軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第219話 黒い魔石片

男を捕らえたあとも、西の森側作業場の混乱は続いていた。

遠くから、護衛たちの怒声が聞こえる。

金属が何かを打つ音。

作業員たちを誘導する声。

木々の間を走る足音。

第二陣の死骸魔物は、まだ完全には片づいていない。

俺は森の奥から、作業場側へ視線を戻した。

「戻ろう」

「はい」

ノルは捕らえた男を押さえたまま、護衛に短く命じた。

「この男は騎士団の詰め所へ移す。手元と口元から目を離すな。縄は二重にしろ」

「はっ!」

「魔法を使う。普通の捕縛とは違うと思え」

護衛たちの顔つきが変わった。

男は黙っている。

だが、口元だけはわずかに歪んでいた。

まだ余裕があるのか。

それとも、こちらを見下しているのか。

いずれにせよ、ここで問い詰める相手ではない。

詰め所で、魔法を封じる形で監視するべきだ。

ノルはさらに続けた。

「詰め所へ着くまで、私の指示なく近づけるな。水も食事も、確認してからだ」

「承知しました」

男の腕がさらに固く縛られる。

それでも、男は何も言わなかった。

ただ、俺の方を一度だけ見た。

その目には、森の奥で見た時と同じ湿った憎悪が残っていた。

作業場へ戻ると、防衛線はまだ維持されていた。

副長格の護衛が、ノルの指示通りに戦線をまとめている。

「胸部を狙え! 脚を落としても止まったと思うな!」

その声に合わせて、護衛たちが死骸魔物へ斬り込む。

一体の獣型魔物が、脚を失ったまま地面を這っていた。

生きている魔物なら、恐怖か痛みで動きが乱れる。

だが、そいつは違った。

胸の核を砕かれるまで、ただ前へ進もうとしている。

「胸の黒い核です!」

俺は声を上げた。

「そこを壊さないと止まりません!」

ノルもすぐに前へ出る。

「核を砕け! 完全に動きが止まるまで近づきすぎるな!」

護衛の一人が、槍で魔物の胸を突いた。

黒い破片が割れる音がする。

魔物の身体から力が抜け、泥の上へ崩れた。

続けて、別の個体も止められる。

一体ずつ。

確実に。

胸の核を砕かれた死骸魔物たちは、糸が切れた人形のように動かなくなった。

生き物を相手にしている感じがしない。

そのことが、かえって気味悪かった。

少しして、最後の一体が倒れた。

周囲に、重い沈黙が落ちる。

森のざわめきだけが残っていた。

ノルは剣を下ろさず、周囲を見回す。

「森側を確認しろ。まだ残っている可能性がある」

「はっ!」

護衛たちが数人ずつに分かれ、作業場の外縁を確認し始めた。

俺は退避場所の方へ向かう。

そこには、作業員たちが集められていた。

ミアが水場側から戻ってくる。

レナードは現場責任者と一緒に、人数を確認していた。

「リオン様」

ミアが俺に気づいて駆け寄ってくる。

「大丈夫?」

「はい。私は大丈夫です。作業員の方々も、今のところ重い怪我をされた方はいないようです」

「よかった」

思わず息が漏れた。

死者が出ていない。

その一点だけでも、救いだった。

レナードが帳面を持って近づく。

「退避場所に集まった人数を確認中です。現場責任者の帳面と照合しています」

「足りない人は?」

「今のところ、一人だけ確認が遅れています。ただ、湯屋側の小屋へ避難している可能性があります」

「すぐ確認して」

「はい」

レナードは近くの作業員に指示を出した。

ミアが少し表情を曇らせる。

「退避場所の札を読めず、人の流れについて行こうとしていた方が何人かいました」

「水場の方へ行きかけた人もいたって聞いた」

「はい。湯屋の方へ逃げようとした方もいます。

落ち着いていれば分かるのでしょうけれど、魔物が出ると、皆様どうしても周りに流されてしまいます」

「当然だよ」

俺は退避場所に座り込む作業員たちを見た。

顔色の悪い者。

肩で息をしている者。

木板を握りしめたまま震えている者。

誰も悪くない。

襲撃されたのだ。

混乱するのは当然だった。

だが、それでも考えなければならない。

読めないまま森で働くこと。

退避場所を見分けられないこと。

荷車道と歩く道を間違えること。

それは、今日のような時に命へ直結する。

工房では、読めないことで作業が止まる。

西の森では、読めないことで逃げ遅れる。

その違いは、さっきまで目の前にあった。

現場責任者が青ざめた顔でやって来た。

「リオン様、申し訳ありません。退避誘導がまだ不十分でした」

「責めてないよ」

俺はすぐに言った。

現場責任者は顔を上げる。

「今、分かったことを直す。次に本当に逃げ遅れる人を出さないために」

「……はい」

「被害を教えて」

現場責任者は深く息を整えた。

「死者はおりません。重傷者も今のところ確認されていません。軽傷者が数名。転んだ者、荷車にぶつかった者、枝で腕を切った者がいます」

「物の被害は?」

「荷車が一台、横転して車輪を傷めました。仮設柵の西側が一部壊れています。

木材置き場も、少し荒らされました。ただ、湯屋側への被害はありません」

「分かった」

最悪ではない。

だが、軽いとも言えない。

今回、死者が出なかったのは運もある。

もし退避が少し遅れていたら。

もし湯屋側へ魔物が流れていたら。

もし胸の核に気づくのが遅れていたら。

結果は変わっていた。

「今日の作業は止めよう」

俺は言った。

現場責任者が一瞬、驚いた顔をする。

「本日の作業を、ですか」

「うん。森側の作業も、木材の搬出も中止。安全確認を優先する」

「承知しました」

ノルもこちらへ戻ってきた。

「賢明です。森側の見回りを増やします。護衛も再配置しましょう」

「お願い」

「それと、外縁部の柵はすぐに補修させます」

「うん」

発展を急ぐ場面ではない。

作業を続ければ、今日の遅れを少しは取り戻せるかもしれない。

でも、作業員の不安を抱えたまま森に戻す方が危ない。

今必要なのは、進めることではない。

止めて、確認することだ。

死骸魔物の処理が始まった。

護衛たちは、胸の周辺を慎重に確認している。

レナードが布と木板を用意し、記録を取り始めた。

「第一陣。小型獣型。胸部より黒い魔石片」

レナードが書き留める。

護衛が、砕けた黒い破片を布の上に置いた。

「第二陣。中型。胸部中央に同様の破片あり」

また一つ。

また一つ。

倒した魔物の胸から、黒い魔石片が出てくる。

完全に砕けたもの。

半分ほど形が残っているもの。

欠けただけのもの。

どれも、嫌な色をしていた。

光を吸うような黒。

触れれば指先に冷たさが残りそうな、不気味な石だった。

ノルが腕を組む。

「これだけ同じ場所から出るなら、偶然ではありませんな」

「うん」

俺は布の上に並ぶ破片を見た。

「死骸にこれを埋め込んで、術式で動かしていた。そう考えるしかない」

「術者も森の奥にいました」

「うん。あの男が関わっているのは間違いないと思う」

ただし、それ以上はまだ分からない。

あの男が単独でやったのか。

誰かに頼まれたのか。

何のために、どこまで準備していたのか。

今ここで決めつけるのは危ない。

俺はレナードに言った。

「どの魔物から出たか、全部分かるようにしておいて」

「はい」

「第一陣か第二陣か。魔物の種類。核があった位置。砕いたら動きが止まったこと。それも記録して」

「承知しました」

レナードの筆が止まらない。

証拠は、見つけただけでは足りない。

誰が見ても分かる形に残す必要がある。

前世でも、何か問題が起きた時はそうだった。

現場で見た。

聞いた。

そう言うだけでは弱い。

いつ、どこで、何があり、何を確認したのか。

それを記録する。

そうして初めて、次の判断に使える。

この世界でも同じだ。

むしろ、魔法や貴族が絡む分、記録の重さはさらに大きい。

捕らえた男が、護衛に囲まれて作業場の端に立たされていた。

口元は布で軽く押さえられ、手は後ろで縛られている。

ノルが近づくと、男はゆっくり顔を上げた。

「この黒い魔石片は何だ」

ノルが問う。

男は答えない。

「何体放った」

沈黙。

「他にも森に残っているのか」

男の口元が、布越しにわずかに動いた。

護衛が布を少しだけ緩める。

男は低く笑った。

「森に魔物が出ただけだろう」

ノルの目が細くなる。

「死骸の胸に黒い魔石片が埋まっている魔物が、偶然、複数方向から作業場へ来ると思うか」

男は答えない。

俺は布に包まれた魔石片を見る。

そして、男へ視線を戻した。

「開拓を止めたかったのか」

男は俺を見た。

その目に、また湿った憎悪が浮かぶ。

「……森を好き勝手に広げるからだ」

それだけ言って、また黙った。

ノルが一歩前に出る。

「誰に頼まれた」

男は目を閉じた。

答える気はない。

今ここで問い詰めても、口を割る相手ではなさそうだった。

ノルは短く息を吐く。

「詰め所へ移せ」

「はっ」

「尋問は後だ。今は逃がさないことを最優先にしろ」

護衛たちが男を連れていく。

男は最後に一度だけ、森の方を見た。

その目が、気になった。

悔しさか。

執着か。

それとも、まだ何かを残しているのか。

分からない。

ただ、一つだけは確かだった。

この男は、ただ魔物を使っただけではない。

西の森そのものに、何かを抱えている。

俺はレナードを呼んだ。

「西の森用の確認項目を変えよう」

「安全札と退避場所を最優先にするのですね」

「うん。名前や数字も必要だけど、まず逃げるための札だ」

レナードはすぐに木板を構えた。

「退避場所の札。危険区域の札。荷車道と歩行道。水場、湯屋、作業場の方向札」

「それに、魔物が出た時の合図」

「はい」

「班ごとの人数確認も必要だね。誰が退避場所に来ていて、誰が来ていないか、すぐ分からないと困る」

「追加します」

ミアも口を開いた。

「湯屋へ向かう道は、普段は分かりやすくても、慌てると間違えやすいかもしれません」

「そうだね。平常時の道と、緊急時の道は分けた方がいいかも」

「はい。湯屋側にも、退避場所へ戻る案内が必要だと思います」

「それも入れよう」

ノルが周囲を見ながら言った。

「森側の作業員には、魔物が出た時の集合場所を徹底させるべきです。

逃げる方向がばらけると、守る側も動きにくい」

「うん」

今日、それを痛感した。

逃げる方向がばらければ、護衛も守れない。

退避場所が分からなければ、人が散る。

人が散れば、確認も遅れる。

読み書きは、そのためにも必要だった。

文字を読めるようにする。

数字を数えられるようにする。

それは、ただ学ぶための学びではない。

命を守るための手段だ。

その後、ノルの指示で森の奥の術式跡も記録することになった。

レナードを直接奥へ連れていくのは危ない。

だから、護衛二人をつけ、短時間だけ確認させる。

俺も同行した。

場所は、さっき男を捕らえた近く。

土の上には、崩れかけた術式陣の跡が残っていた。

黒い魔石片の細かな破片。

死骸を引きずったような跡。

薬草の残り香。

第二陣が出てきた方向。

作業場までの距離。

レナードは一つずつ確認し、記録していった。

「これは……普通の魔物の出現記録とは、まったく違いますね」

「うん」

「術式陣の跡、魔石片、死骸を引きずった跡。これだけあれば、人の手が入っていることは明らかです」

「そうだね」

ただし、誰の手かは分からない。

そこを間違えてはいけない。

俺たちが今持っているのは、あくまで現場の証拠だ。

背後関係ではない。

レナードは最後に、術式跡の位置を簡単な図にした。

「これで、後から説明できます」

「ありがとう」

記録は残った。

黒い魔石片もある。

捕らえた男もいる。

これで、自然発生の魔物騒ぎとして片づけられることはない。

作業場へ戻る頃には、日が少し傾き始めていた。

作業は止まっている。

木材置き場には、倒れた丸太がいくつか転がっていた。

壊れた荷車の車輪が外され、修理の準備が始まっている。

仮設柵の破れた部分には、護衛が立っていた。

退避場所には、まだ作業員たちが集まっている。

落ち着きを取り戻している者もいれば、まだ顔色の悪い者もいた。

俺は、布に包まれた黒い魔石片を見た。

ただの石ではない。

誰かが、西の森を狙った。

ハル領の開拓を止めるために。

人を怯えさせるために。

俺は、退避場所に集まる作業員たちを見た。

守るべきものが、また一つはっきりした。

黒い魔石片は、ただの証拠ではない。

ハル領を狙う悪意の形だった。