作品タイトル不明
第219話 黒い魔石片
男を捕らえたあとも、西の森側作業場の混乱は続いていた。
遠くから、護衛たちの怒声が聞こえる。
金属が何かを打つ音。
作業員たちを誘導する声。
木々の間を走る足音。
第二陣の死骸魔物は、まだ完全には片づいていない。
俺は森の奥から、作業場側へ視線を戻した。
「戻ろう」
「はい」
ノルは捕らえた男を押さえたまま、護衛に短く命じた。
「この男は騎士団の詰め所へ移す。手元と口元から目を離すな。縄は二重にしろ」
「はっ!」
「魔法を使う。普通の捕縛とは違うと思え」
護衛たちの顔つきが変わった。
男は黙っている。
だが、口元だけはわずかに歪んでいた。
まだ余裕があるのか。
それとも、こちらを見下しているのか。
いずれにせよ、ここで問い詰める相手ではない。
詰め所で、魔法を封じる形で監視するべきだ。
ノルはさらに続けた。
「詰め所へ着くまで、私の指示なく近づけるな。水も食事も、確認してからだ」
「承知しました」
男の腕がさらに固く縛られる。
それでも、男は何も言わなかった。
ただ、俺の方を一度だけ見た。
その目には、森の奥で見た時と同じ湿った憎悪が残っていた。
◇
作業場へ戻ると、防衛線はまだ維持されていた。
副長格の護衛が、ノルの指示通りに戦線をまとめている。
「胸部を狙え! 脚を落としても止まったと思うな!」
その声に合わせて、護衛たちが死骸魔物へ斬り込む。
一体の獣型魔物が、脚を失ったまま地面を這っていた。
生きている魔物なら、恐怖か痛みで動きが乱れる。
だが、そいつは違った。
胸の核を砕かれるまで、ただ前へ進もうとしている。
「胸の黒い核です!」
俺は声を上げた。
「そこを壊さないと止まりません!」
ノルもすぐに前へ出る。
「核を砕け! 完全に動きが止まるまで近づきすぎるな!」
護衛の一人が、槍で魔物の胸を突いた。
黒い破片が割れる音がする。
魔物の身体から力が抜け、泥の上へ崩れた。
続けて、別の個体も止められる。
一体ずつ。
確実に。
胸の核を砕かれた死骸魔物たちは、糸が切れた人形のように動かなくなった。
生き物を相手にしている感じがしない。
そのことが、かえって気味悪かった。
◇
少しして、最後の一体が倒れた。
周囲に、重い沈黙が落ちる。
森のざわめきだけが残っていた。
ノルは剣を下ろさず、周囲を見回す。
「森側を確認しろ。まだ残っている可能性がある」
「はっ!」
護衛たちが数人ずつに分かれ、作業場の外縁を確認し始めた。
俺は退避場所の方へ向かう。
そこには、作業員たちが集められていた。
ミアが水場側から戻ってくる。
レナードは現場責任者と一緒に、人数を確認していた。
「リオン様」
ミアが俺に気づいて駆け寄ってくる。
「大丈夫?」
「はい。私は大丈夫です。作業員の方々も、今のところ重い怪我をされた方はいないようです」
「よかった」
思わず息が漏れた。
死者が出ていない。
その一点だけでも、救いだった。
レナードが帳面を持って近づく。
「退避場所に集まった人数を確認中です。現場責任者の帳面と照合しています」
「足りない人は?」
「今のところ、一人だけ確認が遅れています。ただ、湯屋側の小屋へ避難している可能性があります」
「すぐ確認して」
「はい」
レナードは近くの作業員に指示を出した。
ミアが少し表情を曇らせる。
「退避場所の札を読めず、人の流れについて行こうとしていた方が何人かいました」
「水場の方へ行きかけた人もいたって聞いた」
「はい。湯屋の方へ逃げようとした方もいます。
落ち着いていれば分かるのでしょうけれど、魔物が出ると、皆様どうしても周りに流されてしまいます」
「当然だよ」
俺は退避場所に座り込む作業員たちを見た。
顔色の悪い者。
肩で息をしている者。
木板を握りしめたまま震えている者。
誰も悪くない。
襲撃されたのだ。
混乱するのは当然だった。
だが、それでも考えなければならない。
読めないまま森で働くこと。
退避場所を見分けられないこと。
荷車道と歩く道を間違えること。
それは、今日のような時に命へ直結する。
工房では、読めないことで作業が止まる。
西の森では、読めないことで逃げ遅れる。
その違いは、さっきまで目の前にあった。
◇
現場責任者が青ざめた顔でやって来た。
「リオン様、申し訳ありません。退避誘導がまだ不十分でした」
「責めてないよ」
俺はすぐに言った。
現場責任者は顔を上げる。
「今、分かったことを直す。次に本当に逃げ遅れる人を出さないために」
「……はい」
「被害を教えて」
現場責任者は深く息を整えた。
「死者はおりません。重傷者も今のところ確認されていません。軽傷者が数名。転んだ者、荷車にぶつかった者、枝で腕を切った者がいます」
「物の被害は?」
「荷車が一台、横転して車輪を傷めました。仮設柵の西側が一部壊れています。
木材置き場も、少し荒らされました。ただ、湯屋側への被害はありません」
「分かった」
最悪ではない。
だが、軽いとも言えない。
今回、死者が出なかったのは運もある。
もし退避が少し遅れていたら。
もし湯屋側へ魔物が流れていたら。
もし胸の核に気づくのが遅れていたら。
結果は変わっていた。
「今日の作業は止めよう」
俺は言った。
現場責任者が一瞬、驚いた顔をする。
「本日の作業を、ですか」
「うん。森側の作業も、木材の搬出も中止。安全確認を優先する」
「承知しました」
ノルもこちらへ戻ってきた。
「賢明です。森側の見回りを増やします。護衛も再配置しましょう」
「お願い」
「それと、外縁部の柵はすぐに補修させます」
「うん」
発展を急ぐ場面ではない。
作業を続ければ、今日の遅れを少しは取り戻せるかもしれない。
でも、作業員の不安を抱えたまま森に戻す方が危ない。
今必要なのは、進めることではない。
止めて、確認することだ。
◇
死骸魔物の処理が始まった。
護衛たちは、胸の周辺を慎重に確認している。
レナードが布と木板を用意し、記録を取り始めた。
「第一陣。小型獣型。胸部より黒い魔石片」
レナードが書き留める。
護衛が、砕けた黒い破片を布の上に置いた。
「第二陣。中型。胸部中央に同様の破片あり」
また一つ。
また一つ。
倒した魔物の胸から、黒い魔石片が出てくる。
完全に砕けたもの。
半分ほど形が残っているもの。
欠けただけのもの。
どれも、嫌な色をしていた。
光を吸うような黒。
触れれば指先に冷たさが残りそうな、不気味な石だった。
ノルが腕を組む。
「これだけ同じ場所から出るなら、偶然ではありませんな」
「うん」
俺は布の上に並ぶ破片を見た。
「死骸にこれを埋め込んで、術式で動かしていた。そう考えるしかない」
「術者も森の奥にいました」
「うん。あの男が関わっているのは間違いないと思う」
ただし、それ以上はまだ分からない。
あの男が単独でやったのか。
誰かに頼まれたのか。
何のために、どこまで準備していたのか。
今ここで決めつけるのは危ない。
俺はレナードに言った。
「どの魔物から出たか、全部分かるようにしておいて」
「はい」
「第一陣か第二陣か。魔物の種類。核があった位置。砕いたら動きが止まったこと。それも記録して」
「承知しました」
レナードの筆が止まらない。
証拠は、見つけただけでは足りない。
誰が見ても分かる形に残す必要がある。
前世でも、何か問題が起きた時はそうだった。
現場で見た。
聞いた。
そう言うだけでは弱い。
いつ、どこで、何があり、何を確認したのか。
それを記録する。
そうして初めて、次の判断に使える。
この世界でも同じだ。
むしろ、魔法や貴族が絡む分、記録の重さはさらに大きい。
◇
捕らえた男が、護衛に囲まれて作業場の端に立たされていた。
口元は布で軽く押さえられ、手は後ろで縛られている。
ノルが近づくと、男はゆっくり顔を上げた。
「この黒い魔石片は何だ」
ノルが問う。
男は答えない。
「何体放った」
沈黙。
「他にも森に残っているのか」
男の口元が、布越しにわずかに動いた。
護衛が布を少しだけ緩める。
男は低く笑った。
「森に魔物が出ただけだろう」
ノルの目が細くなる。
「死骸の胸に黒い魔石片が埋まっている魔物が、偶然、複数方向から作業場へ来ると思うか」
男は答えない。
俺は布に包まれた魔石片を見る。
そして、男へ視線を戻した。
「開拓を止めたかったのか」
男は俺を見た。
その目に、また湿った憎悪が浮かぶ。
「……森を好き勝手に広げるからだ」
それだけ言って、また黙った。
ノルが一歩前に出る。
「誰に頼まれた」
男は目を閉じた。
答える気はない。
今ここで問い詰めても、口を割る相手ではなさそうだった。
ノルは短く息を吐く。
「詰め所へ移せ」
「はっ」
「尋問は後だ。今は逃がさないことを最優先にしろ」
護衛たちが男を連れていく。
男は最後に一度だけ、森の方を見た。
その目が、気になった。
悔しさか。
執着か。
それとも、まだ何かを残しているのか。
分からない。
ただ、一つだけは確かだった。
この男は、ただ魔物を使っただけではない。
西の森そのものに、何かを抱えている。
◇
俺はレナードを呼んだ。
「西の森用の確認項目を変えよう」
「安全札と退避場所を最優先にするのですね」
「うん。名前や数字も必要だけど、まず逃げるための札だ」
レナードはすぐに木板を構えた。
「退避場所の札。危険区域の札。荷車道と歩行道。水場、湯屋、作業場の方向札」
「それに、魔物が出た時の合図」
「はい」
「班ごとの人数確認も必要だね。誰が退避場所に来ていて、誰が来ていないか、すぐ分からないと困る」
「追加します」
ミアも口を開いた。
「湯屋へ向かう道は、普段は分かりやすくても、慌てると間違えやすいかもしれません」
「そうだね。平常時の道と、緊急時の道は分けた方がいいかも」
「はい。湯屋側にも、退避場所へ戻る案内が必要だと思います」
「それも入れよう」
ノルが周囲を見ながら言った。
「森側の作業員には、魔物が出た時の集合場所を徹底させるべきです。
逃げる方向がばらけると、守る側も動きにくい」
「うん」
今日、それを痛感した。
逃げる方向がばらければ、護衛も守れない。
退避場所が分からなければ、人が散る。
人が散れば、確認も遅れる。
読み書きは、そのためにも必要だった。
文字を読めるようにする。
数字を数えられるようにする。
それは、ただ学ぶための学びではない。
命を守るための手段だ。
◇
その後、ノルの指示で森の奥の術式跡も記録することになった。
レナードを直接奥へ連れていくのは危ない。
だから、護衛二人をつけ、短時間だけ確認させる。
俺も同行した。
場所は、さっき男を捕らえた近く。
土の上には、崩れかけた術式陣の跡が残っていた。
黒い魔石片の細かな破片。
死骸を引きずったような跡。
薬草の残り香。
第二陣が出てきた方向。
作業場までの距離。
レナードは一つずつ確認し、記録していった。
「これは……普通の魔物の出現記録とは、まったく違いますね」
「うん」
「術式陣の跡、魔石片、死骸を引きずった跡。これだけあれば、人の手が入っていることは明らかです」
「そうだね」
ただし、誰の手かは分からない。
そこを間違えてはいけない。
俺たちが今持っているのは、あくまで現場の証拠だ。
背後関係ではない。
レナードは最後に、術式跡の位置を簡単な図にした。
「これで、後から説明できます」
「ありがとう」
記録は残った。
黒い魔石片もある。
捕らえた男もいる。
これで、自然発生の魔物騒ぎとして片づけられることはない。
◇
作業場へ戻る頃には、日が少し傾き始めていた。
作業は止まっている。
木材置き場には、倒れた丸太がいくつか転がっていた。
壊れた荷車の車輪が外され、修理の準備が始まっている。
仮設柵の破れた部分には、護衛が立っていた。
退避場所には、まだ作業員たちが集まっている。
落ち着きを取り戻している者もいれば、まだ顔色の悪い者もいた。
俺は、布に包まれた黒い魔石片を見た。
ただの石ではない。
誰かが、西の森を狙った。
ハル領の開拓を止めるために。
人を怯えさせるために。
俺は、退避場所に集まる作業員たちを見た。
守るべきものが、また一つはっきりした。
黒い魔石片は、ただの証拠ではない。
ハル領を狙う悪意の形だった。