作品タイトル不明
第216話 人を育てるための確認
翌日。
俺は領都工房へ向かった。
昨日、働く人向けの学び場を見た。
そこで分かったのは、読み書きや計算が、ただの勉強ではないということだった。
自分の名前を書ける。
数字を読める。
木札を見て、置き場を間違えない。
帳面に印をつけられる。
それだけで、できる仕事は変わる。
そして、自分の賃金や仕送りの数字を自分で確かめられるようにもなる。
働く人自身を守る力にもなるのだ。
だからこそ、学び場を広げる必要がある。
ただし、その前に確認しなければならないことがある。
今、現場にいる人たちは、どこまで読めるのか。
どこまで数えられるのか。
木札や作業札をどれくらい理解しているのか。
そこが分からなければ、何から教えればいいのかも決められない。
最初に確認する場所は、領都工房にした。
石切り場や西の森でも必要だ。
だが、工房は文字、数字、木札、帳面がもっとも作業に直結する。
まずはここから始めるのがいい。
同行するのは、ノルとミア。
そして、文官のレナードだ。
集会所で教えていたヨハンにも、工房側で協力してもらうことになっている。
◇
工房に着くと、すでに作業は始まっていた。
青輝石の箱が運び込まれる。
純石の箱が並ぶ。
部品を揃える者。
箱札を確認する者。
完成した街灯を布で包む者。
荷車へ積む者。
昨日までと同じように、工房はよく動いていた。
だが、今日は少しだけ空気が違う。
作業員たちの視線が、こちらをちらちらと見ている。
工房長も、それに気づいているようだった。
「リオン様、お待ちしておりました」
「うん。今日はよろしく」
「はい。ただ……」
工房長は少し言いにくそうに周囲を見た。
「作業員たちが、少し緊張しております」
「やっぱり」
俺は工房の中を見回した。
原因は分かる。
昨日、読み書きや計算の確認を始めると伝えた。
こちらは、どこから教えればいいかを見るための確認だと思っている。
だが、受ける側からすれば違う。
読めないことを知られるのではないか。
できないと仕事を外されるのではないか。
賃金を下げられるのではないか。
そう考える者がいても不思議ではない。
ミアが小さな声で言った。
「リオン様、皆様、少し不安そうです」
「うん。先に説明した方がいいね」
ノルも頷く。
「その方がよろしいでしょう。誤解が広がる前に、はっきり伝えるべきです」
俺は工房長に言った。
「少しだけ、作業を止められる?」
「はい」
工房長が声をかけると、近くにいた作業員たちが手を止めた。
全員ではない。
火を扱う作業や、途中で止められない作業はそのままだ。
だが、補助作業に入っていた者たちが集まってくる。
ハル領の若者。
工房の見習い。
グレイヴ領から来た出稼ぎの者。
年齢も立場もばらばらだ。
俺は、彼らの前に立った。
視線が集まる。
緊張している者もいる。
目を伏せている者もいる。
俺は、ゆっくり口を開いた。
「今日やるのは、試験じゃない」
最初に、そこを言った。
何人かが顔を上げる。
「読めない人を見つけて、仕事を外すためでもない。
計算が苦手な人の賃金を下げるためでもない」
工房の中が静かになる。
「俺が知りたいのは、誰ができないかじゃない。
どこから教えれば、仕事がしやすくなるかだ」
俺は机に置かれていた木札を一つ手に取った。
「この札が読めれば、置き場を間違えにくくなる。
数字が読めれば、箱の数を自分で確かめられる。
名前が読めれば、帳面の中から自分の名前を見つけられる」
作業員たちは黙って聞いている。
「読めないのが悪いんじゃない。教わる場所がなかっただけだ」
その言葉に、何人かの表情が少し変わった。
「だから、今日の確認で仕事を取り上げることはしない。むしろ、できることを増やすために確認する」
俺は、はっきりと言った。
「できないことを責めるためじゃない。教える順番を決めるためだ」
少しだけ、空気が緩んだ。
完全に安心したわけではないだろう。
でも、最初よりは顔が上がっている。
ヨハンが小さく息を吐いたのが見えた。
レナードは、今の説明を帳面に書き留めている。
たぶん、この言い方を他の現場にも伝えるつもりなのだろう。
◇
確認は、工房で使うものを使って行った。
難しい文章を読ませることはしない。
まずは、名前。
次に、数字札。
それから、箱札。
最後に、木札と簡単な帳面。
ヨハンが前に立つ。
「では、まずこれは何の札か分かる人」
ヨハンは、街灯用青輝石の箱につける札を掲げた。
「青輝石」
一人が答える。
「はい。では、これは?」
「純石」
「そうです。では、この数字は?」
「二十」
「では、二十の箱が三つあれば?」
「……六十」
「はい」
数字を読める者は、意外と多かった。
特に、荷運びや箱詰めに入っている者は、箱の数を数える経験がある。
ただし、全員が計算できるわけではない。
二十、三十、四十のように、札として見慣れた数字は読める。
でも、それを足したり引いたりすると、急に止まる者がいる。
文字も同じだった。
青輝石。
純石。
街灯。
東置き場。
西置き場。
そうした仕事でよく見る札は、形として覚えている者がいた。
だが、新しい文字になると読めない。
自分の名前は分からないのに、工房の札だけは見分けられる者もいる。
俺はその様子を見ながら、少し驚いていた。
読み書きができるか、できないか。
そんな単純な話ではなかった。
仕事の中で覚えたものは読める。
数は数えられるが、文字は苦手。
名前は書けないが、箱札は間違えない。
簡単な足し算はできるが、帳面への記入はできない。
人によって、かなり違う。
◇
レナードが横で小さく言った。
「思っていたより、細かく分かれますね」
「うん」
「読み書きができる者、できない者、という二つに分けるだけでは足りません」
「そうだね」
俺は頷いた。
前世でも同じだった。
社員研修を作る時、全員に同じ内容を教えればいいわけではない。
すでにできる人。
少し教えればできる人。
前提から教える必要がある人。
実務ではできているが、理屈としては分かっていない人。
それを一緒にしてしまうと、誰にとっても中途半端になる。
今の工房も同じだ。
全員に同じ講習を受けさせればいいわけではない。
目の前の現場には、それぞれ違う現在地がある。
その瞬間、視界に文字が浮かんだ。
《読み書き:個人差大》
《数字理解:作業経験により補完》
《木札認識:形状記憶に依存》
《帳面記入:不足》
《教育順序:未整理》
やっぱり、そこだ。
学び場は必要だ。
だが、全員に同じことを同じ順番で教えるだけでは、効率が悪い。
必要なのは、段階を分けることだ。
◇
確認を終えた後、俺は工房長、ヨハン、レナードを集めた。
ノルとミアもそばにいる。
「分けよう」
俺が言うと、ヨハンが首を傾げた。
「分ける、とは?」
「講習の段階を分ける」
俺は机に置かれた札を見ながら言った。
「全員に同じことを教えるんじゃなくて、今どこまでできるかで、教える順番を変える」
レナードが筆を構えた。
「段階を、どのように分けますか」
「まず初級」
俺は指を一本立てる。
「自分の名前を読める。自分の名前を書ける。数字札を読める。十、二十、三十のような箱札が分かる。簡単な足し算と引き算を覚える。木札の読み方を覚える」
ヨハンが頷く。
「今の学び場で一番多い内容ですね」
「うん。次に中級」
俺は指を二本にした。
「箱数の確認。置き場の札の読み取り。簡単な帳面への印。出荷数の確認。作業札を見て、どこへ運ぶか判断できる」
工房長が真剣な顔になる。
「そこまでできれば、補助作業の幅がかなり広がります」
「最後に、帳面補助候補」
俺は三本目の指を立てた。
「数字を記録できる。名前と数を間違えずに書ける。受け取った箱数と出した箱数を比べられる。賃金や仕送りの数字も確認できる」
レナードが筆を走らせる。
「初級、中級、帳面補助候補……」
「これは身分や優劣の分け方じゃない」
俺は念を押した。
「教える順番を決めるための分け方だ」
「はい」
「それと、本人にも分かるようにしてほしい。自分が何を覚えれば次へ進めるのか」
ヨハンは少し驚いた顔をした。
「本人にも、ですか」
「うん。何を勉強しているのか分からないままだと続かない。
名前を書けるようになったら、次は数字。
数字が分かれば、箱の数。箱の数が分かれば、帳面の印。そうやって見えた方がいい」
ミアが静かに頷いた。
「できるようになったことが分かると、続けやすいでしょうね」
「そう思う」
学びは、先が見えないとつらい。
特に、大人になってから学ぶ人たちにとってはそうだ。
仕事で疲れた後に集会所へ来る。
恥ずかしさもある。
眠さもある。
それでも続けてもらうには、少しずつできることが増えていると感じられる必要がある。
◇
その時、先ほど確認を受けていた若い男が、恐る恐る近づいてきた。
グレイヴ領から来た出稼ぎの一人だ。
名前はマルク。
西の森側作業場で、柵の外に縄を拾いに行こうとして止められた若者だった。
今は工房の荷運びにも入っているらしい。
「リオン様」
「うん」
「俺、読めないと仕事を外されるのかと思ってました」
その声は、小さかった。
だが、周りにいた者たちにも聞こえた。
同じように思っていた者は、たぶん少なくない。
「違う」
俺はすぐに答えた。
「読めるようになれば、できる仕事が増える。そのための確認だ」
「できる仕事が増える……」
「うん。今は荷運びが中心でも、数字が分かれば箱の数を確認できる。木札が読めれば置き場を間違えにくくなる。帳面に印をつけられるようになれば、もっと任せられる仕事が増える」
マルクは黙って聞いていた。
「でも、急に全部できる必要はない。最初は数字札だけでもいい。次に木札。その次に帳面。順番に覚えればいい」
「俺でも、できますか」
「できるようにするための学び場だ」
俺がそう言うと、マルクは少しだけ目を伏せた。
「……なら、行きます。夜のやつ」
「うん。ヨハンに言っておいて」
ヨハンが頷く。
「待っているよ」
マルクは不器用に頭を下げ、持ち場へ戻っていった。
その背中を見ながら、俺は胸の奥で少しだけ息を吐いた。
伝え方を間違えれば、これは人を追い詰めるものになる。
だが、うまく伝えられれば、人を前へ進めるものになる。
同じ確認でも、意味はまるで違う。
◇
工房長が、少し表情を和らげて言った。
「リオン様。これなら、作業員たちも受け入れやすいかもしれません」
「そうだといいけどね」
「ただ、三段階に分けるとなると、教える側も少し増やす必要があります」
「ヨハン一人では厳しい?」
ヨハンは少し苦笑した。
「正直、人数が増えると厳しいです」
「だよね」
予想はしていた。
学び場を広げるなら、教師役も必要になる。
ただ、最初から専門の教師をそろえるのは難しい。
「まずは、帳面補助候補になれる人を、将来の教える側にも回せないか考えよう」
「教わった者が、次に教える側に回るのですか」
レナードが聞いた。
「うん。全部を教える必要はない。
数字札だけなら教えられる人、名前の書き方だけなら見られる人、木札の読み方だけなら教えられる人。
そういう形でもいい」
ノルが頷く。
「兵の訓練でも、基礎を覚えた者が次の者を見ることはあります」
「それと同じだね」
全部を一人の先生が教える必要はない。
できるようになった人が、少し下の人を見る。
それだけで、教える力は増える。
前世の会社でも、教育係を増やす時はそうだった。
完璧な人を待っていても、仕組みは広がらない。
教えられる範囲を切り出せばいい。
「レナード」
「はい」
「今日の確認結果をまとめて。初級、中級、帳面補助候補の三段階で」
「承知しました」
「それと、石切り場と西の森でも、同じように始める。ただし、工房と同じ内容をそのまま使わない」
「現場ごとに変える、ということですね」
「うん。石切り場なら、石の分類札と箱数。西の森なら、作業範囲の札、退避場所、荷車数。現場で使うものから入る」
「分かりました」
ミアが小さく言った。
「それなら、学ぶ方も意味が分かりやすいですね」
「そう思う」
読むために読むのではない。
数えるために数えるのでもない。
仕事を安全に、正しく、自分のためにも進めるために学ぶ。
それが大事だった。
◇
確認を終え、工房を出る頃には、日が傾き始めていた。
作業員たちは、それぞれの持ち場へ戻っている。
さっきまで不安そうだった者たちも、少し表情が和らいでいた。
もちろん、すべてが解決したわけではない。
読み書きが苦手なことを恥ずかしく思う者はいる。
疲れて講習に来られない者もいる。
自分には関係ないと思っている者もいる。
だが、今日の確認で一つ分かった。
できるか、できないか。
その二つで人を分けてはいけない。
人には、それぞれ現在地がある。
その違いを、できない理由にするのではなく、教える順番に変える。
それが、人を育てるということなのだと思う。