作品タイトル不明
14話 サクラの夢
橘屋を後にすると、三人はしばらく無言のまま歩いた。
屋敷に戻ると、カミルは「少し用を済ませてくる」と席を外した。
気づけば、縁側にサクラと二人並んでいた。庭先の木々が、春風にゆるやかに揺れている。遠くで鳥の声がした。
私たちは湯呑を手にしたまま、言葉も交わさず、ただ庭を眺めていた。
「……今日のお話、ためになりました」
サクラがおずおずと口を開いた。
「早速、城下町で同じような症状で困っている人々にも、食事に気をつけるよう伝えようと思います」
「そうしてあげて。きっと、同じ症状で苦しんでいる人が、まだたくさんいるはずだから」
「はい」
サクラは膝の上で手を重ねたまま、庭を見つめていた。
「……エリザベート様のそばにいると、たくさんのことに気づかされます」
「気づかされること?」
「ええ。女だから、外国の方だから、と決めつけられても、諦めずに前へ進んでいかれる。……私には、ずっとできなかったことです」
サクラの声が、少しだけ揺れた。
「この国に生まれて、この国で育って。女は黙って従うものだと、どこかでずっと思っていました。昨日、源蔵様に断られても……悔しいと思いながら、それでも仕方ないと、心のどこかで諦めていた」
「サクラ……」
「でもエリザベート様は、諦めなかった。それが……とても眩しかったです」
庭先で、花びらがひとつ、はらはらち舞い落ちた。
「諦めなかったのは、あなたも同じよ。今日、一緒に来てくれたでしょう。城下町の患者の話を、ちゃんと届けてくれたでしょう。あの情報がなかったら、脚気だと気づけなかったわ」
サクラは俯いた。垂れた黒髪がすだれのように横顔を隠す。
「……そう、言っていただけると」
言葉が途切れた。でも、続きは言わなくてよかった。
そのままふたりは庭を眺めた。風が木々を揺らし、光がちらちらと地面に落ちる。
「あの、エリザベート様」
「なあに?」
「実は、私……幼い頃から、夢があるのです」
躊躇いながらも、サクラは話し始めた。
「身分の高い女が働いたり、学んだりすることを良しとしない、そんなヒノモトで……父はとても理解のある方でした。外国語を学ぶことも、こうして外交の場に立つことも、許してくれました。でも、それだけでは物足りないと思っている私がいて……」
サクラの視線が、庭の向こう――遠く、どこか遠い場所へと伸びた。
「いつか、海を越えたいのです」
ささやくような声だった。けれどその言葉の奥に、長い年月をかけて温められてきた熱が、確かにあった。
「海の向こうの国々に、どんな人がいて、どんな文化があるのかを、自分の目で見てみたい。けれど私は女の身。そんな夢、叶うはずがないと……ずっと、諦めていました」
湯呑の中の茶が、かすかに揺れた。光が水面に反射して、きらりと瞬く。その揺らめきが、彼女の胸の奥で静かに燃え続けるものを映しているようだった。
「……でも、エリザベート様にお会いして、思ったのです。夢は、女だからという理由で諦めるものではないのかもしれない、と」
「サクラ……」
「今のヒノモトでは、まだ難しいでしょう。女が海を渡るなど、夢物語かもしれない。それでも――いつか、女の手でも世界と繋がれる日が来るかもしれない。直接海を越えられなくても、この国にいながら外の世界と関わる役割を担える日が来れば、と」
サクラは湯呑をそっと置いた。その仕草は静かでありながら、どこか迷いのない決意が滲んでいた。
「異国の文化を伝えること、人と人を結ぶこと。そんな橋渡しの役目が、いつか女の手でもできるようになる日が来れば良いな、と。……今日、改めてそう思ったのです」
そう言って、熱く語ってしまった事を照れる様にはにかんだ。
「……きっと、貴方なら出来るわ」
自分でも驚くほど自然に、言葉がこぼれた。
誰かに夢を肯定してもらうことが、どれほどの力になるか――私は知っている。いつか、カミルにわたしがしてもらった時のように。
サクラがはっとして私を見つめた。それからゆっくりと、花がほころぶように微笑んだ。
「……ありがとうございます、エリザベート様。私、頑張ります」
私はそっと湯呑を置き、縁側の向こうの庭を見やった。
花びらが散り始めて、若葉が芽吹いていた。
風が吹くたび、青葉が光り、まるで未来への希望が揺れているようだった。
「……私たちが出会えたのも、きっと偶然ではないと思うの」
「え?」
「この国と親交を深めたい私の思いと、貴女の夢――出会うべくして出会ったの。縁というのは、こういうものではないかしら」
サクラはその言葉に、息をのんだ。
そして次の瞬間、また花のように微笑んだ。
「そうですね。エリザベート様……私、もっとあなたのお話を伺いたいです。きっと学ぶことがたくさんあります」
「ふふ……それはこちらの台詞よ。この国の事をたくさん知りたいの。お話を聞かせてちょうだい」
二人の笑い声が、庭にやわらかく溶けていく。
灯籠の淡い光に照らされて、桜の花びらがひらり、ひらりと夜気の中を舞い落ちた。
***
サクラとの和やかな会話を終え、部屋に戻ろうと立ち上がった、その瞬間だった。
障子に手をかけ、静かに引いたはずの指先とは裏腹に、建て付けの音が思いのほか大きく響く。
開いた障子の向こうに、ツキシマが立っていた。
昨日も今日も、護衛として黙って付き従っていた男。一言も言葉を発さず、ただ影のように私たちの後ろに控え、監視するような目でこちらを見ていた。
そして今。
その視線には、取り繕うことのない拒絶と、刃物のように研ぎ澄まされた警戒心が宿っていた。それがまっすぐに、私を射抜く。
どれほどそこに立っていたのだろう。障子一枚隔てた向こうで、どこまで聞いていたのだろうか。
「――異国の貴族が、軽々しく姫に近づかないで貰いたい」
短く、鋭い言葉だった。吐き捨てられたその声に、私は思わず唇の端をわずかに上げた。
「……軽々しく、ですって?」
私は意地でも笑い、その視線に負けずに見返す。
「そちらこそ、随分な挨拶じゃなくて? 私の国の商人がサクラ姫に失礼を働いた件なら、謝るわ。けれど、処罰することも約束したはずよ。いつまでも加害者であるかのように扱われるのは――少し、理不尽だと思うわ」
処罰を約束して以来、態度は少しは和らいだかと思っていたのだけれど。それでもなお、相変わらず素っ気ない。
ツキシマは変わらぬ不遜な眼差しをこちらへ向け、ふん、と鼻を鳴らした。
「俺はただ、姫を守りたいだけだ……」
低く落とした声の奥には、忠義と誇り、そして――恐れのようなものが混じっていた。
「素晴らしい忠誠心ね。けれど、私はサクラを傷つけたりなんてしてないわよ」
その言葉に、彼の目が一瞬だけ揺れた。
だが、次に返ってきた言葉は、やはり鋭く冷たいものだった。
「……姫に悪影響を与えないで貰いたい」
「は?」
「この国では、お主のように自由に生きる事は出来ない。身分のある女性は特にな。周囲から非難され、居場所を奪われる。――苦しむのは姫だ。甘言で姫を惑わすのは、止めてもらおう」
「何よ、それ……」
「今この国では、外つ国への反発が強い。表立って動かぬだけで、排除を望む者もいる。そんな中で、お前のような異国人と親しくしてみろ――姫は憎悪の的になるかもしれん。俺は……、姫を傷つけたくない」
最後の言葉だけが、ぽつりと落ちた。
その声音に含まれた焦燥と恐れが、胸に鋭く刺さる。
彼は必死だった。必死に、サクラを守ろうとしている。
けれど――その声の奥には、別の感情も潜んでいるように思えた。
私はまぶたを伏せ、深く息を吸う。
そして、裾をひとつ揺らしながら、彼の前へと歩み出る。畳がきしむ音が、張りつめた空気の中で妙に大きく響いた。
「あなたは怖れているのね――サクラが、変わってしまうことを」
「……!」
ツキシマの表情が一瞬でひび割れた。
怒りとも困惑ともつかない影が走り、その奥に、確かに“恐れ”が見えた。図星を突かれた痛みが、拳の震えとなって滲み出ている。
それでも彼は、何も言わなかった。
ただ沈黙のまま、剣を抜く寸前のような鋭い視線で私を見据える。
私はその沈黙を、あえて壊さなかった。
少しだけ視線をやわらげ、低く静かに続ける。
「貴方の気持ちは理解できるわ。大切な人だからこそ、傷ついてほしくないのね。この国の常識や掟を破った時に、彼女がどれほど非難を浴びるか……心配しているのでしょう」
「……そうだ。だから俺は、守らねばならん。叶わない夢など見なければ、傷つかずに済むのだ。身分ある娘は、殿が定めた男に嫁ぎ、大事にされて……そこそが、この国での女の幸せなのだ」
その声には、怒りよりも哀しみが混じっていた。
まるで、自分に言い聞かせるような響きを持っていた。
「――それは違うわ」
私の声が、自然と強くなった。
彼の黒い瞳がこちらを捉える。
「夢を見ることは、傷つくことと同義じゃない。確かに道は険しいでしょう……。それでも、傷つくかもしれないという理由で夢を閉ざすことが、幸福だなんて私は思わないわ」
夢を諦めて、親に決められた人と結婚する。
与えられた立場と役目を受け入れて、周りから期待されるままに敷かれた道を歩く。
それが“女の幸せ”だと、そう言われたなら。
果たして本当に、サクラは幸せになれるのかしら?
私はゆっくりとまぶたを閉じた。
……いいえ。
私はそうは思わない。
私もかつて、その道を歩こうとしていたから。もしあのまま進んでいたら、破滅が待っていた。
「あなたが守っているつもりのその檻こそ、彼女の未来を奪い、閉じ込めているのではないかしら?」
サクラは、あなたの鳥かごの中の小さな鳥じゃない。
決して、守るために閉じ込めるべき存在ではない。
彼女は羽ばたくための力を持っていると、私は信じている。
「……あなたも、彼女の幸せを願うのなら――、その一歩を信じてあげたらどう?」
ツキシマは何も言わなかった。
ただ、強く握りしめた拳を下ろし、ほんのわずかだけ視線を落とす。
「……ツキシマ。貴方、サクラと一度話した方が良いわよ」
私は肩を竦め、ドレスの裾を揺らしながら踵を返した。
――時間の猶予は与えたわよ。
背後には、答えは返ってこなかった。遠く、静まり返った空間に、立ち尽くす影の気配だけが残った。