作品タイトル不明
第226話 名乗らぬ男
騎士団の詰め所へ向かう道は、屋敷からそれほど遠くない。
だが、その短い距離が、いつもより長く感じられた。
先頭を歩くのはノル。
その横に司法院の調査官が二人。
後ろには護衛の騎士たちが続く。
レナードは帳面を抱え、俺はその少し後ろを歩いていた。
この先には、まだ一言も名乗らない男がいる。
灰狼の牙の頭目、ガザル。
本当にそうなのか。
前世なら、本人を特定する方法はいくらでもあったのかもしれない。
指紋。
血液。
映像。
記録された顔。
けれど、この世界にそんなものはない。
では、名乗らない相手をどうやって本人だと見るのか。
司法院は、それをどう扱うのか。
俺はそれを、これから見ることになる。
◇
詰め所に着くと、見張りの騎士がすぐに姿勢を正した。
「ノル様」
「捕縛者は」
「変わりありません。食事は朝に一度。水も与えています。会話はありません」
「暴れたか」
「いえ。ただ、こちらの問いには一切答えておりません」
ノルは頷き、司法院の調査官へ向き直る。
「捕縛者は奥の部屋です」
「その前に、拘束の記録を確認させてください」
調査官の一人がそう言った。
いきなり男を見るのではないらしい。
ノルはすぐに見張り記録を持ってこさせる。
調査官はそれを受け取り、淡々と確認し始めた。
「捕縛後、誰が見張りについたか」
「交代時刻」
「食事と水を与えた時間」
「接触した者の名」
「拘束具の確認」
調査官は一つずつ見ていく。
レナードも横で、自分の帳面に追記していた。
俺が少し不思議そうに見ていたのに気づいたのか、調査官がこちらを向く。
「身柄を確認する前に、拘束の記録を見ます」
「拘束の記録、ですか」
「はい。誰が、いつ、どの状態で見ていたか。それも証拠の一部です」
なるほど。
捕まえた相手が誰なのかだけではない。
捕まえてから今まで、どう扱われていたのか。
途中で別人と入れ替わっていないか。
誰かが勝手に接触していないか。
そういうことまで確認するのだろう。
王都司法院のやり方は、思っていたより細かい。
しばらく記録を確認した後、調査官は静かに頷いた。
「拘束記録は整っています。では、捕縛者を確認しましょう」
ノルが奥の扉へ向かう。
俺たちも続いた。
◇
扉が開かれる。
部屋の中には、男が椅子に座らされていた。
手足は縛られている。
近くには騎士が二人。
窓は閉じられ、部屋の隅にも護衛が立っている。
男はこちらを見ても、表情を変えなかった。
ただ、目だけは鋭い。
西の森で見た時と同じだ。
湿った憎悪のようなものが、まだ奥に残っている。
司法院の調査官が男の前に立った。
「名を名乗りなさい」
男は黙っている。
「所属は」
沈黙。
「灰狼の牙という名に覚えは」
男は答えない。
調査官は、表情を変えずに続けた。
「ガザルという名に覚えは」
その瞬間、男の目がほんのわずかに動いた。
小さな反応だった。
だが、この場にいる全員が緊張していたせいか、見逃す者はいなかった。
調査官の横にいたもう一人が、静かに記録する。
「ガザルの名に反応。発言はなし」
男は相変わらず黙っている。
だが、沈黙が意味を持ち始めていた。
「あなたが名乗らないことは記録します」
調査官は言った。
「ただし、名乗らないからといって、確認が止まるわけではありません」
男の口元が、わずかに歪んだ。
何か言い返すかと思ったが、結局何も言わなかった。
◇
調査官は、持ってきた書類を開いた。
王都司法院の特徴書だという。
そこには、灰狼の牙の頭目ガザルについて、いくつかの情報がまとめられていた。
年齢は四十前後。
痩せ型。
火魔法を扱う。
薬草、魔石片、魔物素材の闇取引に関与。
王都周辺だけでなく、複数領地での盗賊行為に関係。
王都西南の森の黒い魔石片事件にも関与疑い。
そして、もう一つ。
調査官はそこで、少し声を落とした。
「王都司法院が独自に得た情報では、ガザルの左脇腹には、大きな切り傷の痕があります」
男の目が変わった。
今度は、さっきよりはっきり分かる。
調査官は淡々と続けた。
「数年前、灰狼の牙の構成員を捕らえた際に得た情報です。
頭目ガザルは、追捕の際に騎士の剣を受け、左脇腹を斬られている、と」
俺は思わず男を見た。
傷跡。
それなら、この世界でも確認できる。
指紋や血液ほど絶対ではない。
でも、王都側が事前に持っていた特徴と一致するなら、大きな材料になる。
「確認します」
調査官が言うと、男が初めて体を強く動かした。
縄がきしむ。
近くの騎士がすぐに肩を押さえる。
ノルも一歩前へ出た。
「暴れるな」
低い声だった。
男はノルを睨む。
それでも、口は開かない。
調査官は慌てなかった。
「必要な確認です。無用に傷つけるつもりはありません」
護衛の騎士が、男の上衣を必要な分だけずらす。
左脇腹が見えた。
そこには、古い大きな傷跡があった。
刃で斬られたような痕。
年月は経っている。
だが、見間違えるほど薄くはない。
調査官の目が細くなる。
「特徴書と一致します」
記録係が筆を走らせる。
「左脇腹に大きな古傷あり。司法院特徴書と一致」
部屋の空気が、一段重くなった。
男はまた黙った。
だが、さっきまでの無言とは少し違う。
沈黙で押し切れると思っていたものが、一つ崩れた。
そんなふうに見えた。
◇
調査官は、男の前に戻った。
「もう一度聞きます。あなたはガザルですか」
男は答えない。
「灰狼の牙の頭目ですか」
沈黙。
「王都西南の森の黒い魔石片事件に関わりましたか」
それにも答えない。
調査官は、問いを変えた。
「西の森の旧拠点について、何か話すことはありますか」
男の指が、わずかに動いた。
レナードが記録を開く。
「以前の尋問で、この男は西の森旧拠点について、“奪ったのはそちらだ”と発言しています」
調査官がその記録を受け取り、目を通す。
「西の森旧拠点に関わっていたことを示す発言ですね」
「はい」
レナードが頷く。
「旧拠点の記録にも、逃亡した術者としてガザルの名があります」
調査官は書類を重ねた。
「王都側の記録と、ハル領側の記録がここでつながります」
男は、こちらを睨むだけだった。
何も言わない。
だが、何も言わないままでも、周囲の記録は男を囲み始めていた。
俺はそれを見ながら、少しだけ背筋が冷えるのを感じた。
本人が名乗らない。
それでも、過去の記録と現在の状況が、少しずつ逃げ道を塞いでいく。
これが司法院の仕事なのかもしれない。
◇
次に、黒い魔石片の話になった。
調査官は、レナードがまとめた記録を確認する。
死骸魔物の胸に埋め込まれていたこと。
複数体から同じような黒い魔石片が出たこと。
核を壊すと動きが止まったこと。
王都西南の森の事件と構造が似ていること。
灰狼の牙が、魔石片や魔物素材の闇取引に関わっていた記録があること。
調査官は記録を閉じた。
「この男がガザル本人でなくとも、灰狼の牙と黒い魔石片の件に深く関わる者であることは疑いにくい」
男の眉が動く。
調査官は続けた。
「しかし、王都の特徴書。左脇腹の傷跡。
ハル領の旧拠点記録。捕縛時の状況。
ガザルの名への反応。これらを合わせれば、ガザル本人である可能性は高い」
男は、まだ黙っている。
調査官が低く言った。
「灰狼の牙の残党についても、王都で確認することになります」
その時だった。
男が、低く笑った。
「……残党など、好きに探せばいい」
初めて、はっきりと言葉が出た。
部屋の全員が反応する。
調査官は静かに男を見た。
「灰狼の牙を知っているのですね」
男はすぐに口を閉じた。
だが、もう遅い。
調査官の隣で、記録官が筆を動かす。
「灰狼の牙の残党という語に応答あり」
男の顔から、わずかに余裕が消えた。
自分で言ってしまった。
それを理解したのだろう。
◇
確認はそこでいったん止められた。
調査官たちは部屋を出る。
扉が閉まる直前、俺はもう一度だけ男を見た。
男は椅子に縛られたまま、こちらを睨んでいた。
だが、最初に見た時ほど、完全に黙っていれば逃げられるという顔ではなかった。
廊下に出ると、調査官が俺たちに向き直る。
「この場で、正式にガザル本人と断定はしません」
俺は頷いた。
「王都で確認するのですね」
「はい。王都司法院で、過去記録、灰狼の牙の関係者証言、被害者証言と照合します」
調査官は続けた。
「ただし、現時点で王都へ移送するに足る材料はあります」
ノルが静かに聞いた。
「その材料とは」
調査官は、指を折るように整理した。
「王都の特徴書と、人相、年齢、体格が大きく外れていないこと」
「左脇腹の大きな傷跡が、司法院の独自記録と一致したこと」
「灰狼の牙の頭目ガザルの名に反応したこと」
「西の森旧拠点の記録にガザルの名があり、この男もその拠点への恨みを示していること」
「黒い魔石片を用いた死骸魔物事件の現場近くで捕縛されたこと」
一つ一つは決定打ではない。
だが、積み上がると、動かせないだけの重さになる。
調査官は結論を告げた。
「この男は、ガザル本人、または灰狼の牙の中枢にいた者として扱います。
身柄は王都司法院へ移送する方向で進めます」
「すぐにですか」
俺が聞くと、調査官は首を振った。
「いえ。まず黒い魔石片の現物確認と、西の森の現場確認を行います。
初期調書を整えた後、移送の手続きを取ります」
ノルが頷く。
「それまでは、こちらで拘束を続ける形ですか」
「はい。ただし、司法院の護衛も一部、見張りに加わります」
「承知しました」
これで、男の管理はハル領だけのものではなくなった。
司法院が、正式に関わり始めた。
◇
俺は、調査官の言葉を頭の中で整理していた。
この世界には、現代のような本人確認の技術はない。
だが、だからといって、何もできないわけではない。
人相。
身体の特徴。
過去の記録。
発言。
反応。
現場とのつながり。
関わった組織。
それらを一つずつ重ねていく。
そして、断定できることと、まだ断定できないことを分ける。
父上が言っていたことと同じだ。
証拠と推測を分けろ。
司法院の調査官も、同じことをしている。
今この場で、あの男をガザルと裁いたわけではない。
だが、王都へ送るに足る材料は揃った。
それが、今の判断だった。
調査官は、次の書類を開く。
「次に、黒い魔石片の現物を確認します」
レナードがすぐに頷いた。
「保管場所へご案内します」
「その後、西の森の現場へ向かいます」
ノルが護衛の配置を確認する。
司法院の騎士たちも、それに合わせて動き出した。
詰め所の中にいた空気が、少しだけ変わる。
ハル領の騎士団だけではない。
王都司法院の目が、ここに入った。
男は最後まで名乗らなかった。
だが、名乗らないことだけで、すべてを隠せるわけではない。
一つ一つの情報は、まだ決定打ではない。
けれど、積み上がれば、人を動かすには十分な重さになる。
灰狼の牙の頭目、ガザル。
その名が、いよいよ王都の調書の上に置かれようとしていた。