する手間も道具も城下町ほど揃っていないから、玄米や雑穀をそのまま食べることが多い。だから栄養が保たれていた。でも城下町では、白くて美しい米が豊かさの証になっていて、みんなこぞって食べるようになった。皮肉なことに、その白米によって病は引き起こされていたのよ」
しばらく、誰も口を開かなかった。
ふと、青年が絞り出すように呟いた。
「……そういや、親父は忙しいからって面倒くさがって、握り飯ばかり食ってたなあ」
その言葉が、部屋にぽとりと落ちた。
カミルがじっと私を見つめていた。何かを確かめるような、探るような目だった。その眼差しが、少しだけ長く続く。
居心地が悪くて、私はそっと視線を逸らした。
「エリザベート、君は……」
カミルが口を開きかけて、言葉を飲み込んだ。
何かを言おうとして、思い直したように視線を落とす。
「……それで、治すことはできるのかい?」
聞きたいことは、それじゃないのだろう。でも今は、その問いを選んでくれている。私はその優しさに、心の中で小さく息をついた。
「できるわ。白米だけでなく、麦や玄米を混ぜて食べること。それから、ビタミンB……不足した栄養を多く含む豆や豚肉、野菜も一緒に摂ること。完全に治るまでには時間がかかるけれど……食事を変えるだけで、必ず良くなっていくはずよ」
「……そんな、女の言う事なんて信じられねえ」
反対はしているものの、その声には力がなかった。
布団の上の源蔵は、どこか小さく見えた。
「親父」
青年が、父へ向き直った。
「試してみる価値はあるんじゃねえか?」
「……」
「薬でも治らなかったんだ。何人も医者を呼んで、誰にも分からなかった。食事を変えてみるくらい、失うものは何もねえじゃねえか」
息子は源蔵をじっと見つめ、迷いのない声で言う。
「ものは試しだ、やってみよう!」
源蔵は黙ったまま、天井へ視線をやった。皺深い顔が、かすかに歪む。反論しようとしているのか、それとも別の何かなのか、判然としなかった。
やがて、ぼそりと声が落ちた。
「……勝手にしろ」
否定ではなかった。拒絶でも、なかった。それが源蔵なりの、精一杯の答えなのだと思った。
青年が私をちらりと見て、小さく頷いた。私も静かに頷き返した。
***
部屋を出ると、張りつめていた気持ちが少しだけほどけた。
帰り際、源次郎が追いかけるように声をかけてきた。
「あの……ありがとうな」
振り返ると、青年は照れたように頭を掻いていた。
「お礼を言うのはまだ早いわ。まだ治ると決まった訳じゃないもの」
「いや、それだけじゃなくて……。実はよ……この前の和菓子屋での一件、俺、見てたよ。……正直、見事だった」
「……! 見ていたの」
私は目を瞬かせた。
「ああ。この人は他の南蛮人とは違う。ヒノモトを、上っ面じゃなく、ちゃんと見ようとしてる――そう感じたよ。それに……ツバキからも、話を聞いたよ」
「ツバキ……? 貴方、彼女の知り合いなの?」
意外な名前に、声がわずかに上ずった。
「ああ、あんたに助けてもらった花魁だよ。俺、あそこのなじみでさ。倒れたツバキを看てくれたって。白粉に毒が混じってたって話も……」
青年が悔し気に唇を噛みしめた。
「正直に言うよ」
顔を上げた。その目に、さっきまでとは違う、真剣な光があった。
「医学だって、薬だって……俺たちはもう、海外に遅れを取ってるんだろう。今日のことでも、そう感じた。だからこそ、学ばなきゃならねえ。外を拒んでばかりいたら、ヒノモトは――置いていかれる」
風が、玄関をそっと通り抜けた。
「守るだけじゃ、続かねえ。守るために、変わることだって必要だと思う」
ひと呼吸ほどの間を挟んで、源次郎はまた口を開く。独り言のような、それでいてどこか覚悟を決めたような声で。
「……今のままじゃ、国内だけじゃ需要が限られるけど、輸出すれば外貨も入る。仕事も増える。技術を継ぐ人間だって、増えるかもしれねえ。それにヒノモトの味が、歴史に残る」
源次郎が、はじめて真正面から私を見た。
「エリザベートさんが言ってた"未来へ繋ぐ"って……そういうことじゃねえかって、俺は思うよ。俺から親父を説得してみせるよ」
胸の奥が、じんと熱くなった。
昨日、この屋敷の前で跳ね返された言葉が、今日この青年の口から返ってくるとは思わなかった。
「……あなたのお名前は?」
「源次郎。橘源次郎です」
「源次郎さん」
私はまっすぐに、彼を見た。
「今日、話してくれてありがとう。あなたと話せて、良かったわ」
源次郎は少し面食らったように目を丸くして、それからぶっきらぼうに視線を逸らした。
「……別に、思ったことを言っただけだよ」
その横顔が、どこか源蔵に似ていた。
源次郎は鼻を鳴らし、くるりと背を向けた。
去っていく背中を見送りながら、私は息をついた。隣でサクラが、嬉し気に目を細めている。カミルは何も言わなかった。ただ穏やかな眼差しで、こちらを見ていた。
――また、一歩だ。
ほんの小さな一歩かもしれない。でも確かな、一歩だった。